13.婆さんと帰還と“赤”の夜
街の喧騒もすっかり落ち着き、蒸気の白い霧が路地の隅を這っていた。
広場でゴード達と別れたあと、シアンは全速力で走り、今ようやくスチーム・フィールドの前にたどり着いた。
入口で立ち止まり、懐から取り出した懐中時計を開く。
針は夜のもう九時過ぎを指していた。
「うわ、マジか……。もうこんな時間なのかよ」
時計内部の歯車がカチカチと鳴る音に、彼の愚痴が溶けていく。
懐中時計の蓋をパタリと閉じると、シアンはグレンダのことを思い出し少し顔が青ざめた。
「戻ったらばあちゃんにまた“油さしてやろうか”って言われるやつだ……」
頭の中でグレンダの怒号と、それと共に頭に杖が振り下ろされることをシアンは想像した。
「ひぃ! 想像するだけで頭が痛ぇッ!」
そんな独り言をこぼしながら、スチーム・フィールドの入り口へと足を向ける。
夜風はひんやりとして、昼間の熱をすっかり奪い去っていた。遠くで歯車塔がゆっくりと回り、軋む音が街全体に響いている。
ちらりと入口横の窓を見た。
窓からは淡いランプの灯りが漏れており、作業台の影がゆらゆらと動いているのが見えた。
「……よし、静かに入れば、ワンチャン怒鳴られずに済むかも」
そう呟きながらシアン覚悟を決めると、ドアノブをそっと回し、軋む音を殺すように扉を開いた。
「……た、ただいま戻りましたぁ……」
その瞬間。
――ガツン!
頭上から鋭い痛みが走った。
視界がぐらりと揺れ、思わずしゃがみこむ。
「いってぇーーっ!」
「このバカもんがぁーっ! その止まった頭に油さしてやろうかーっ!」
目を向けると杖を構えたグレンダが、白髪を逆立てる勢いで怒鳴りつける。
「こんな時間まで何やってたんだい!? あんた昼間、トレモン商会に行ってたんだろ! まさか仕事サボってきたんじゃないだろうねぇ!」
「ち、違うって! 蒸留機はちゃんと直した! リックさんもまた酒が作れるって喜んでたよ!」
シアンはリックから貰ったジンをグレンダに見せた。
「だったらなんで九時まで帰ってこないのさ!」
「そ、それがさぁ……。そのあと色々してたらマフィアに絡まれて……」
グレンダの手がピタリと止まる。
「マフィア? もしやラッドベイルの小僧んとこの連中かい?」
「そうだよ! あの広場のとこでちょっと小競り合いになって……」
「“ちょっと”で済むあんたじゃないのは、あたしゃ知ってるよ!」
グレンダは再び杖を振り上げてシアンを追いかけ回した。
シアンは苦笑いしながら、振り回される杖をひょいひょいと避ける。
「逃げるなッ!」
「嫌だよ! それで叩かれるのが一番痛えんだからッ!」
追いかけ回しながらグレンダの説教はしばらく続いた。
ひとしきり説教をし満足したのか、グレンダはふうと息をつきその場に立ち止まった。
「……まったく、大切な日に何してんだか」
「ごめんってばあちゃん。そうだ、カイは?」
シアンが辺りを見回してカイの姿を探した。
「もう寝てるよ、二階でね。もうグッスリさ、今日もあの子は朝からよう働いたからね……。誰かさんと違って」
ギロリと睨まれ、シアンは首をすくめる。
「ご、ごめんってば……」
「で、あんたわかってんのかい?」
グレンダの意味深な発言にシアンは目を丸くする。
「え?」
「“赤”はもう来てるよ」
その言葉に、シアンの表情が一変した。
「マジか……。もうそんな時間か……」
「まったく。せっかくの来訪に遅刻とは、礼儀もへったくれもないね」
グレンダは杖をグッと握り、モノクルを直すと、工房奥の鉄扉へ向かう。
「さっさと荷物置いて、地下に降りるよ」
「わかった」
シアンは肩の工具箱を下ろし、義手を軽く叩いて作動音を確かめる。
ギュイン、と低い駆動音が響く。
「……よし、動くな。さっきの喧嘩で壊れてなくてよかった。」
グレンダが扉のレバーを引くと、歯車が噛み合うような重い音が響いた。
鉄と油の匂いが濃くなる。奥からは低く唸るような蒸気の音。
「さて、降りようかね。待たせちゃ悪い」
「……ああ」
奥の開かずの間とされる扉の向こうには、厚い霧のような蒸気の靄が広がっていた。
スチーム・フィールドの地下室――
そこは、街の誰も知らない秘密の空間。
そして、今夜“赤”と呼ばれる何かがそこに現れている。
シアンは首を鳴らし、深く息を吸った。
「さて……お出ましか。今夜は波乱の予感しかしねぇな」
彼の呟きを背に、鉄扉は音を立てて閉じた。




