白兎事件編37(日生楪羽)
有り得たかもしれない世界のお話。
「⋯⋯ん」
薄ぼんやりと明かりが入ってくる。
「ヒナさん」
聞き馴染みのある明るい声が聴こえて、私は意識を取り戻す。手元にはハンバーグのタネ。ずらりと並んだハンバーグのタネが早く焼いて欲しいと訴えかけている。
「ヒナさーん?」
「はっ!」
久保さんに肩を揺すられて、思わず変な声が出た。
「ヒナさん?どうしたんですかボーッとして」
「あ、えっと」
「そりゃあもうすぐ結婚する身なんだもの。忙しいわよねぇ?」
ふふふとパントリーの前で弘田さんがからかうように笑っている。
ここはレストラン『リ・カルデント』の厨房。今はランチが終わった後の閉店時間で、お店にお客さんはいない。
30席ほどの中規模レストランで、店長の奥さんが言うには今年で150周年らしい。
その割にはとても綺麗な厨房は、お店自慢の厨房だと店長が毎日欠かさず磨いている。キッチンが綺麗だと料理を作るのも楽しい。今はディナータイムの仕込みをしていたところだった。
「いいなぁ、警察のエリートと結婚。しかもイケメンで高身長。羨ましい」
私の作ったハンバーグのタネをトレイに並べながら、久保さんがぼやいている。
白いコック服に、頭にはメッシュのついた白い帽子を被って、マスクと手袋。私も同じ格好だ。
「どこで出会ったんだっけ?」
「えっと⋯⋯」
確か、⋯⋯あれ、どこだっけ。
「中学の修学旅行で迷子のヒナちゃんを助けたヒーローなのよね」
「そうなんだ」
「そうなんだって、ヒナちゃん。あなたが教えてくれたんじゃない」
パントリーに肘をついて、弘田さんが呆れたように言う。
何でだろう、良く思い出せない。ふたりのことは分かるのに、警察のエリートって誰のことなのか分からない。
久保さんは、半年前に入ってきたシェフ。
弘田さんは、もう20年もここで働いているベテランのパートさん。
私は、―――私、私?
「日生ちゃん、美味しそうなアスパラ見つけたよ」
銀色の扉を開けて、店長が入ってくる。
ふくよかな優しい店長は、高校卒業と同時に働き始めた私を丁寧に指導してくれた。ばぁちゃんに教えてもらった料理とはまた違って、レストランの料理は効率良く仕上げる事も大切なので覚えることが多くてとても楽しかったのを覚えている。
そうだ、ばぁちゃん。
今年で88歳になるんだった。顔合わせどうしようって春磨に相談されてたんだった。
ん?春磨?
「日生ちゃん?」
「ヒナさん、風邪ですか?」
心配そうな店長と久保さんが私の顔を覗き込んでくる。
私は慌てて首を振った。風邪なんか引いてない。ただ、なんだか記憶が曖昧にぼやけてしまう事があるだけだ。
「きっとマリッジブルーなのよ、ヒナちゃん」
「えぇー!?絶対幸せが約束されてるのに!?」
「アタシもそうだったもの。ヒナちゃん、まだ20歳だもんね。彼氏さんが年上とは言え、早いわよねぇ」
「僕もあと10年は待つべきだと思う」
はたち。
あれ、俺20歳だったっけ?
あ、いや俺じゃない。私。私は20歳。結婚しようと決めたのは⋯⋯ばぁちゃんが元気なうちにウェディングドレス見せてあげたいと春磨が言ってくれたから。
ウェディングドレスなんて着なくていいと言ったけど、大和が絶対着るべきだと言ってきたから。大和うるさいんだよな、女の子らしくしろっていつもグチグチ言ってくるし。
あれ、
大和って誰だっけ?
「ヒナちゃん?」
「⋯⋯っ、ポテサラ作ります!」
「わぁ、ヒナちゃん得意の高速手さばき」
「さすが小さい頃から料理に慣れ親しんだだけあるわぁ。うちも息子に手伝わせれば良かった」
ぼやきながら、弘田さんがホールの掃除に戻って行った。ホールは弘田さんのおかげでとても綺麗だ。メニューもピカピカに磨かれている。
「結婚式楽しみですね。店長、泣くんじゃないですか?」
「そりゃ泣くよぉ!あぁ、今から想像したくもない」
ふたりも話しながら、仕事に戻って行った。私はもう何も考えたくなくて、無心でじゃがいもの皮を剥き続けた。
ディナータイムが終わって、片付けを済ませて、全部終わる頃には21時前になる。
外は真っ暗だ。今は何月だっけ。秋?店長は半袖、久保さんはカーディガンを羽織っている。
店の看板の電灯を消して、店長が「お疲れ様」と自転車で帰って行った。私と久保さんも「お疲れ様でした」と返して、仕事疲れの身体をうーんと伸ばす。
「あー、美しい。勝ち組はむしろ彼氏さんの方かもですねぇ」
髪をしまっていたからぺったんこになってしまった。ちょっとだけ直そうと髪をいじっていると、久保さんが近くに寄って前髪を直してくれる。
「楪羽」
黙って前髪を直されていると、春磨の声がした。
まだスーツ姿の春磨がこちらへ歩いてくる。久保さんは少し上擦ったような声で「こんばんは!」と叫んだ。
「こんばんは。いつも楪羽がお世話になっています」
「春磨、仕事は?」
「今日は僕の勝ち。一緒に帰ろうと思って迎えに来ました」
仕事が立て込んでいる時は、春磨は帰りがとても遅い。
そういう日は大和が迎えに来てくれるけど、大和の姿はない。会いたかったな、大和。大和が誰か思い出せないけど。
「久保さんは電車だっけ?」
「ひゃ、はい!そうです!」
「駅まで送ろうか。女の子の一人歩きは危ないし」
それもそうだな。中川も石田によく言ってるもんな。
⋯⋯?あれ、誰だっけ、それ。私にそんな知り合いいたっけ?
