22.鋼鉄の海より来たる影
シアンたちが北区へ向うより少し前のまだ夕刻の頃。
赤く染まり始めた空の下、港の防波堤に波が鈍く打ち寄せている。
そんな港の一角に、巨大な鋼鉄の軍艦が静かに浮かんでいた。
煙突から白い蒸気を吐き出しながら、鉄と油の匂いを風に乗せて街へと流す。
その艦名は《グラナード》。
アークライン帝国軍の誇る軍艦で、古の大戦時に建造され、改修を重ねて今なお最前線を渡り歩く、帝国の威信の象徴だ。
艦首。
そこに一人、長身の男が腕を組み退屈そうに立っていた。
胸の双翼の歯車が刻まれた勲章がキラリと光る。
アークライン帝国軍大佐、ハーラン・ヴォルグナー。
ゆっくりと腕組を解き、無精ひげを撫でながらぼんやりと夕陽の沈む方向を見つめている。
左の眼窩には鈍く光る金属の義眼がはまり、夕陽を反射して橙に煌めいた。
「――大佐、無事に港への停泊が完了しました!」
背後から若い兵の声が飛ぶ。
ハーランは片眉を上げ、軽く顎を引く。
「ご苦労。……ふう、ようやく着いたか」
肩をすくめて踵を返し、港に広がる街――アルディスの街並みを眺めやる。
蒸気機関車の黒煙が線を描き、塔のような煙突からは絶え間なく白い蒸気が吹き上がっていた。
「だがな……」
彼はぽつりと呟くと、言葉を続けた。
「キース殿の言っていた“蒸気の心臓”とやらが、こんな辺境にあるとは、やはり到底思えん。まったく、軍上層部の連中は幻を追うのが好きだな……」
煙草を取り出し、火をつける。
紫煙の向こうに見える街は、どこか穏やかで戦の匂いとは無縁に見えた。
ハーランは煙を吐きながら、呟くように言う。
「――だが、命令は命令か。面倒な仕事だ」
その時、甲板の方から慌ただしい足音が響いた。
振り向くと、さきほどの兵が血相を変えて駆け寄ってくる。
「ハーラン大佐! た、大変です! ルシア様の姿が、船内のどこにも見当たりません!」
「……は?」
ハーランの目が鋭く細まる。
「消えた、だと?」
兵が息を荒げて頷いた。
ハーランは深く息を吐き、下唇を噛む。
「……だからガキの相手は嫌なんだ。子どもの“気まぐれ”は軍規とは無縁のものだからな」
指でこめかみを押さえながら、ぼそりと命じた。
「まあいい…まず優先するのはアレだからな。平和を垂れ流し続ける老いぼれの娘なぞ放っておけ」
その声音に冗談めいた響きはなかった。
兵たちは一斉に敬礼し、慌てて散っていく。
艦上に残されたハーランは、再びため息をついた。
「全く……。同行したいなどと言い出した時から嫌な予感はしていたが……。案の定だ」
彼の言葉を遮るように、背後で軋む音がした。
荷積みされた木箱の影から、二つの黒い影がふらりと現れる。
長い外套に額に赤い鉢巻を巻いた巨漢と、蛇のように細身で緑色の髪をした男。
彼らは無言のまま歩み寄ると、片膝をつきハーランに敬意を示す。
「聞こえていたな、どうやら仕事が増えてしまったようだ」
ハーランが言うと、二人は静かに頷いた。
「……構わん、俺は命令されたことをこなすだけだ」
「そうそう。アタシたちは、ハーランちゃんが下す指示に従うだけよ」
そう告げると二人はゆっくりと立ち上がり、ハーランの前からゆっくりと離れていく。
「ここからはお前たち二人に任せた。蒸気の心臓の回収と、ついでにルシア様の確保――頼んだぞ」
巨漢の男は背中越しその言葉を聞くと僅かに頷く。
細身の男も同様、ただ背中越しにヒラリと手を振った。
二人の影は、やがて港へと降り立ち、夕闇に紛れるように姿を消していく。
その様子を見届けると、ハーランはゆっくりと帽子のつばを下げ、海の向こうを見つめた。
遠く、水平線の先には灰色の雲が渦巻いている。
「さて……。バルナス共和国よ」
それは、海のはるか向こう側、水平線のかなたに存在するある国に対して発せられた。
かつてこのアークライン帝国に戦をしかけたバルナス共和国。
「貴様らに、現代のアークライン帝国軍の強靭さを見せてやろうじゃないか」
義眼が不気味に光る。
その口元がゆっくりと歪み、乾いた笑いが漏れた。
「くくく……。必ず貴様らを倒し、我が国に平和をもたらす」
蒸気の咆哮が再び轟く。
グラナードの船体が港に沈みゆく夕陽を背に、鉄の亡霊のような影を落としていた。
やがてハーランの姿も、街から漂ってきた蒸気の靄の中へと消えていく。
その眼の奥で、帝国の陰謀が静かに動き出していた。




