白兎事件編27(文化祭前日・前編・1)
(三人称視点です)
それは、自分に与えられた名前すら知らなかった。
おい、とか。お前、とか。記号のような何かで呼ばれることはあったが、画面の向こうの仲睦まじい誰かと誰かのように固有名詞を与えられることはなかった。
それでも、もうひとりがいた時はまだマシだったと思う。
視界が開けると、突然もうひとりはいなくなった。
口を開くと、もうひとりが拳を振り上げた。
もうひとりが残した何かを食べて、蛇口から出る水を飲んだ。もうひとりがいない時はそれでも快適だった。そのもうひとりが機嫌の良い時はパンを与えてくれたりもした。
最悪なのはもうひとりが機嫌の悪かった時だ。
何もしていなくても存在が邪魔だと蹴り飛ばされる。
隅に放られ、何日もいないものとして扱われる。そんな時は何も食べるものがなくて、空腹を誤魔化すようにただひたすら蛇口の水を飲んでいた。
その日も、もうひとりの機嫌は最悪だった。
いきなり腕を掴まれて、何かを被せられた。
そのまま何かに放り込まれて、ガタガタと揺れる中でひたすら身体を丸くしていた。
何も見えない。そもそも、度重なる暴力でそれの視力は極端に落ちていた。
霞む視界で、ここはいつもとは違うと、どこかへ向かっているのかと、何となく朧げに理解した。
揺れが収まり、ガチャリと音がして光が入ってきた。
もうひとりはそれを掴むと、近くの木の幹へ放り投げた。もうひとりは振り返りもしなかった。ブルン、と音がして、耳を劈く音はやがて遠くへ消えていく。
それは、言葉も知らなかった。
このまま眠ってしまえばいいのだと、理解もできなかった。
サァと風が吹き、それの周りで忙しなく音が聴こえる。
チュンチュン、ピチチチ、さわさわ、ガサガサ。
音色はやがて収束して、拡がって消えて行った。
どのくらいの時間そこにいたのか。立つことも這うことも許されなかったそれは、思考もなく時間が過ぎるのを待つばかり。
身動きひとつ取らないそれは、流れる音を聴きながらただ地面を見つめていた。
また、新しい音が聴こえる。
トン、と音がした。
軽い音だった。それの上に影が差し、それはゆっくりと顔を上げる。
光が、差した。
眩しい光だった。透けるような美しい太陽の光を閉じ込めた髪と、宝石のような瞳が視界に飛び込んだ。
くらくらするような美しさが視界を奪う。それは分からないなりに、お迎えが来たのだと、もう苦しまなくていいのだという思考が掠めていった。
美しいなにかは、もうひとりと似たような生き物のかたちをしている。けれど、もうひとりとは似ても似つかない柔らかな表情で、それの前に真っ赤ななにかを突きつけた。
「なぁ、りんごたべる?」
それは、よく分からないままに首を項垂れた。
りんごの子どもは、はい、とそれにりんごを乗せるとくるりと振り返る。
『主。その子は病気なのでは?』
「びょーき?なにそれ」
『ものが食べられなくなるのです』
「へー」
りんごの子どもは、近くに立っていたヘラジカと何かを話している。
それは、乗せられたりんごをどうしたら良いのかも分からず戸惑っていた。
気付けば足元にタヌキやリスが寄ってきて、興味深そうにまじまじとそれを見上げていた。
「じゃあねぐらへつれてかえろう。てあてならまかせろ!」
『さすが主様!』
『私達の救世主!』
「へへっ」
ぴょんぴょん跳ねながら、それの周りを動物達が取り囲んでいく。
それはひょいと動物達に担ぎ上げられた。目を白黒させるそれの前で、りんごの子どもはヘラジカに乗ると、びしっと前方を指さす。
「れっつごー!」
『おー!』
それは訳の分からないまま、りんごの子どもの言うねぐらへと連れて行かれた。
森の中を抜けて、太い木の幹の中にりんごの子どものねぐらはあった。
空洞の中に枯葉を敷き詰めて、その上にそれは寝かされる。りんごの子どもはりんごを持つと、うーん、と首を傾げた。
「これどうしよう?」
『潰しましょう』
「どうやって?」
『棒を集めて参ります!』
『それでは私は歯で皿を作りましょう!』
「すごいすごい!」
パチパチとりんごの子どもが拍手をする。
動物達は一斉にどこかへと走っていった。りんごの子どもはそれを振り返ると、ぽんぽんとぼさぼさの頭を撫でた。
「もうひとりがこれするとぽかぽかするんだ。ぽかぽかする?」
ぽかぽか、する。