話しているふたりの後ろを着いて行きながら、ズキズキと痛む頭がとても怖い。
私は、日生楪羽。俺は?
誰といたんだった?
誰と暮らしていた?
ここはどこ?
ここは東京。東京?そうだ、前に柳瀬と来た。柳瀬?柳瀬って誰だっけ?
―――分かんない。
顔も出てこない。声も分からない。私は一体誰の話をしているんだろう。
「じゃあ、ヒナさん!明日はゆっくり休んでくださいね!」
急に声をかけられて、私は慌てて顔を上げた。
「お、お疲れ様!」
手を振ってくれる久保さんに手を振り返して、ほっと息をつく。
涼しい夜風が頬を撫でて、チカチカと駅の明かりが瞼に差し込む。東京の駅は人通りが多い。ぼんやり立っていたら、春磨が手を繋いできた。
「楪羽、明日休みなの?」
「えっ?⋯あ、なんか店長のお母さんが調子悪いんだって。朝から病院行くからお休みにするって言ってた」
「僕は仕事なんだよね。一人で留守番するのは心配だな」
「いや、子どもじゃないんだから⋯⋯」
私はもう立派な大人だ。ついこの間大和と振袖を着て写真も撮ったんだから。
おばあちゃんがくれた着物は大事に仕舞ってある。そうだ、一緒に結婚式の髪飾り買いに行こうって言ってた。おばあちゃん、年の割にすごく元気で張り切ってたな。
夜風を受けながら、春磨と手を繋いだまま歩く。
ガードレール越しに車が走っている。通りすがりの人達が楽しそうに話していたり、俯いて歩いていたり、ひとりだったりたくさんだったり様々だ。
「楪羽、うちの母が紫乃おばあちゃんに会うの楽しみにしてたよ。楪羽が受け継いだ味の元祖を味わえるのねって、すごく喜んでた」
「春磨のお母さんも料理上手だよ。あれ美味しかったな⋯⋯グラタンのやつ」
「肉味噌グラタン?」
「うん。私あれ大好き」
春磨のお母さんはいつも綺麗な人で、会うと必ず「まぁまぁまぁ〜!」と言って抱き締めてくれる。
いい匂いがして、柔らかくて安心するからすごく大好き。私はお母さんって良く知らないけど、春磨のお母さんは優しいお母さんなんだなって分かるから。
おばあちゃんも会ったら抱き締めてくれるけど。おばあちゃん、小さくなっちゃったから私の方から抱き締めてあげたいなと思うようになった。
昔はあんなに大きく感じたのにな。走り回って転んだ時、おんぶしてくれた背中が広くて安心したんだ。
そうだ、おばあちゃんに会いに行こうかな。明日お休みだし、おじいちゃんにも会いたい。
「明日おばあちゃんのとこに行ってくる」
「それなら安心」
「春磨は心配しすぎ」
「そうかな」
春磨のマンションは『リ・カルデント』のすぐ側で、自動ドアを通った先に指紋を通す機械がある。
春磨が指を添えて、今度はマンションへ繋がる自動ドアが開いた。広いホールには受付カウンターがあるけど、受付の人はもういない。時計はもう21時30分を指している。
「お腹すいたぁ」
「お姫様。ディナーの用意は出来てますよ」
「やった!」
15時にお昼を食べてから何も口にしていないからさすがにお腹がペコペコだ。
お腹をさすりながらエレベーターに乗り込む。春磨が12階を押して、振り返ったと思ったら急に顔が近付いてきた。
あ、と、
思わず両手で春磨の顔を塞ぐ。不思議そうな顔をされてしまった。たぶん、私も不思議そうな顔をしていると思う。
「楪羽?」
「⋯⋯だめ」
なんか、だめな気がする。
誰かの顔がよぎった。誰かは分からないけど、なんだろう、春磨とキスなんかいつもしてるはずなのに。
キス?
って何?したことあったっけ?
