105.狼の寝床
ククルカンの採掘街は、夕暮れの赤い光に包まれていた。
岩山を削って作られた街並みは、普段なら鉱員たちの声や機械の音で賑わっているはずだった。
しかし——、今は違う。
石造りの建物の隙間を吹き抜ける風の音だけが響き、所々から市民を監視するように目を光らせるアークライン帝国軍の兵士たちが、その異様な静けさをさらに際立たせていた。
そんな重苦しい空気の中、シアンたちは祇園に教えられた宿の前へと辿り着いていた。
そこにあった看板には、一匹の白い狼が堂々と描かれている。
その隣には大きく——、《狼の寝床》の文字。
「ここが祇園さんの言ってた宿か。よし、入るぞ」
シアンが迷うことなく扉に手を伸ばそうとしたその瞬間だった。
「ねえちょっと! なんでそんな平然と入ろうとしてんのさ!?」
カイの裏返る程の焦った声に、シアンはキョトンとして振り返った。
「は? 何に引っかかってるんだよ?」
怪訝そうな顔でそう言うと、カイは指を震わせながら看板を指した。
「色! 色だよ兄貴! あの看板ちゃんと見てよ! あのピンク! 絶対そういう系のところだよ!!」
そう、何の変哲もないこの宿屋の看板。
だがしかし、看板全体の色だけが、ククルカンの無骨な街並みにまったくそぐわない鮮やかな桃色だった。
隣ではルシアが固まったまま、顔をひきつらせながら看板を凝視している。
シアンは看板を見直し、呆れながらもう一度カイを見た。
「お前なあ……そんなこと気にしてる場合かよ! 祇園さんの知り合いがやってる宿だぞ!」
「兄貴はいいよ! 成人してるんだから!」
カイは腕を組んで、普段は尊敬しているはずのシアンを軽蔑するように睨みつけた。
「でもね、僕はまだ子供なんだよ! しかもお姉ちゃんなんて女の子なの!!」
十二歳の少年が必死に叫ぶ。
二人が言い争う横で、ルシアは顔を真っ赤にして両手で覆っていた。
「お、おいおい! 勘違いすんな! こんな状況で宿を選り好みしてられるかってんだ!」
シアンも焦って声を荒らげるが、その間にルシアは耳まで真っ赤になっていく。
「ええい! もういい、入るぞ!」
「嘘でしょ! 待ってよ兄貴!」
カイの制止も、思考停止したルシアにも構わず、シアンは強引に扉を開け放った。
「あわわ! 心の準備がッ——」
三人の視界に飛び込んできたものは——。
磨かれた床。整然と並ぶソファ。
壁には花瓶と鮮やかな花々が飾られ、香りがほのかに漂う。
看板の妖しいイメージとは裏腹に、清潔で温かく、客を丁寧にもてなそうとする立派な宿屋が広がっていた。
「……あれ?」
カイはぽかんと口を開ける。
「ふ。普通の宿屋だ……」
ルシアも顔を覆っていた手を外し、宿屋の中に目を向け、その看板とは予想もつかない室内に唖然としていた。
「本当ですね……すっごく綺麗です……」
「ほら見ろ! ったく二人とも想像力が逞しすぎだっての!」
シアンがカイの頭を軽く叩こうとした時だった。
「いらっしゃいませ〜!」
奥から軽やかな声が響き、三人はそちらへと目を向けた。
そこに立っていた人物を見てカイやルシアだけでなく、シアンまでもが今度は固まった。
茶色の髪に、立派に整えられた顎髭。
そこまでは良かった。
問題は、首から下だった。
シアンですら思わず言葉を失うほど、その装いは強烈だった。
胸元には小さなベルが付いていて、こちらへ歩いてくる度に可愛らしい音を鳴らしている。
そして、身につけているのは、淡い紫色の上着に緑色のスカートのメイド服。
「ようこそ《狼の寝床》へ」
その人物は優雅に一礼した。
「わたくし、店主のホロケウカムイです」
完璧な笑顔。堂々とした雰囲気。
だが、その姿との組み合わせがあまりにも強烈だった。
「ほっ、ほらね兄貴! やっぱここって……むぐっ!!」
シアンは反射的にカイの口を塞いだ。
「やめろって! 失礼なこと言うな!!」
ルシアはというと、完全に処理能力を超えたのか、ただ静かに固まっている。
「あら? どうしたのかしら?」
宿屋の店主、ホロケウカムイが柔らかい声で尋ねてくると、シアンはカイの口を押さえたまま慌てて口を開いた。
「え、えっと! 祇園さんに紹介されて来たんです! 泊まる場所がなくて!」
すると、ホロケウカムイは目を開いて思わず口に手を当てた。
「あらまあ! 祇園ちゃんのお知り合いなのね! そんなところで立ってたら風邪ひいちゃうわよ、早く入りなさい!」
嬉しそうに三人を招き入れる。
「部屋は空いてるわ。こんなタイミングに来るなんて大変だったでしょう?」
「ありがとうございます、ホロケウカムイさん」
「ふふっ、長いでしょ? ホロ子って呼んでちょうだい」
その笑顔はどこか憎めず、三人の緊張を少しずつ解いていく。
「なんかさ、ラファエルさんみたいだね兄貴」
カイがぽつりとアルディスのレストランに務めるウェイター、ラファエルの名前を口にすると、ホロケウカムイがピクリと反応した。
「あら? あなたたち、ラファ子の知り合いなの?」
「え? 店主さん、ラファエルさんとお知り合いなのですか?」
ルシアが驚くと、ホロケウカムイは笑顔で頷いた。
「知り合いどころじゃないわよ〜。腐れ縁ってやつ? ラファ子とは、昔からのオネェ仲間なの」
「ほえぇ……世界って狭いなあ」
カイが苦笑すると、シアンとルシアもなるほどと納得した。
三人の顔をしっかりと確認してから、ホロケウカムイはフロントへとぱたぱたと足を運んだ。
「僕ちゃんは元気そうだけど……あなた達二人、すっごい疲れた顔してるわね。お部屋は、男女で分けて二つでいいかしら?」
そう言って鍵を渡しながら、ちらりと窓の外へ視線を向ける。
オレンジの空の下にはほとんど人気のない街と、代わりに立つ軍兵士の影ばかり。
「早く、どこか行ってほしいものね……。あ、ごめんなさいね、暗い話しちゃって。さ、ゆっくり休んで。部屋は二階よ」
ホロ子が案内してくれ、三人はそれぞれの部屋の前に立った。
「ここよ。ゆっくり休んでね」
「ありがとうございます。ホロ子さん」
鍵を受け取り、三人はそれぞれ部屋へと入っていった。
ようやく長い一日が終わろうとしていた。




