白兎事件編26(柳瀬の家・2)
翌日。
なるべく人目のつかない時間に警察庁へ向かうという賢吾を見送るため、早朝4時に俺と石田は玄関へ下りてきていた。
賢吾の用心棒にと木戸も付いてきた。何故か全員同じ部屋で眠っていたという狭すぎる状況だったから、俺と賢吾が準備を始めたタイミングで石田と木戸が起きてしまった。柚姫と中川はまだよく眠っている。
「じゃあ川崎さん送ってきます。先輩、送ったら帰ってくるからね!」
「はいはい。賢吾、よろしくな」
「うん。香流に繋がらないよう念の為スマホは置いて行くから、連絡手段はルフ経由でね」
「分かった」
今のところまゆから追加の連絡はないので向こうがどうなっているのか分からない。賢吾に任せきりになってしまうのが心苦しいけど、俺はここから動けないもんな。
嫌だとは言えない。まゆも賢吾も俺のことを考えて行動してくれている。
俺だけが役に立たないこの状況が、悔しくて仕方ない。
「あれ、良く考えたら警察庁に住んでる夏椎達そのままにしてるのはまずいか?」
木戸に言われて、俺ははっとした。そうだ。これは自分達だけの問題ではなかった。
警察庁には翔真がいる。もう柚木姓を名乗って生活しているし、こうなれば帰したのは失敗だったかもしれない。
週に2回は会うと約束したのに。会えない間は学校頑張ると泣いていた翔真を思い出して、俺は唇を引き結ぶ。
もういっそ俺が会いに行った方が早いかな。
最悪現世の人間の動きを止めてしまえば何とかなる。そう思って提案しようとするより早く、木戸はどこかへ電話をかけていた。
「ねぇ、しばらく子ども3人ほど預かってくんない?」
「何だ、藪から棒に」
「後で連れてくから、部屋準備しといて」
相手の許可を得る間もなく、木戸は電話を切った。
俺はぽかんとしてしまう。そんな俺と目が合うと、木戸は「うっ」と言いながら心臓を押さえた。
「顔が可愛い⋯⋯」
「そう言うのいいから。どこに電話してたんだよ」
「ジローさん」
ジローさん?
誰だっけ。と考えていると、石田の方がぽんと手を打った。
「あぁ、大天狗の治郎丸さん!」
「大天狗?何で?」
「妖怪の國は学校寮と繋がってて、かつ現世の人間は踏み込めない。夏椎達の避難場所には最適じゃないですか?」
「夏椎の外身は人間だぞ」
「その辺は自分達で何とかしてもらうって事で!」
にぱっと笑って木戸は言う。
俺が何か言う前に、木戸は俺の唇に人差し指を当てた。
「俺達が子どもの時は自分達で考えて身を守っていましたよ。いきすぎた過保護は成長を阻害します」
「⋯⋯木戸のくせに偉そうに言いやがって」
「大丈夫。アイツらも俺達くらい強くなれます。信じてやるのも大人の役割でしょ?」
木戸の手が滑って、俺の頬に触れてくる。
大きな手だ。俺とは違う『大人の男』の手。温かい手のひらに包まれたまま黙っていると、今度は額同士が触れた。
「香流は何も怖がらなくていいんだよ」
「⋯⋯別に、怖くない」
「何を怖がってんのか、後で俺にもちゃんと教えてね」
木戸の手が離れて、ぽんぽんと頭を撫でてくる。こいつのこういうところが嫌いだ。全部見透かしたように包んでくる横暴さが、子ども扱いされているようでモヤモヤする。
何も言えずに2人を見送る俺の裾を、石田が摘んできた。顔を向けると、石田は口に手を当てて嬉しそうににまにましている。
「青春だねぇ〜」
「どこがだよ。子ども扱いされただけだろ」
「お前のそういうとこが好きよ」
2人が見えなくなってから、石田は俺の肩を組んでくるりと反転させた。
まだ明け方。柳瀬も仕事中だ。
朝食にもまだ早い。この時間をどう使おうか考えていると、石田がひょいと俺の顔を覗き込んできた。
「明日、楽しみだな!」
石田は何も聞かない。
俺も何も言わない。———言えない。柳瀬と中川は受け入れてくれたけど、石田が受け入れてくれるかどうか分からないから。
だから、言えない。ずっと、友達なのに石田には隠し続けている。