ぐるぐる考えていたら、閉まりかけたエレベーターのドアがまた開いた。
お母さんと子どもが入ってくる。ふたりは私達に頭を下げて、8階のボタンを押した。
私は春磨の顔を見られなくて、下を向いていた。視界に入り込んできた小さな男の子が、私に向かってにこりと笑いかけてくれる。
嬉しくて笑い返すと、男の子は照れたように顔に小さな手を当てて離れて行った。顔を上げると、お母さんにぺこりと頭を下げられる。
8階について、ふたりがエレベーターから降りて行った。手を振ってくれるふたりに手を振り返していると、春磨がふっと小さく吹き出す。
「確かに、子どもの前では出来ないね」
何を?と聞く前に、春磨の顔が近付いてきた。
唇に何かが触れる。掠めるような感触は次に押し当てられるように圧がかかって、咄嗟に逃げようとした身体を春磨の腕が閉じ込めてくる。
背の高い春磨の身体は私の身体を覆い隠すようで、逃げられる隙間が見当たらない。ようやく離れた春磨の顔は嬉しそうで、私は何も言えなかった。
「可愛い」
寝起きの先輩可愛い。
見上げる顔可愛い。
怒ってる顔も可愛い。
ご飯作ってる姿も可愛い。
『うるせーなぁもう。息するように可愛いばっかり言いやがって』
『俺にとっては呼吸も同義です。〇〇は可愛いは俺の世界の常識』
『もう好きにしろ、バカ』
うるさいくらいの可愛いのシャワーが降って、視界が弾ける。
違う。この人じゃない。
ぐわんと脳が揺さぶられる。足元がふらついて前の男にもたれかかった。
「楪羽?」
違う。その名前じゃない。
髪が肩から垂れる。長い金髪。膨らんだ胸元。そうだ、私は日生楪羽として生まれた。
日生のおばあちゃんとおじいちゃんに赤ちゃんの時に拾われて、育ててもらった。春磨と出会ったのは中学の修学旅行。迷子になった私を助けてくれた大学生のお兄さんで、そこから連絡を取り合う友達のような感覚だった。
高校を卒業する時に恋人同士になって欲しいと言われて、一緒に暮らし始めた。結婚しようと言われたのはつい一週間前。
春磨はいい人。優しくて頼りになって、手を引いて守ってくれる大人だと思う。
好きなのかどうかは、分からなかった。周りが春磨がいいって言うからそうなのかなと思ったし、別に春磨といるのは嫌じゃなかったから。
幸せが約束されてるとみんなは言ってくれる。春磨だって、幸せにすると言ってくれた。
でも『俺』は、うるさい方がいい。
「⋯⋯なんでもない」
違和感を手放すな。
ここは、違う。私の知っている世界じゃない。
記憶が混在している。まだ思い出せないことはいくつもある。分かっているのは私は「俺」だと言っていたことと、可愛い可愛いと言ってくる誰かがいたこと。
呑まれるな。気をしっかり持て。どちらが正しいか分からなくなる。
「早くご飯にしようか」
春磨の後に続いて、エレベーターを降りる。
綺麗な石が敷かれた長い廊下が続いて、春磨の家は角の部屋。もう2年近く住んでいるから身体が覚えている。
春磨がドアを開けてくれて、私を通してくれる。
いつもの事なのに、何だかむず痒い。玄関で靴を脱いで入ると、板張りの廊下の右と左に扉がある。
右が寝室で、左がお風呂。少し進んでまた扉が出てくる。ここはトイレで、突き当たりにはリビングがある。
「すぐご飯にする?」
洗面所で手を洗いながら、春磨が尋ねてきた。
「うん。お腹ペコペコ」
「じゃあ準備するから待ってて」
「うん⋯⋯」
私も手を洗うために水を出す。ふと顔を上げると、水色の瞳が目に入ってぎょっとした。
目の色が違う。
これも違和感。ふぅと息をついて、洗面所を後にする。
リビングに入ると、テーブルの上に春磨がご飯を並べてくれていた。
海鮮ピラフと、サラダと、スペアリブと、付け合せのかぼちゃグラタン。
スペアリブ、作ったことある。骨付き肉が食べたいと小さな誰かが言ったから、色々調べて作ってみたんだった。
たくさん喜んでくれて嬉しかったな。
表情が緩む。顔は思い出せないけど、きっと大切な誰かだったんだろうな。
「ありがとう、春磨」
「どういたしまして」
一緒にいただきますをして、食事を始める。
まずは腹ごしらえ。しっかり食べないと頭も働かない。
私のスマホに何か情報は入ってるかな。少しでも違和感を集めて早く抜け出さないと。
ここは、俺の居場所じゃない。
ご飯を食べ終えて、少し休憩してからお風呂に入った。
「なるほど、確かに女の身体だ」
それにしても髪が長い。なんでこんなに伸ばしてるんだろう。
背中まで伸びている。乾かすの大変そうだな⋯⋯と思っていたら、お風呂から上がったら春磨がドライヤーで乾かしてくれた。
あいつも乾かすの大変そうだったもんな。
『なぁ、髪邪魔じゃないの?』
『邪魔ですよ!今すぐ切りてぇもん!』
だったら切ればいいのに、律儀に切らずに言うこと聞いてたんだったな。
誰の言うこと聞いてたんだっけ。ぼんやりしていたら、パジャマのボタンにそっと手をかけられていた。
「わぁ!?」
せっかく着たのにまた脱がされかけている。慌てて胸元を隠して、逃げるようにベッドに潜り込んだ。
「今日はしないの?」
何を!?いや、分かるけど!
毎日してたわけじゃない!なんか覚えてるけど!いやなんでそういうことは覚えてるの!?
「し、しない!」
「明日休みなのに?」
「春磨は仕事!」
柔らかい胸をぎゅっと隠すようにして縮こまる。
知ってるけど!ずっとされてたけど!女の身体は知らないから絶対いや!
それだったら男の状態の方がマシ!⋯⋯いや、マシじゃない!なに言ってんだ俺は!!