それはじっとりんごの子どもを見上げた。りんごの子どもはふわっと笑って、その笑顔もとても美しかった。
こうして、何とかすりおろしりんごを与えられたそれは、その夜はぐっすりと眠りについた。
りんごの子どもはそれ以降もりんごを持ってきた。
何日か過ぎると、それは少し身体を起こせるようになった。そしてまた何日か過ぎて目を覚ますと、りんごの子どもがふたりに増えていた。
「わぁ、ほんとににんげんのこどもなのよ!」
「ほら、やっぱりあっちがうそつきだっただろ」
「さいしょからしんじてたもん!」
同じ顔がふたつある。
けれど、着ているものが全然違う。
ひとりは、美しいりんご色の着物を着ている。ひとりは、薄汚れただぼだぼのTシャツを被っている。
髪の長さも同じ。瞳の色も同じ。
でも、どちらがいつもいるりんごの子どもなのかはそれにはすぐ理解出来た。
「あ、たのまれてたものもってきたのよ」
着物の子どもが風呂敷包みを差し出した。
りんごの子どもはそれを受け取って、ぱさりと広げる。中にはおにぎりと、卵焼きが入っている。
「もうたべれるかな」
りんごの子どもはそれに向かっておにぎりを差し出した。
それは初めて見る食べ物に少し躊躇いを見せた。それでもじっと見つめる同じ顔に耐えきれず、ぱくりと口に含む。
「⋯おいしい」
それは、素直に口に出した。
声を出してもここでは殴られることはない。蹴られることもない。そのことが理解出来たから。
「よかったな!」
りんごの子どもは、お日様みたいだった。
それは初めて泣いた。急に泣き出したそれは、今生まれたように大粒の涙をポロポロと零しながら声を上げた。
りんごの子どもは、抱きしめてくれた。
着物の子どもは、頭を撫でてくれた。
温かい。温かくて、苦しくて、ずっと胸が痛い。
ようやく、この世に生まれたことを許された気がした。
それから、しばらくは森の中での生活が続いた。
どうやらりんごの子どもは動物の言葉が分かるようで、良く動物達と楽しそうに話していた。
りんごの子どもについて行くのは大変だったけど、置いて行かれないように必死でついて回る。そうしている内に、捨てられた子どもにも少しずつ筋力がついてきた。
言葉も、りんごの子どもと話すうちに少しずつ口に出せるようになってきた。
「これはたべられる。こっちはたべられない」
「なにがちがうの?」
「さぁ。みんながそういうから」
『主。その草は根元に毒があるのですよ』
「どくってなに?」
「たべたらよくないものだよ」
「へー!すごい、かしこい!」
『主、そのこどもを洗ってあげては?』
「わかった!いっしょにみずあびしよ!」
「わぁ、さかながいっぱい」
『主様、私達がお洋服を洗いましょう』
「どうやって?」
『私達が回すのです』
「すごいすごい!」
「もう!うずのなかはいっちゃだめだよ!」
「あっちにたくさんきいちごがあるって!」
「まって、はやいよ」
「もうひとりにもわけてあげよう!」
「くるの?」
「あとでぜったいくるから、いっしょにたべよう!」
りんごの子どもは宝石みたいにキラキラとよく笑う子どもだった。
それにつられて捨てられた子どももよく笑った。危ない道は手を繋いで歩いて、登れない木の上は動物達が手助けしてくれる。
りんごの子どもの側には必ず何かの動物がいた。
特に、ヘラジカは必ず付き添っていた。眠る時には木の幹を塞ぐように眠り、擦り傷は舐めて治そうして、とても大事にされているのがよく分かった。
とても優しい時間だった。
人としての生活ではなかったけれど、名前を呼び合うこともなかったけれど、ふたりの生活は笑顔に満ちていた。
夜は必ず寄り添い合って眠った。ふたりでいると暖かくて、捨てられた子どもはときどき涙を流してりんごの子どもにしがみついていた。
そういう時は決まって、りんごの子どもはぽんぽんと頭を撫でてくれる。
捨てられた子どもにとって、りんごの子どもは無償の愛を与えてくれる存在だった。母であり、父であり、兄であり、姉であり、そのどれでもなくてただひとりの家族だった。
大人に切り捨てられた子ども同士の、家族ごっこだと罵られようと構わなかった。
「さて、雲雀は中にいるかな」
「現世に連れてかれてるって事はないでしょうけどねぇ」
早朝4時の警察庁はとても静かだ。
警察庁自体は24時間稼働しているが、夜間帯の職員は仮眠を取っている時間だ。黛もいつもなら家へ帰っているはずだが、鴫に確認したところ昨日から帰っていないとメッセージが来ていた。