「⋯⋯ごめんな」
何に対しての謝罪なのかも分からない。巻き込んでしまっているのに、疎外してしまっている。
俯く俺の肩を、石田は撫でた。それから、背中をひとつぽんと叩く。
「いいんだよ。何でも話せるのが友達って訳じゃないんだから。俺と香流は友達。俺は香流が好き。俺達はずっとそれでいいんだよ!」
「⋯⋯俺も石田のこと好きだよ」
「知ってるー!」
★★
―――『お人形さん』
ほらおいで。さっさと這いつくばって生きている事を詫びなさい。
間違えて生まれてきてごめんなさい。
誘惑してごめんなさい。
男に生まれてごめんなさい。
お前は歪で存在しているだけで罪なんだから、せめて俺達の役に立て。
言う事聞かなきゃお前の家族も同じ目に合わせるぞ。
あぁ気持ち悪い。お前は本当に気持ち悪いなぁ。
まるで向こう側の出来事のようだ。
それを俺はただぼんやりと眺めている。
分かってる。俺は歪で存在してはいけないことも。
ちゃんと分かってたんだ。でも、置いてはいけなかった。柚姫も賢吾も俺がいないと泣いてしまうから。
傷は消える。痛みは消えない。ずっと、ただひたすらに黙って耐えるだけ。
終わるのを待つだけだ。
終わったら蓋をする。見えないように。見えなければ何も感じることはないから。
今日も人形は壊される。壊れていい。どうせ治ってしまうのだから、何をしたって構わない。
だって。世界は俺以外が正しくて、俺だけが醜く歪んでいるんだから。
それなのに好きだと言ってくれるひとたちは、俺なんかよりずっと神様みたいだ。
俺は何も返せないのに。
いつか、お前なんかいらないと言われてしまわないだろうか。
目を開けると、暗闇だった。
ぞ、と背筋が寒気立つ。
ここはどこだ。混乱の中立ち上がろうとしたところで、誰かに腕を取られた。
そのまま誰かのところへなだれ込む。
「大丈夫」
ガチガチに固まった身体を解すように、とんとんと誰かが背中を撫でるように叩く。
大きな手。温かい身体。心臓の音が聴こえる。
安心、する。
うるさい鼓動がやけに心を落ち着かせるようで、俺はまた意識を手放した。
★★★★★
(木戸)
包むように抱き締めると、ふ、と落ちるように香流は眠りについた。
小さな身体を抱きしめながら、俺は壁にゆっくりもたれかかる。
「⋯⋯やっぱりさっき変だったもんなぁ」
一緒に暮らし始めてから、だんだんと香流の隠し方の癖が見えてきた。
何か怖いことや嫌なことを思い出した時、香流は一瞬呼吸が止まる。余程注意深く観察していないと分からないほど小さな変化だが、そういう日は大抵夜中に飛び上がるようにして目が覚める。
何も言わず、何もせず、ただぼんやりと起きているだけ。時々弾かれたように逃げ出そうとする時もあったけど、それでも抱きしめると落ち着いて眠りにつくので役得だなぁと思っていた。
幼い寝顔を見下ろしながら俺は小さく息をつく。
香流は嘘つきだ。
何も終わってない。何も終わらせられていない。ただ蓋をして誤魔化して、背中を向け続けているだけだ。
だから溢れてくる。継ぎ接ぎの継ぎ目から壊れていく。直しても治してもまた新しい傷が出来て、元通りに戻るわけがないのに。
柔らかな金髪を包むように抱きしめていると、もぞ、と隣のかたまりが動いた。
「⋯⋯あぁ、やっぱり」
川崎さんが起きてきた。まだ日付が変わる前だ。眠らなくても平気な俺とは違って、人間は眠らないと身体も精神も疲弊してしまう。
「今日は絶対起きると思った」
「俺がついてるから、寝てていいですよ」
「⋯⋯子ども達といる時は大丈夫だったのにね」
眠る気はないのか、川崎さんはスマホの時刻を見て身体を起こした。すやすやと眠る香流の穏やかな寝顔を見て、ほっと肩を下ろす。
「木戸がいて良かった」
「えぇ、えぇ。なんたって俺は安全圏の男ですから」
自嘲気味に俺が零すと、川崎さんはくすくすと微笑んだ。
「これ、昔からですか?」
「記憶が戻ってから、時々ね。高校生の時が一番酷かったかな」