「ふふ、可愛い」
耳にふわりとした感触が当たって、急に熱くなる。
ぞわっとする。ちがう、って思ってしまう。
違わないけど、ちがう。頭がこんがらがって、考えることを諦めそうになる。
「お休み、楪羽」
「お、おやすみ⋯⋯」
チクチクと胸が痛んで、申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
ごめんなさい、春磨。でも帰らなきゃ。どこに帰ればいいのかも分からないけど、心だけが焦ってしまう。
私がいなくなったら、春磨は傷付くかな。
それに、レストランは?
私の料理を好きだと言ってくれる春磨のお母さんは?
おばあちゃんは?
「―――⋯⋯っ」
涙が勝手に零れていく。
帰りたい。
帰りたくない。
離れたい。
離れがたい。
この違和感を手放して、もうここで『私』として暮らす方がいいよ。
顔も思い出せないあいつより、春磨の方が絶対いいに決まってる。
あいつなんて何してるか分からないし。
うるさいし。
可愛い可愛いってそれしか言わないし。
春磨だったら、お仕事もちゃんとしてるし、優しくて、頼りになって、いつも私の気持ちを大切にしてくれる。
大事にしてくれるよ。分かってる。私だってこのままここにいたいと思うよ。
―――でも、だめだよ。
帰らなきゃ。絶対帰らなきゃいけない何かがある。
スマホを手に持って、春磨に隠れて写真フォルダを開く。
何か、手がかりはないかな。違和感はないかな。
映っているのは料理の写真と、春磨と撮った旅行やお出かけの写真ばかりだ。
ずぐん、と胸が痛む。春磨といるのは幸せ。いつか子どもも欲しいねって話してたの、最後の旅行だったかな。
震える指を滑らせて、過去に遡っていく。
覚えてる。
ラベンダー畑でソフトクリームを食べたこと。
地獄温泉に行って、温泉卵を食べたこと。
期間限定のパフェがどうしても食べたくて、春磨に黙ってひとりで県を跨いで出かけたこと。
⋯⋯私、食べものばっかり。
「ふふ」
「どうしたの?」
思わず笑ってしまうと、背中越しに春磨が抱き締めてきた。
背中の温もりが心地良い。微睡みそうになる瞳を擦って、写真巡りを続けていると視線がある人で止まった。
「―――俺だ!」
弾かれるようにして身体を起こす。
写真を開いて拡大する。短い金髪、男にしては華奢な体つき、女の子に見える外見をした私と同じ顔の男の子。
あれ、でも瞳が緑だ。動かなくなった私を不審に思ってか、春磨も身体を起こす。
「どうしたの?」
「⋯⋯っ、これ、」
「あぁ、大和くん?先月ふたりで富士山登ってたね」
大和。
「双子の、大和」
「?うん、そっくりだね」
「大和⋯⋯」
富士山に登った時のことを思い出す。
大和は古着屋で働いていて、全然料理が出来ないからいつも店長さんに食べさせてもらってた。
その日は私がお弁当作るよっていったら、すごく喜んでくれた。
『ねぇ、リハ。僕おばあちゃんの肉巻きが食べたい』
『いいけど、明日ちゃんと起こしてよ。私朝弱いんだから』
『はーい。リハとお出かけ久しぶりだね。お揃いの登山服着ていっぱい写真撮ろうね』
⋯⋯いや、誰?
俺そんな顔して笑ったことないぞ。しかも僕?なんだあのなよっちい男は!
男ならゴリラを目指すべきだろ!霊長類の頂点!無駄のない筋肉と握力、凛々しい顔立ちにクールな佇まい!
『ゴリラが森に住んでたら良かったのにね』
ふ、とよぎった声。
ちゃんと掴む。絶対忘れてはいけない声だ。何に変えても守らなければならない存在。
「楪羽?」
「⋯⋯寝る!」
「うん?」
寝る直前に、LINEを開いて大和に連絡を入れる。
明日会いたいと一言だけ送って、画面を閉じた。それと同時に目を瞑って眠りに入る。
背中越しに春磨が抱きしめて、頭を撫でてくれる。
それがとても心地良くて、安心してしまうのは、もう身体が覚えてしまっているからだ。
朝起きたら、もう春磨はいなかった。
リビングに入ると、テーブルの上に朝食が置かれている。ふわぁと欠伸をして、洗面所で顔を洗おうとして、
「わぁ!?」
自分の瞳の色にまたびっくりした。
髪が落ちてきた。濡れてしまった髪をタオルで乾かして、ざっくりとひとつに結ぶ。
パジャマから着替えようとクローゼットを開けて、無心で着替えを始める。
知らないはずの下着の付け方も分かる。邪魔だなぁ、コレ。お腹見えないくらい付いてる。走ると揺れて痛そう。
胸なんかなくていいのにと大和にぼやいたら、大和は「ないよりあった方がいいよ」と真顔で答えていた。そういうものなのかな。無意識でスカートを履こうとして、
「だめだめだめだめ」
パンツスタイルに切り替える。いいか、一線は超えてはいけない。俺は男。⋯⋯のはず。なんかもう自信ないや。
急いで朝食を摂って、洗い物を済ませて、春磨の家を後にした。
大和から入っていたLINEは、「じゃあ駅前のスタバで待ち合わせね」だった。
連絡が来てからもう1時間は経っている。駅までは15分で着くけど、待たせてしまっている罪悪感からコンクリートを走り抜ける。
やっぱり胸が揺れて痛い。髪がばさばさして邪魔。
違和感が募ることが安心する。スタバの自動ドアを抜けて店内に入ると、のんびりスマホを弄っている短い金髪がいた。
「大和!」
声をかけると、大和がこちらを向く。
見上げる顔がとても俺だ。瞳の色は違うけど、やっぱり俺はこれだった!なんであっちじゃなくてこっちなんだ!?