「木戸は窓から子ども達のところへ行く?」
「そのつもりです。荷物と3人抱えて一旦柳瀬の家に避難しますよ」
「分かった、なら俺は正面から行く」
川崎はそう言うと、正面玄関へ向かって歩き出した。
何かあった時のために、警察庁の鍵はずっと預かっている。電子ロックの暗証番号も全て網羅している。
正面玄関のロックを外し、手動で自動ドアを開く。
中はしんと静まり返っていた。自動ドアを閉めると、パッ、と電気が付けられた。
「初めまして。川崎賢吾くん」
「⋯⋯初めまして」
誰もいない受付前に、その男は佇んでいた。
短い焦げ茶色の髪と瞳の、柔和な笑みをたたえた男。スーツを着たその男は、当たり前のように川崎の名を呼んで友人のように頭を下げた。
「柚木くんは?」
「信頼出来る人のところへ隠していますよ」
「あぁ、この間の大きな子かな⋯」
男は顎に手を添えて、ふむ、と呟いた。
「僕はただあの子を迎えに来ただけなのに。いたく大騒動だね」
「香流はどこへも連れて行かせません」
「⋯⋯君はあの子が可哀想だと一度も思ったことはないのかい?」
男は歩き出した。
柔らかな笑顔を崩さず、長い足を緩やかに動かす。川崎は静止してその様子を眺めていた。
「男を誘惑する容姿。第二次性徴を迎える前に成長の止まった身体。歪んだ欲を注がれ続けた、あの子の身体は歪に捻れている」
第二次性徴⋯⋯と言われ、川崎にはふと思い出した。
確かに、中学生の時に柚姫から相談を受けたことがある。
柚姫には初潮がきていない。
川崎は言葉を飲んだ。どういうことだ。香流が『永霊会』の人間を消滅させたことが成長の止まったきっかけではなかったのか?
そもそも、最初からそれ以上成長出来ないようになっていた?
「あの子は永遠に大人にはなれない。でも、僕の世界なら大人にしてあげられるんだよ」
男は、川崎の前で足を止めた。
優しい笑顔だ。そこには悪意なんて欠片もないように見える。
「正しく生まれ、正しく成長し、正しい道筋で大人にしてあげられる。それがあの子の幸せだと思わないか?」
「⋯⋯でも、香流はそうなりたいなんて思ってない」
「違うよ。そもそもここが捻れた間違いの世界なんだから、あるべき世界のあるべき姿に戻るだけだ。⋯⋯君はあの子の傷を知らないわけじゃないんだろう?僕なら、消してあげられるよ」
初めて会ったはずなのに、何故かこの男には妙な説得力がある。
まるで昔から香流のことを知っていたかのような。誰よりも長く過ごしているのは自分のはずなのに、反論出来ない。言葉を飲み込まされてしまう。
この人の言う通り、あの双子には捻れで起きた成長の限界点があったのなら。
12歳じゃない。もう少し前から成長は止まっていたのかも知れない。それなら、香流が『永霊会』の人間を消したことと成長が止まったことは全くの無関係だ。
香流が解釈した事実と、実際の現象が異なるのなら。
香流は出会った時から動物達と話していた。当たり前のようにずっと守られて愛されていた。
香流の能力が発現したのは強い意志をもって奴らを魂ごと消滅させた瞬間だと全員が理解していた。違う。香流は、もっと前から能力が発現していたんだ。
なら、もっと早くアイツらの命を奪えたはずなのに。
香流が耐えなければならない理由などなかった。こんなに長く苦しめられる必要なんてなかった。
その全てが無意味だったと言うのなら。
青ざめる川崎へ向かって、男はにこりと優しく微笑みかける。
「僕はあの子を救いに来たんだ」
それは、呪いのような言葉だった。
自分には救えなかった。何も出来なかった。壊されていく香流の変化にも気付けず、ただ庇護されていただけの赤子のような自分には、その言葉は呪い以外の何物でもない。
「上でゆっくり話そう。何があの子にとって一番の幸せなのか、一緒に考えようじゃないか」
囁くように言うと、男は踵を返した。
付いてこいということだろうか。上に黛がいるのか。
駄目だ。向こうのペースに飲まれるな。香流は香流だ。俺の兄で、大事な家族だ。香流の幸せはここにある。それだけは譲るわけにはいかないだろ。
過去の何も出来なかった自分を恥じるなら、今くらいちゃんと立て。そうでなければ、香流と共に生きていく資格なんて俺にはない。
川崎はふぅと息をつくと、黙って男の後を着いて行った。