川崎さんは手元の自分のカーディガンを香流に被せてあげた。子どもの姿で眠る香流がすっぽり覆われて可愛らしい。
「香流は日付が変わる前に起きて、日付が変わると安心したようにまた眠りにつくんだ。とても静かに起きてぼんやりしているから、最初は声をかけるのを躊躇った」
確かに、毎回確認している訳ではないけどいつもそれくらいの時間に起きてくる。
「何度か声を掛けたこともあったけど、返答があったりなかったりだったな。朝起きると忘れているから夢遊病のようなものだと思ってる」
「香流がその時間に起きてくるのって⋯⋯」
「いつも日付が変わる前に連れて行かれてたみたいだから」
腕の中の香流を抱き締め直す。
小さくて柔らかい、子ども特有の温かい身体。すやすやと眠る天使より愛らしい姿が胸を締め付けられるようだ。
「⋯⋯やっぱり、結構ひどい目にあってた?」
「俺も柚姫も詳しくは知らないし、推測の域を出ない。でも、最後の日―――村が焼かれた日の香流は、思い出したくないほど身体が壊されてた」
川崎さんは長い睫毛を伏せて、拳を握り締める。
「あと少し、森谷さんのところへ連れて行くのが遅ければ恐らく香流は死んでいたと思う。全て治るまで1週間もかかって、高熱とフラッシュバックで魘される香流に謝りながら、3人で看病して過ごした」
香流は静かな寝息を立てて、起きる気配はない。
川崎さんが香流に対して過保護になる訳だ。この人はずっと香流を救えなかった後悔と、何も知らずに過ごしていた恥と、何も出来なかった自分への怒りを抑え込んでいる。
「森谷さんが記憶を消してくれなければ、香流はまともな生活を送れなかったと思う。普通に育っていればとても優しくて、アホで、素直で、よく笑ってくれるんだ。⋯⋯それを知る度に、一生記憶なんて戻らなくていいと願ってた」
川崎さんは、泣かない。
香流が泣かないから、泣かないんだ。本当に、この兄弟はよく似ている。
「全てを忘れたまま、何も知らないまま大人になって自然とばあちゃんが亡くなったことを伝えられたらいいと思ってた。⋯⋯けれど、あの白い光に包まれて島の人達が消えてから突然香流は変わった。
いつも通りなのにばあちゃんの話をしなくなった。
いつも通りなのに家族が傷付けられるのを極端に厭うようになった。
振る舞いや言動はいつも通りなのに、違和感だけが募って⋯⋯。柳瀬伝いに記憶が戻った事を聞かされた時に合点がいった。香流にひどい無理を強いてしまっていたんだと」
トラウマが一気に振り返した香流の心情を思うと、俺だって腹立たしくて仕方がない。
でもそれは記憶を消した森谷さんに対する苛立ちではなく、ロゼッタに対する苛立ちでもなく。
俺にタイムトラベルの能力があるなら、今すぐ過去に飛んで奴らを消し去ってやりたい。
「香流は何も言わない。香流は普段は演技なんか出来ないくせに、自分の傷だけは隠すのが上手くて気付かせてくれない。
いつも落ち着きなく動くのは、立ち止まって考える時間を持ちたくないからだと知った。
自分のことを話さなくなったのは、拒絶されたくないからだと知った。
香流は怖いんだ。自分が一番自分のことを拒絶してるから、俺達もそうなるんじゃないかと怯えている」
香流は、ひたすらに表面を繕っている。
「俺達は分かっていながら、ただそれに合わせることしか出来なかった。動き回るくせに一歩も動けず、いつ割れるか分からない薄氷の上に立っている香流を救う手立てが分からなかった。どの言葉が正解で、どの対応が不正解なのか———」
川崎さんは言葉を飲んで、俺を見上げた。
「木戸が正解を引き当てるまで、俺達は何も出来なかった。⋯⋯本当に木戸には感謝してる」
「⋯⋯川崎さんは分かってねぇなぁ」
はい、と俺は香流を川崎さんへと手渡した。
「何も出来てないわけないんですよ。先輩の側から離れず、ずっと側にいていつも通りを支えてくれてた家族が先輩にとって一番大事に決まってるでしょ」