「おはよう、リハ。今日もおねぼうさんだねぇ」
『もう、お兄ちゃんはおねぼうさんなのよ』
大和の笑顔が誰かと重なる。
同じ顔なのに、大和は私とは全然違う表情。大和の向こうの誰かを見ている私に、大和は不思議そうに首を傾げた。
「まだ寝ぼけてる?」
「あ、ぅ⋯⋯」
「カフェラテにはちみつ入れてもらってくるから、座ってて」
大和は私の手を引くと、自分の座っていた席へ座らせてレジカウンターへ向かって行った。
大和のコーヒーはいつもミルクだけが入っている。私も昔試してみたけど、やっぱり苦くて全部は飲めなかった。
『いいなぁ、ふたりともコーヒーブラックで飲めて』
『でも、✗✗はミルク入れた方が好きなのよ。お砂糖はいらないけど』
『俺もコーヒーは苦いほうがいいかな。〇〇は子供舌だもんね』
『くそー、いつかブラックで飲めるようになるからな!』
『別に飲めなくても困らないでしょ』
⋯⋯ちがう。
違う。違うんだ。そもそも私は思い違いをしている。
大和は俺じゃない。いつも困った時には手を差し伸べてくれて、転んだ時には抱き起こしてくれて、おばあちゃんの畑仕事で真っ黒になった私を見て呆れてた。
大和は、可愛いものが大好きで、キラキラを集めていた。女の子みたいなおもちゃが好きで、走り回っては怪我して帰ってくる私を心配してくれた、優しい大和。
大和は、俺じゃないよ。
「で、どうしたの?なんかあった?」
はちみつ入りのカフェラテの甘い香りが漂う。
店内はまばらに人がいて、それぞれ自分の作業に没頭していたり、笑いあっていたり、それぞれが小さな空間を形成している。
レジカウンターに人が並んでいる。たくさんあるカフェのメニュー。フードカウンターにはスコーンやサンドウィッチが並んで、仕事前によく大和とふたりでゆっくり過ごすいつもの場所だ。
大和は、褪せた青いシャツとデニムズボンを履いて、首元にはネックレスを付けている。
優しい笑顔が私の返答を待っている。大和は言葉足らずの私の言葉をいつも待ってくれて、察してくれる。
そんな優しい双子のきょうだい。
「⋯⋯私、ここじゃないところから、来たんだよ」
あぁ、私何言ってんだろう。
知らないフリしていればいいのに。こんなこと言ったって、大和を困らせるだけだよ。
けど。怖い。怖いよ。ここじゃないどこかへ帰らなきゃいけない焦燥感だけが襲ってくる。
思い出さなきゃいけないのに、思い出すことを頭が拒否している。何かがつっかかってどうしても取れない。
「大和、⋯⋯助けて」
勝手に流れてくる涙が、頬を伝って手の甲に落ちていく。
大和はカバンからハンカチを出すと、そっと差し出してくれた。恐竜がプリントされたハンカチは、中学校の時に私があげた誕生日プレゼントだ。
「ふふ。懐かしい」
「リハ、嫌な夢でも見たの?」
「ゆめ⋯⋯」
夢、でいいのかな。
夢であって欲しい。ここが現実で、私が追っているものはただの幻想で、疲れているだけだと笑い飛ばせたらどれだけ楽になるか。
「⋯⋯昔から、リハはこういう事があったよね」
大和は難しい顔をして、俯いた。
「頑なに行きたがらない場所があったり、急に飛び起きて泣き出したり⋯⋯。それに、あの子が亡くなった時も」
「あの子⋯⋯?」
「覚えてない?5歳の時、森の中で餓死してた男の子がいたんだよ。おじいちゃんが連れ帰ってきたとき、リハ は取り乱して縋りついて泣いてたんだよ」
大和の声が遠くなる。
5歳の時。森の中で見つけた男の子。
痩せ細った身体で、今にも消えてしまいそうな目をしていた。
「確か、峯岸全くんだったかな。でもリハは全然違う名前を呼んでたような⋯⋯」
「賢吾」
「そんな感じだったような?勝手に名前付けてどうしたのかなと思っ⋯⋯」
大和が息を飲むのが分かる。
視界が開ける。急速にクリアになる脳が、俺が誰だったかを導き出す。
俺は立ち上がって、店から背を向ける。帰らなければ。恐らく、敵に何か術をかけられている。
ここに長く留まってはいけない。走り出そうとする俺の腕を、大和が掴んだ。
「ちょっと、リハ」
「リハじゃない。元の世界へ帰らなきゃ」
「リハ、落ち着いて」
「リハじゃない!」
大和の腕を振り払って、声の限り叫ぶ。
人の目が俺達を射抜く。ざわざわとうるさい人の声と、雪崩込むような記憶の流入が気持ち悪い。
「賢吾のいない世界なんか嫌だ!」
「リハ⋯⋯」
「約束したんだ!俺が守ってあげるって約束したんだよ!死ぬまで一緒にいるんだ!ちゃんと死ぬまで見届けるって、⋯⋯なのに、何で!」
結局、俺は自分のことばかりだ。
賢吾と一緒に約束したのに。ここにいたいと一瞬でも思ってしまった。
思い出したくなかった。
