110.朝日と歩き出す三つの影
夜明け前の淡い冷気を押しのけるように朝日がククルカンの街をゆっくりと照らし始める。
その柔らかな光は宿屋《狼の寝床》の窓から静かに差し込み、まだ薄暗さの残る部屋の壁へ金色の帯を描いていた。
カチャ……カチャ……
規則正しく響く小さな金属音だけが、静まり返った部屋へ溶け込んでいく。
音の主はシアンだった。
普段なら誰よりも寝起きが悪い彼が、この日ばかりは朝早くに目を覚まし、左腕へ装着された蒸気兵装を膝の上へ乗せて丁寧に整備していた。
工具が金属へ触れるたび、小さな音とともに朝日が鈍く反射する。
昨夜、ルシアと屋上で語り合ったあと、糸が切れたように深い眠りへ落ちた。
目覚めた今は、不思議なほど身体が軽い。
胸の奥へ澱のように溜まっていた迷いが、一晩かけて静かに沈み、澄み切った水になったような感覚だった。
「まるで……旅立ったあの日みたいだな」
思わず零れた独り言とともに、シアンはリベラルナックルを見つめる。
グレンダが倒れ、心まで折れかけたあの日。
再び前を向く勇気を与えてくれたのは、この左腕に宿る《意志の鋲》だった。
「……相棒。今回も少し無茶するかもしれないけど、よろしく頼む」
優しく語りかける。
あの日、この蒸気兵装は確かに彼へ応えてくれた。
それ以来、二度と言葉を交わすことはなかったが、それでもシアンは確信していた。
この左腕には、確かに”何か”がいる。
朝日を受けた装甲が一瞬だけ煌めく。
それは偶然だったのかもしれない。
それでもシアンには、返事をもらえたような気がして思わず笑みが零れた。
「さてと……待ってろよ」
その言葉の先には、シンジュ博士がいる。
ククルカンへ進軍してきた帝国軍。
レオナールが残した”蒸気の心臓”の最後の手掛かり。
そして、アルディスで帰りを待つグレンダ。
そのすべてへ向けた約束だった。
その時、布団が小さく揺れた。
「ん……朝かぁ……あれ? 兄貴、おはよう」
目を擦りながら起き上がったカイは、すでに整備を終えようとしている兄の姿に目を丸くする。
「おはよう、カイ」
穏やかな笑顔だった。
だが、その瞳だけは昨日までと違っていた。
迷いが消えている。決意とも覚悟とも違う。
それでもカイは本能で理解した。
これから始まる出来事が、また兄や自分の運命を大きく動かす日になるのだと。
だからこそ、迷わず胸を張る。
「僕も沢山休んだからもう大丈夫! なんでもできるよ!」
守られるだけでは終わりたくない。
この兄のそばでなんでもいい、少しでも力になりたいと。
その想いが、幼い声の奥に力強く宿っていた。
その時だった。
コンコン──。
控えめなノックとともに扉が少し開き、ルシアが遠慮がちに顔を覗かせる。
「おはようございます。ホロ子さんが、朝ごはんを食べてから行きなさいって」
「おはよ。飛び込みなのにそこまでしてもらえるなんて……ありがたいよな」
三人は顔を見合わせ、小さく笑った。
食堂ではホロ子が湯気の立つスープと焼きたてのパンを並べ、まるで家族を送り出す母親のような穏やかな笑顔で迎えてくれる。
食事の途中、昨夜伝えそびれたという祇園からの伝言も聞かされた。
「協力者は、大柄で鉄仮面に黒いマントの姿だそうよ」
「そんな人が来てくれるなんてありがたいね!」
「心強いですね! ……でも、すごい装いですね」
「そうだな。でも、きっと凄い人だろうな、らできる限り頼らせてもらおう」
笑顔を交わしながらも、それぞれの胸には今日という日に向かう緊張が静かに宿っていた。
朝食を終え、いよいよ出発の時が訪れる。
宿の前まで見送りに出たホロ子は、三人へ柔らかな笑みを向けた。
「次に来る時を楽しみにしているわ」
「突然伺ったのに、本当に素敵なおもてなしをありがとうございました。今度はちゃんと、ゆっくり泊まりに来たいです」
「ええ。その時はククルカンを思い切り楽しんでちょうだい」
そう答えながらも、ホロ子の視線はそっとシアンへ向く。
(その頃には、少しは進展しているといいのだけれど)
相変わらず何も気付かない青年へ苦笑が漏れる。
(貴方ねぇ……。早くこの子の気持ちに気付きなさい。鈍感な男は損をするわよ)
当の本人はそんな視線など露ほども気付かず、いつものように屈託なく笑った。
「本当にありがとう。また必ず来るよ」
その真っ直ぐすぎる笑顔を見ていると、不思議と呆れる気持ちより応援したくなる。
(……本当に世話の焼ける子。でも、その真っ直ぐさだからこそ、この娘も惹かれたのかもしれないわね)
ホロ子は優しく微笑み、三人の背中を見送った。
朝日に照らされた三つの影は昨日よりも力強く、迷いなく居住区域へ伸びていく。
蒸気の心臓を巡る旅は、いま静かに、その核心のひとつへと足を踏み入れようとしていた。