⋯⋯だから俺も守るんですよ。
香流の大事なものは俺も守る。回り回って香流のためになるなら、面倒も苦労も何だって買い尽くすと決めている。
「川崎さん達がいるお陰で、先輩は頑張れるんですよ。首の皮一枚繋がってでも、怖い気持ちをかき消してでも、家族のために必死で戦ってるんです。それなのに何も出来ないなんて言っちゃダメですよ」
「⋯⋯⋯」
「俺、先輩にはこれからも警察庁にいて欲しいです。先輩がC地区に行くとみんな寄ってくるんですよ。先輩も楽しそうで、先輩はあそこにいないといけないんです。穏やかにこの島でこれからもたくさん思い出作って欲しいから。そうしたら、きっとそのうち思い出す頻度も減っていくんじゃないかな」
俺は、香流の屈託のない明るさが大好きだから。
香流はアホだよ。真剣な相談にポンコツな回答しか出来ない。真面目な依頼はトラブル増やして帰ってくるし、なんなら知らないところで勝手に信者増やしてくるし。
いつも仕方ねぇなぁって思う。でもそれは昔から変わらないんだよ。
記憶があってもなくても、香流は香流だろ。
俺にとっては、そうなんだよ。あの時出会った大好きな香流は、ちゃんと大好きな香流のまま大人になってる。
「俺達の誰も先輩のことを拒絶しませんよ。だから、川崎さんは心配せず警察庁からアイツらを追い出すことに尽力して下さい。俺も外から出来ることはしますから」
「⋯⋯机投げてきたから?」
「机投げて来ちゃいましたからねぇ」
短慮な行動だと咎められようと、後悔はしていない。
だって香流への物扱いには腹が立ったし、香流の味方にはやべぇ奴がいるんだと知らしめたかったのもある。
黛さんだって親指を立てて激励してくれた。
踏み込んでいい領域を超えたなら、俺は一切容赦するつもりはない。
「分かった。俺は俺の出来ることをするよ」
「先輩については柳瀬と中川さんがいれば大丈夫ですよ!愛敬ももうすぐ帰ってきますしね」
「木戸はいいの?」
「俺はこれから先輩の心の支えになれる努力をするんです」
真面目に言う俺に、ふ、と川崎さんは笑った。
「頑張ってね」
「道のりは長そうですけど、諦めませんよ!さ、川崎さんは人間なんだからもう寝てください!明日は早朝に帰るんでしょ?」
「うん。4時には出るかな」
「起こしてあげますから、先輩抱えて寝てください。温かいですから、その人」
「子どもだからね」
川崎さんはやんわりと微笑んだ。その顔から苦しげな表情は消えていて、俺もつられるように笑った。
★★
木戸から受け取った香流を横たえて、カーディガンをかけ直す。
小さな身体と、幼い寝顔が出会った頃を思い出させる。側に身体を横たえて眠るのは出会った頃から変わらない。柔らかな頬に手を添えて、そっと額を合わせた。
もうすっかり恐怖心の消え去った顔をして。
香流。俺だって、同じ気持ちだよ。
手を差し伸べてくれたあの時から、香流がそこにいるだけで良かった。香流の側から離れたくない。それは間違いなく愛で、子どもの頃から一切変わりなく胸の中に存在している。
頼りない兄だ。優しい兄だ。ずっと守ってくれる強い兄だから。
香流の生活を脅かす奴らは許さない。
私利私欲で香流を利用しようとする輩には渡さない。何を敵に回そうと、香流の安穏の邪魔はさせたくない。
「早く家に帰ろうね」
おやすみの代わりに囁くと、香流の手が俺の身体に伸びてくる。
まるで小さい子をあやすように包まれる小さな手に促されるように、俺も瞳を閉じた。
★★
しばらくすると、川崎さんも眠りについた。サイズは違っても、2人並ぶと微笑ましい。どんなにイチャつこうと川崎さんは香流の弟。だから、痛くも痒くもなんともない。
「さすが先輩の弟だねぇ」
まぁ寝付きのいいことで。
もうすぐ日付が変わる。日付が変われば文化祭前日。もうすぐ『アリス作戦』決行の日だ。
俺は可愛い寝顔を拝みながら、いずれ来る香流の可愛い姿を思ってにやついていた。




