107. 星空の下、青年の過去
満天の星々が降り注ぐ狼の寝床の屋上。
夜風は少し冷たく、それがかえって空気を澄ませていた。ルシアは黙って横に立つシアンの横顔を見ていた。
しばらくすると、シアンはゆっくりと口を開いた。
「そうだな……。記憶を辿ると、物心ついた頃にはもう親はいなかったんだ」
シアンは星空を見上げたまま、小さく笑った。
「最初は四歳くらいだったかな」
両親はすでに他界し、彼は貧しい親戚に引き取られていたと語った。
「俺の小さい頃に育ったスチルベインって街。帝国の東の国境沿いなんだけどさ……。めちゃくちゃ貧しい街で、どこの家にも余裕なんてなかった」
子供であるシアンは、その家で学校に通わせるのではなく労働力として扱われた。
同じ家の子ども達が学校へ行く中、シアンだけが農作業や機械仕事をしていた。
「羨ましかったよ。勉強してるやつらがさ……俺も本当は学校に行きたかったなぁ」
淡々と語る声の奥の痛みは、ルシアにも分かった。
そんなある日──。
農作業の機械に左手を巻き込まれる事故が起こった。
その結果、シアンの左手の肘より先は完全に切断となった。
労働力としての価値が失われたと判断した親戚は、しばらくするとシアンにわずかな金を渡し、家から追い出した。
「ひでえ話だよな。でも……あの街じゃ仕方なかったんだと思う。大人になった今だからこそ分かる。それだけあの街は貧しかったんだ」
シアンは自嘲気味に笑いながら、なおも続けた。
そこから始まる、宛のない放浪。
ある時期はアークラインの帝都で、物乞いをして生きていた。
「でもな……。あの煌びやかな街でそんなことしてっと、すぐ兵隊に追い払われる。結局すぐ居られなくなって……歩いて歩いて、そしてようやっとアルディスにたどり着いたんだ」
スチルベインを出てから一年。
その頃、シアンは十歳になっていた。
「……あの頃はさ。ただただ死ぬ場所を探してただけだった。片腕がないんだ。一人ぼっちのガキじゃ、蒸気義手どころか普通の義手すら買える金なんかもなかったしな」
夜風がその告白を静かに揺らした。
「でもさ、そんな俺に声をかけた人がいたんだ。アルディスの路地裏で……あの日も、こんな綺麗な夜空だった」
グレンダ。
シアンにとって、すべてを変えた人。
「“なんつー目してんだい、死人と変わらないね”って言われてさ……。考えてみりゃあ、そりゃそうだよな。俺、あの時は死にたがってたんだから」
シアンは優しく笑った。
「……でもな、それが俺の運命を変えた出会いだったんだ!」
グレンダは片腕だけのシアンを拾い、仕事を与え、働き方を教え、勉強まで教えた。
シアンを恥ずかしがることなく街の人々に紹介し、アルディスの住民たちも優しく彼を受け入れた。
「……俺、本当の名前はシアン・クロウってだけなんだ。シアン・クロウ=フィールドじゃない」
「フィールドって名字は……ばあちゃんのグレンダ・フィールドから勝手にもらった。恩返しのつもりで名乗ってる」
十一歳で町医者ノートンの手術を受け、蒸気義手を装着した。
シアンは左手のリベラルナックルと、自身の接合部に目を向けた。
「凄えんだぜ、ノートン先生って。あ、今度ルシアにも紹介するからな。俺にとってのもうひとつの家族さ!」
十四歳でグレンダの裏稼業を手伝い始めた。
「最初はさ、街に来た強盗を捕まえるってやつだったんだけどさ! それが凄い怖かったんだよ!」
十六歳でカイが家族に加わった。
「あいつ今でこそあんな調子だけど、最初はすんげぇ暗かったんだよ!」
シアンは全てを語っても、まだ言葉を続けた。
「ノートン先生の奥さん! ルナさんって言うんだけど、もうすぐ赤ちゃんが——」
「ルシアと会ったあの日! 港の商会で酒の蒸留機直してたんだけど——」
「実はあの時、お前を追っかけてたら街でラッドベイルの奴らと喧嘩になってな——」
「警察のゴードさんは良い人なんだけど、説教が長くてさ。あ! ゴードさんときたら、フィーナの話もしねえとな——」
シアンは思い出したように、次から次へと語り続けた。
しばらくすると、ふと口を閉ざしアルディスのある方角に向いてシアンは目を細めた。
まるで、その先に住む人たちの顔を思い浮かべるように。
「俺はさ……あの街に救われたんだ。ばあちゃんと、街のみんなに」
「だから、蒸気の心臓は絶対に軍に渡すわけにはいかないんだ。あの街の人たちを守りたい、笑顔も、夢も。俺の命に代えてでも」
シアンはもう一度、夜空を見上げた。
「長くなっちまったな! 悪いな!」
そう言ってルシアを見ると、彼女の頬には涙がつたっていた。
「お、おい!?どうしたんだよ!?」
「ご、ごめんなさい……!」
涙の理由は悲しみだけではない。
シアンの身の上話を聞き、自分も幼い頃に母を亡くしたことを思い出してしまったこと。
シアンの過酷な過去に胸が締めつけられたこと。
しかしそれでも真っ直ぐに、優しさを失わずに生きてきた彼への深い感動が混ざっていた。
「わ、私も……幼い頃に母を病気で亡くして……。でも、シアンさんやカイくんはもっと辛かったのに……。それでも二人とも優しくて、強くて……」
涙の止まらないルシアの頭を、シアンはそっと撫でた。
「なあ……蒸気の心臓の件が片付いたらさ。どこでもいい……また二人でこうやって一緒に星空を見ようぜ」
そう言ってシアンはルシアに優しく微笑んだ。
「……はい……! 必ず……また二人で見ましょう……!」
夜空に瞬く星の下で、二人は確かに約束を交わした。