嫌だ。ぶり返してくる。怖い。―――怖い。もう何も思い出したくないのに。
「俺は日生楪羽じゃない!私は柚木香流だよ!思い出したからもう帰らせてよ!何回思い出さなきゃいけないんだよ!何回も何回も、もう嫌だ⋯⋯っ!」
頭を抱えて、小さな子どものように蹲って。
泣き叫んだって止まらないのに、誰も助けてくれないのに、自分で何とかしなきゃならないのに。
何で、こんな何回も、―――この身体は何も受けていないはずなのに。
「香流」
名前を呼ばれて、宥めるように抱き締められた。
優しい手が、頭を包むように撫でてくれる。小さい頃から知っている、大和の手。暖かくて少し大きくて、私は昔から大和の手が好きだった。
「ゆっくり深呼吸するんだよ。過呼吸を起こしてしまう」
「⋯⋯、う⋯」
「記憶の整合を取ろう。楪羽と香流、ごちゃごちゃになってるからしんどいんだよ。まずは情報を整理してからだ」
私の顔を見て、大和がゆっくりとした口調で話す。
荒唐無稽な話を、大和は鵜呑みにしてくれる。俺はそれに驚いた。
「し、信じてくれる⋯⋯?」
「信じるも何も、妹の言うことを無碍になんてしないよ」
妹。
そうだ、私は大和の妹だったんだ。
大和は頼んでくれたカフェラテの容器を持って、私の手を引いて歩き出す。
少し背の高い背中が、ちゃんと男の人で息を飲む。手のゴツゴツした感じも、柳瀬と一緒に作り上げた大人の俺とは似ているようで全然ちがう。
作りものじゃない、本物の男の人。
それが、心底羨ましく感じた。
大和に手を引かれてたどり着いたのは、大和の家ではなくて大和が働いている古着屋さんだった。
「てんちょー、ちょっと休憩室借りるよ」
「あら、リハちゃんどうしたの?」
レジカウンターへ大和が声をかけると、お化粧をした身体の大きな男の人が顔を出す。
大和がお世話になっている店長。私はぺこりと頭を下げた。きっと泣き腫らしているであろう私の顔を見て、「あらあらあら」と店長は駆け寄ってくれる。
「あのイケメン彼氏に酷いことでもされたの?」
「そうじゃないけど、ちょっとね。僕の家よりここのが近かったから」
「あらぁ。事件ね、事件」
店長はパタパタと店の奥へ駆けて行った。
その背中を見送って、大和は私を振り返る。
「てんちょー、覚えてる?」
「大和のアパートの大家さんで、古着屋の店長さん」
「大正解」
にこっと笑って、大和も店長に続いて歩き出した。
綺麗に整然と並べられた服の山は、柚姫と柳瀬が喜びそうだ。あれでもない、これでもないと言いながら服を選ぶ姿が想像出来る。
ふたりの顔も思い出せる。あぁ、やっぱり俺は柚木香流だ。そう理解できたのに、自分の手を見て日生楪羽であることにどこかほっとしている。
大人の服から子供服のコーナーを抜けて、奥に続く重そうな扉を大和は開けた。
ギィィ、と金属の擦れ合う音を立て、薄暗いコンクリートの空間が開ける。大和は躓かないように私の手を引いてゆっくりと歩く。
いつも、ここは秘密基地みたいだなと思う。大和は私の手を引いたまま、今度は白く薄い扉を押し込んで開いた。
「悲しい時には甘いものよねぇ。チョコとクッキー好きに食べちゃってね」
折りたたみテーブルの上に藍色の箱が置かれている。その中に用意されたたくさんのお菓子を指さして店長さんはにこりと微笑んだ。
「どうぞ、ごゆっくり。何か用があったら内線かけてねぇ」
「はーい。ありがと、てんちょー」
通された部屋には、壁に備えられた白い受話器と、ロッカーが3つ並んでいた。棚の上に電気ポットもあって、その横にカップ麺が積まれている。
大和はパイプ椅子を出して、テーブルの上にさっき買ったカフェラテを置いてくれた。
「座って、一息つきなよ。僕もコーヒー入れるから」
「⋯⋯うん」
椅子に座ると、キシ、と金属が軋む音がする。
もうすっかりぬるくなった紙カップを持って、カフェラテを口に含む。はちみつの甘さとほろ苦さが広がって、ほ、と小さく息をついた。
「さて、最初から整理しようか」
電気ポットでインスタントコーヒーを入れた大和が、私の向かいに座る。
「まず僕らは、森の中で捨てられたところを日生のおじいちゃんとおばあちゃんに拾われた」
「⋯⋯俺は『永霊会』って言う宗教団体に拾われて、たぶんすぐ捨てられた」
憶測にしか過ぎないけど、柚姫が『永霊会』で暮らしていて、俺が森の中にいたんだからきっと俺はいらなかったんだろう。
生まれた時は一緒にいたはずだ。地球の双子は同時に生まれてくる。森谷もそう言っていた。
「『永霊会』?⋯⋯聞いたことないな」
「村からもっと山を上がった森の中にある建物なんだけど⋯⋯」
