117. 狼の寝床は静かに目を覚ます
昼の喧騒がようやく落ち着いたアルディスのレストラン《サルバトーレ》。
客たちの足音が途絶え、外の陽光が木の床を温く染める中、店主スコピンとウェイターのラファエルはまかないをつつきながら束の間の休息を楽しんでいた。
「ふぅ……今日も忙しかったですね、ラファエルさん」
「そうねぇ♡ でも忙しいのは良いことよぉ?」
ラファエルがカップを軽く揺らした、そのときだった。
カラン、と古い電話が鳴り始める。
「はい、レストランサルバトーレです」
受話器を取ったスコピンの顔が一瞬で柔らかくなる。
「……あら、スコピンちゃん、お久しぶり〜」
受話器から響くのは、どこか甘やかで豪快な声――
ククルカンの宿屋《狼の寝床》の店主、ホロケウカムイだ。
「ホロ子さん!お久しぶりです!」
丁寧に応対するスコピンの横から、ラファエルがちょっと貸しなさいとばかりに受話器を奪い取る。
「ホロ子! お久しぶり〜じゃないわよ、アンタこそ元気にしてたの?♡」
「ラファ子! 相変わらず元気ねぇ」
久々の会話を楽しむように二人の笑い声が混ざる。
その温かさは、店の空気さえ柔らかく変えてしまうようだった。
「昨日ね、うちに泊まりに来た子がいたのよ。アンタのこと、知ってたから連絡してあげようかなって思って」
「え? アタシを? 誰かしらそんな物好き♡」
「オレンジ髪の義手の子と、銀髪のちっちゃい子……それと金髪の可愛い女の子。三人組よ」
その瞬間、ラファエルの眉がピクリと動いた。
「……あら、それってシアンちゃんたちじゃない♡」
「まぁ、本当に? あの子がシアンちゃんだったの!」
ホロ子は少し驚いたように声を弾ませた。
「祇園ちゃんの紹介でうちに来たんだけど……何て言うか、皆どこか疲れ果てた顔をしてたのよ。特にそのシアンちゃんと、それと一緒にいた女の子。来た時は死にかけてたような顔だったわ」
その言葉の温度が変わった瞬間、ラファエルの胸の奥で何かがきゅっと縮んだ。
あの子たちを占ったときの、あのざらついた結果。
光と影が交じり合い、何か重く巨大な運命に巻き込まれる兆しがあった。
あの時は笑って送り出したが、胸の奥にはずっと残っていた不穏な鈍痛。
「……そういえばね、ホロ子。あの子たちを占ったとき、どうにも胸騒ぎのする結果が出たのよ。何か、大きな渦に飲まれるような♡」
「あら? アンタの占いはよく当たるから嫌な予感だわねぇ……」
ホロ子が重く吐息をこぼす。
「ねえちょっと! アンタ、何とかしなさいよ♡」
「えぇ!? アタシが? いやいや忙しいし!」
「アンタじゃなくて”あの子”たちを使えばいいじゃなーい♡」
その瞬間、電話先の気配がすっと変わる。
宿屋の主人ではなく、まるで何か凄まじいものを預かる参謀の気配。
「久しぶりにあの子たちを起こすなら……調整してあげないといけないわ」
「頼んだわよ♡ シアンちゃんに何かあったら……アタシ、アンタのお尻百叩きにするんだから♡」
「あらやだ! その時はその手をお尻で挟んでやるわよ!」
二人のじゃれ合いのような会話が戻るが、空気の中に漂う緊張だけは消えない。
「じゃあ準備するわ。また連絡するわね」
電話が切れる。
そして、ククルカンの《狼の寝床》でホロ子は宿の奥の奥へと進み、扉を開けた。
静寂。
まるで冷たい地底に降りてきたような、空気の密度。
そこには——。
十数体の狼型オートマトンが並び、冬眠する獣のように沈黙していた。
「さあ……あなた達。久しぶりのお仕事よ」
ホロ子が緋銅色の一体の頭を撫でると、その紅玉の目にわずかに光が宿った。
深く、獣の鼓動のような電子音が部屋の底を震わせる。
一方その頃では、電話を終えたラファエルがじっと宙を見つめていた。
「シアンくん。あの子、きっとまた無茶をしてるんでしょうね……」
「ルシアちゃんやカイくんたちも、ククルカンにいるんですか?」
「ええ、そうみたいねぇ……ほんと、忙しい子たちだわ♡」
ラファエルは笑ってみせたが、その目はどこか曇っていた。
(アタシの思い過ごしならいいんだけどね……どうにも、胸がざわつくわ♡)
スコピンは気合いを入れ直し、コック帽を被って厨房へ向かう。
「僕も負けてられないな!午後の仕込み、頑張ります!」
「そうね♡ アタシたちも頑張りましょう♡」
笑ったラファエルの胸の奥で、鈍い予兆がひときわ強く疼いた。
これは、ただの勘では終わらない——。
そんな確信だけが、静かに背筋を冷たく撫でていた。




