109. 揺らぐ刃、凍える夜
ククルカンの居住区域から少し離れた森の縁。
落ち葉が敷き詰められた小さな空き地で、ラルゴは静かに焚き火の前へ腰を下ろしていた。
夜風に揺れる小さな炎が木々を赤く照らし、吐き出した白い息は冷え切った空気へゆっくりと溶けていく。
「……ふう。やはり、夜は冷えるな」
軍人として野営には慣れている。
それでも山間の夜は骨の芯まで冷え込み、羽織っているマントの隙間から入り込む冷気は容赦なく身体を刺した。
マントの下では、両腕を覆う黒い蒸気兵装が低く唸るような駆動音を響かせる。
関節部の排気口からは白い蒸気が細く立ちのぼり、夜気へ溶けるように消えていった。
それでもラルゴは薪を足そうとはしない。
炎が大きくなれば目立つという理由もあったが、それ以上に、この身を刺す寒さが胸の奥で渦巻く迷いを少しだけ鎮めてくれる気がしていた。
揺れる炎を見つめながら、ラルゴは静かに目を細める。
(奴の言っていた”協力者”とは……一体どんな人物なのだ)
祇園が残した、たった一つの言葉。
どんな立場で、何を守ろうとしている者なのか、それはラルゴにも分からない。
だが、その存在だけが小さな棘のように胸へ引っ掛かり、どうしても頭から離れなかった。
焚き火が小さく弾け、その乾いた音を聞きながらラルゴはゆっくりと目を閉じる。
蒸気の心臓の開発。
あれだけは止めなければならない。
それだけは迷いようのない事実だった。
マルティナの計画は危険すぎる。
技術としても、思想としても、あまりにも危うい。
もし本当に彼女が蒸気の心臓を生成する術を知ってしまったら、彼女が掲げる”戦争を終わらせる力”は戦争を終わらせるどころか、この世界へ破滅を招くだろう。
それは戦争ではない。
虐殺だ。
その結末を、武人であるラルゴほど鮮明に想像できる者はいなかった。
「……だが」
静かな夜へ向かって、ラルゴはぽつりと呟く。
「俺は、戦争そのものを否定はできん」
腰に差していたナイフを静かに抜く。
月光を受けた刃は青白く輝き、その光は焚き火の赤と混ざり合って、不思議な色を映し出していた。
武人として生きてきた。
祖国を守るために拳を振り、仲間と共に命を懸けて戦う。
それがラルゴという男の誇りであり、生きる意味でもあった。
祖国アークラインを愛している。
そこに暮らす民を守りたい。
その想いだけは、一片の偽りもない。
「バルナスの魔の手から、この国を守りたい……それは紛れもなく俺の本心だ」
静かな声だった。
だが、その言葉だけは焚き火よりも熱を帯びていた。
戦争には犠牲が生まれる。
敵にも家族がいる。
味方にも家族がいる。
その現実を知った上で、それでも剣を振るう覚悟はとうの昔に決めている。
だが――。
「蒸気の心臓を手に入れ、”アレ”を起動させたら……どうなる」
ラルゴは再び焚き火へ視線を落とした。
炎は答えを拒むように揺れ続ける。
蒸気の心臓はアークラインへ絶大な力をもたらす。
確かに、その通りなのかもしれない。
だが、本当にそれだけなのだろうか。
ラルゴはゆっくりと首を横へ振った。
違う。
蒸気の心臓を手にした瞬間、この国は止まらない。
バルナス共和国の壊滅だけでは終わらず、きっとこの国の周辺諸国へも牙を剥くだろう。
今の皇帝なら、必ずそうする。
「……その戦争で、どれだけの命が失われる? 我が国の民だけではない。きっと、他国の無関係な民たちも……」
ナイフを握る手へ自然と力がこもる。
ラルゴが望む戦争は、武人同士が誇りを懸けて心を交える戦いだった。
互いに覚悟を持ち、生きるために戦う戦場。
だが、蒸気の心臓がもたらす未来は違う。
勝敗ですらない。
ただ一方が一方を蹂躙し、命を奪い尽くすだけの虐殺。
そんなものを、彼は戦争とは認めたくなかった。
焚き火が小さく弾け、舞い上がった火の粉は夜空へ昇り、無数の星々へ溶けるように消えていく。
その儚い光を見送りながらラルゴは静かに目を伏せた。
(俺が望む戦争は、誇りある戦いだ)
(だが、大将やマルティナが見ている未来は違う)
(あれは……大量破壊の儀式でしかない)
冷たい夜風が森を吹き抜け、炎は絶えず揺れ続ける。
それでも、その小さな温もりが胸の奥にある迷いまで照らすことはなかった。
蒸気の心臓の開発を止める。
それは正しい。
だが、その先は。
アークラインが蒸気の心臓を手にしたなら、結局誇りなき戦争が始まる。
どちらを選んでも、犠牲は避けられない。
ラルゴはゆっくりと目を開いた。
揺れる炎の向こうには誰もいない。
問いを投げても、答えを返してくれる者はいない。
だからこそ、自分で決めなければならない。
武人として。
そして、一人の人間として。
「……俺は、どこに立つべきなのだ」
その小さな呟きは凍てつく夜風に攫われ、満天の星空の下、静かな森の闇へと静かに溶けていった。