「あぁ、そちら側にはリハは絶対行きたがらなかったな。僕が探検しに行こうとすると大泣きして「行かないで!怖い!」って引き止めるから」
そこまで言って、大和は顎に指を添えた。
長い節ばった男の人の指が何だか違和感だ。
「⋯⋯そうだ。峯岸全くんが亡くなった事件について、おじいちゃんが調べていたな。あの子は結局父親の虐待で亡くなったんだけど、いわく付きの噂が付属されてた」
「いわく付き?」
「児童犯罪を繰り返す精神疾患患者を閉じ込めた更生施設があるって話。結局あるのかないのか分からなかったけど、そいつらに殺されたんじゃないかって噂もあったなと思って」
児童犯罪。
ガタガタと身体が勝手に震え出す。柚木香流の身体だったらこんなことにはならないはずなのに、日生楪羽の身体はとても弱くて脆い。
「⋯⋯香流?」
「あ、お、わたし、⋯っ」
「⋯⋯深呼吸して。ここは東京だよ。森の中じゃない」
深呼吸。息を吸って、吐いて、吸って、身体に酸素が染み渡るとようやく震えが落ち着いてきた。
「⋯⋯リハ。リハが魘されてた夜、僕聞いたことがあるんだよ」
「⋯⋯?」
「助けて、怖い。痛いのは嫌だ。ごめんなさい。⋯⋯繰り返し言うから、どんな夢見てるんだろうって思ってたけど、⋯きっと君と繋がってたんだね」
私の頬を撫でて、大和が苦しそうな顔で俯く。
「辛かったね」
俺と同じ顔をして、大和は私を抱きしめる。
やっぱり、大和は俺じゃないんだ。
疑念が確信に変わる。ここは、きっと有り得たかもしれないもうひとつの世界。そして俺は、『日生楪羽』なんだ。
だったら、大和は、
「大和が、柚姫⋯⋯」
「ん?」
「大和、機嫌で天気が変わったりする?機嫌悪かったら雷が落ちたり、泣いたら雨が降ったりする?」
「僕はそんなリハみたいにコロコロ機嫌は変わらないけど⋯⋯」
大和は私から離れて、うーんと小さく唸った。
その後、「あ」とぽんと両手を打つ。
「確かに、一度だけ大泣きして大雨が降ったことがあったかも」
「いつ?」
「小学校に通うことになった時、どうしてもリハとお揃いの赤いランドセルが欲しくて⋯⋯。黒は嫌だって泣いたの覚えてない?結局、僕が赤でリハが黒のランドセル背負ってたよね」
「あっ、ほんとだ!あの時は1週間くらい雨降ってたかも」
やっぱり、大和が柚姫なんだ。
なんだか急にほっとする。柚姫が側にいるようで心強い。
「僕は香流の世界では柚姫って言うの?」
大和が柔らかく微笑んで首を傾げる。
私は頷いた。柚姫がいると思うと震えも収まった。さすが柚姫のパワーはすごい。
「男と女が反対なんだよ。私が男で、大和が女。私がお兄ちゃんで、大和が妹」
「えー?リハがお兄ちゃんは頼りないな」
「そんな事ない!それに、弟がもうひとりいるんだ。俺が助けた、大事な家族」
「それが峯岸全くん⋯、あ、いや賢吾くん?」
賢吾、本当は全って言うんだ。覚えておこう。
「香流は動物と話が出来るんだけど⋯⋯。楪羽は出来ないね」
「小さい頃は話してた記憶があるよ。中学生に上がって、急に動物と話せなくなったってびっくりしてたけど」
「中学生⋯⋯」
俺は普通に動物達と話していた。なんなら今だって話せる。
その違いはなんだろう。大和はじっと私を眺めながらコーヒーを飲む。
「リハは彼氏がいるじゃない」
「彼氏、⋯⋯あ、うん。春磨のこと?」
彼氏と言う言葉の意味は知らなかったけど、楪羽が知っているので言われた言葉を理解出来る。
彼氏とは、恋人同士の違う言い方だ。
愛敬から見れば柳瀬は彼氏。
柳瀬から見れば愛敬は彼女。
そして恋人同士はお互いを大切に思って、キスをしたりちょっと口には出せないことをしたりすることもある関係だ。
「香流は彼女いるの?」
「かのじょ」
彼女とは。
脳が真っ白になった。彼女?なんで俺が?
「や、⋯⋯大和、は?」
「僕は今はいないよ。2か月前に別れたばっかり」
「今は」
「僕より可愛くなれないからって振られたんだよね。理不尽だよね、別に僕が可愛いと思ってるならそれでいいと思うんだけど。女顔だと男として見られにくいし、苦労するよね」
すごい。宇宙の話をしている。
女の子と恋人同士になるなんて考えたこともなかった。だって、私が安心するのは⋯⋯
急に出てきた赤色を振り払うようにぶんぶん首を振る。なんでなんでなんで!あんなやつより春磨の方が絶対いいから!
「柚姫は彼氏いた?」
「い、いない」
「あはは。ちょっと安心。僕が彼氏いるって思うと不思議な感覚がする。まぁ、てんちょーには彼氏いるけど」
「は!?」
店長は男の人だよな!?
男の人で、彼氏は男の人。それはアリなのか!?⋯⋯いやアリなのか!あるな、楪羽はテレビでも見たことある!
