115. 空の上と地の下の大誤算
アークライン帝国上空。
薄曇りの空をゆっくりと切り裂きながら、一隻の飛行船がアルディスへ向かって進んでいた。
ククルカン採掘場は帝国軍によって閉鎖され、足止めを食らっていた祇園もようやく帰路につくことができたのである。
飛行船の客室では、そんな事情などどこ吹く風と言わんばかりに、祇園が豪華なソファへ深く腰掛けていた。
「はい、あーん♡」
「おっ、サンキュー♪」
差し出された葡萄を口に放り込み、満足そうに頬を緩める。
周囲には今日も大勢の美女たち。
飲み物を注ぐ者、果物を運ぶ者、肩を揉む者までいて、その光景だけ見れば飛行船というより貴族の応接室だった。
「さてさて」
葡萄を飲み込みながら、祇園はのんびりと呟く。
「そろそろシアンたちもラルゴの旦那と合流してる頃かねぇ」
彼の頭にあるのは、腕の立つ男同士が意気投合している平和な未来だった。
「ねぇダーリン」
隣の女性が首を傾げる。
「あのレストランに来てた大きな仮面の男の人いたでしょ? あの人のマントの下ってどうなってるの?」
「ん? ああ」
祇園は気軽に答える。
「あの旦那の両腕は蒸気兵装だよ。真っ黒の――」
そこまで言って、祇園の口が止まった。
(……真っ黒?)
脳裏に、シアンから聞かされた話が浮かぶ。
蒸気の心臓。地下プラント。軍との遭遇。
そして。
戦った者の後ろに大男がいた。
両腕とも真っ黒な蒸気兵装の男。
「…………」
祇園の笑顔が消える。
「……あれ?」
嫌な汗が首筋を伝う。
「待てよ……」
シアンが出会った軍人と、祇園が引き合わせた人物。
頭の中で、何かのピースがカチリと綺麗にはまった。
「…………」
数秒の沈黙の後——。
「やっべぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇッ!!」
勢いよく立ち上がった拍子にテーブルが揺れ、グラスが跳ねた。
「ど、どうしたのダーリン!?」
「急に何がやばいの!?」
美女たちが一斉に覗き込む。
祇園は両手で頭を抱えた。
「俺ぇぇぇぇぇぇぇ!! シアンにラルゴの旦那紹介しちまったぁぁぁぁぁ!!」
客室中に声が響く。
「うわあああああ!!」
頭を抱えたまま座席へ崩れ落ちる。
「俺としたことが……!」
笑うしかない。
「ひっ……ひひっ……」
乾いた笑いが漏れる。
「何やってんだ俺ぇぇぇ……。ごめんなぁ、シアァァン!!」
飛行船は何事もなかったように空を進み続ける。
その船内で一人だけ、祇園は本気で頭を抱えていた。
同じ頃。
ククルカン居住区域。
「ねぇ!」
カイが鉄仮面を覗き込む。
「おじさんの名前、教えてよ!」
「…………」
ラルゴは固まったまま、鉄仮面の下では額に汗が滲んでいた。
(まずい)
本名は名乗れない。
あの日。
この者たちの前で、敵として堂々と名乗った。
その自分の名を、今ここで口にした瞬間すべて終わる。
「あの……」
ルシアが心配そうに首を傾げる。
「大丈夫ですか?」
「また黙っちまったな」
シアンも不思議そうに笑う。
「そんなに言いにくい名前なのか?」
(違う……そうじゃない……!)
ラルゴの頭が高速で回転する。
偽名。
自然な偽名。
今すぐ思いつけ。
(何か……何かないのか……!)
その時だった。
ゴーン……
ゴーン……
居住区域の中央に建つ巨大な歯車時計塔が、十時を告げる。
ラルゴの視線が吸い寄せられた。
歯車。
歯車……。
(これだ)
「お……俺の名は……」
喉が震える。
「ハ……」
「ハ?」
三人が揃って首を傾げた。
「ハ……ハグルマンだ」
名を告げた瞬間、まるで時が止まったかのように四人の間に沈黙が落ちた。
次の瞬間、最初に吹き出したのはカイだった。
「ぶっ……!」
肩が震える。
「ハグルマンって!」
堪えきれず爆笑した。
「はははははは!!」
「おいカイ!」
シアンが慌てながらも、その笑いを止めようとカイの頭を僅かに小突いた。
「笑うなって!」
「カイくん!」
ルシアも困ったように声を上げて、カイに向けて口に指を当てて静かにさそようとする。
「失礼ですよ!」
「だ、だってぇ……!」
またラルゴを一瞥すると、カイは涙を浮かべながら笑い転げてみせた。
「ハグルマンってぇ……!」
鉄仮面の下で、ラルゴの顔は真っ赤だった。
(終わった……)
もう少しましな名前はなかったのか。
数秒前の自分を殴りたい。
そんな事を思っていると、ふとシアンがラルゴに一歩近付いて小さく微笑んだ。
「こういう仕事をしてるとな、本名を名乗れないこともあるんだよ。だよな?」
シアンはそう言いながら、ラルゴの肩をポンと叩いた。
「事情はいろいろあるもんな」
疑わない。理由も聞かない。ただ受け入れてくれる。
そんなシアンに、ラルゴは仮面の下で汗をかきながらもどこか驚いていた。
(なんで、そこまで俺を信用できるんだ……)
そんな事を思いながら、ラルゴは小さく息を吐く。
「俺のことはハグルマンと呼んでくれ」
「ああ!」
シアンは笑った。
「よろしくな、ハグルマン!」
その何気ない温かさが、胸に刺さる。
(……やめてくれ)
そんな偽名で呼ばれるたび、罪悪感だけが膨らんでいく。
「ぷっ……」
カイがまた吹き出した。
「ハグルマン……!」
「カイくん!」
ルシアの注意が飛ぶ。
「ご、ごめん……!」
笑いを堪えようとするが、肩はまだ震えていた。
ラルゴは深いため息をつく。
その姿を見て、シアンまで苦笑する。
居住区域には、四人の笑い声がゆっくりと溶けていった。
その中でただ一人だけ、鉄仮面の奥の男だけが、誰にも言えない秘密を抱えたまま静かに空を見上げていた。