「へ、変じゃない?」
「なんで変なの?たまたま好きな人が男ってだけじゃない。まぁ僕は女の子の方が断然好きだけど」
俺の顔してすげぇこと言ってくる⋯⋯。
余程な顔をしていたのか、こちらを向いて大和はふはっと吹き出しながら笑った。
「香流は男の子が好きなんだ」
「ち、ちがう!」
「じゃあ女の子が好き?」
「それもちがう!」
「じゃあアセクシャルなんだ?その割にはリハは加瀬さんと付き合い長いけど」
お願いだから日本語を話して欲しい。
俺の顔で何言ってんだこいつ。いや、俺じゃなくて柚姫だけど。柚姫だと思うと尚意味がわからない。
「⋯⋯考えたことない」
好きな人、と言われて咄嗟に出てきた顔は春磨じゃなかった。
香流と混ざってるから、きっと、うまく頭が働かないせいだ。
香流は誰も好きになってはいけなかった。
香流はだめなひとだから、好きになったら相手の重荷になるから。
歪だから。男の身体なのにずっと女扱いされていた。謝っても媚びても喚いても縋っても無駄だった。
それならいっそ、この身体のまま―――
「香流はまだ恋を知らないんだねぇ」
大和に言われて、はっと顔を上げた。
「そんな怖い顔して考えることじゃないんだけど。あの子可愛いなぁ、好きだなぁ、触れたいなぁって第六感的な感覚が勝手に反応するものだよ」
「⋯⋯香流は、欲を持っちゃいけないから」
「それは『永霊会』に言われたこと?」
大和はそっと私の手に触れた。
「その遺恨があるから帰れないんだ、香流は」
「⋯⋯っ!」
「楪羽だったら素直に愛されていいもんね。楪羽だったら好きだって口にしていいもんね。愛して愛されて、そういう動物の基本原理的な好意に自分で制限をかけてるから君はここから抜け出せないんだよ」
「⋯⋯⋯」
そう、なのかな。
そう、なのかも。
歪でおかしな香流より、まっすぐ女の子として生きている楪羽の方がいいって、何より私自身がそう思ってる。
早く帰りたいのは、向こうの世界がどうなってるか分からないからだ。
俺がいなくなれば、世界は正常に回るだろうか。
いっそ、俺がいない方がいいんじゃないかとずっと思ってたじゃないか。
俺がいない方が、
みんな島に捉われず好きなことを出来るだろうし、
俺の過去に気を使わせることもないし、
あいつだって、他の誰かを見つけるだろうし、
「⋯⋯⋯、」
ぽた、ぽた、と滴が落ちる。
「香流。香流がどうしたいかを他人に決めさせるのはダメだよ」
それは、いつも俺が誰かに言っていたことだ。
「僕は香流の生きてきた軌跡を知らない。何があって、何がつっかかって、ここから抜けられないのか僕には分からない。きっとここは有り得た世界のひとつであって、そこに正解も不正解もないんだよ」
「で、でも、楪羽の方が正しいって思う⋯っ」
「僕からすれば香流の方だって正しいと思うよ」
諭すように言いながら、大和はハンカチで私の涙を拭った。
「人に自分の正解を求めるのは違うよ。男の人が好きな男の人だっているし、女の人が好きな女の人だっているし、人は千差万別だよ。間違ってるのは勝手に自分のモノサシでジャッジする他人の方だ」
「む、難しい⋯⋯」
「じゃあ端的シンプルに言えば、香流は香流のままでいいんだよ」
大和はテーブルの上のチョコレートの包みを取って、かさりと開いた。
茶色く丸いチョコレートを、私の口へ放り込む。鼻に抜ける甘い香りが口の中から溢れて、少しだけ心が落ち着いていく。
「僕からすれば楪羽もまだ恋を知らない赤ちゃんだけどね」
「彼氏いるのに⋯?」
「だって加瀬さんと出会ったの中学の時だよ。加瀬さん、色んな場所に連れてってくれるし、色んな経験させてくれるし、周りもみんな加瀬さんといれば幸せだよって押せ押せモードだったから流されて付き合ってるだけでしょ」
「う⋯⋯」
そこは否定できない。
楪羽の部分がチクチクと痛み出す。確かに、春磨が好きかと聞かれれば好きだと思う。でも、春磨がくれる好きを返せているかと聞かれればそれはよく分からない。
「結婚だってばあちゃんの話し出されたから決めただけで、どっちでもいいやと思ってたんじゃない?楪羽、結婚願望なかったもんね」
「や、大和は大人すぎる⋯⋯」
「そりゃあ、僕人にはモテるもん」
にこーっと大和は微笑んだ。
俺の顔なのにとても眩しい。目がチカチカする。
「どんな過去を持ってても、どんな外見をしていても、好きになる資格はあるし好きになってもらう権利もあるよ。香流にも当然あるよ」
「⋯⋯俺にはないよ」
「どうしてそう思うの?」
私は口を開いて、また閉じた。
大和を柚姫だと思うと、二の足を踏んでしまう。大和を見上げると、大和はにこりと微笑んで頭を撫でてくれた。
「僕は君の妹じゃないよ。話してごらん」
話す。
話していいの?嫌な顔しない?
大和はしない気がする。大和は凪のような人だ。どんな暴風が吹いてもそこだけはそよ風のように澄んでいる。
「⋯⋯俺、は⋯」
ゆっくり深呼吸をして、俺はそっと口を開いた。




