白兎事件編7(友愛と恋愛と)
(夏椎)
中川さんに促されて『兎の目』に着く頃にはすっかり翔真は中川さんに懐いていて、何ならポメラニアンになって抱っこまでされていた。
俺も人当たりの良い笑顔に絆されながら、中川さんが話してくれる今日のお出かけ内容を聞き入っていた。日本の水族館に出掛けて、港の色んな服屋さんをハシゴして帰ってきたなんて俺の知っている香流さんからは想像つかない。
「いいなぁ、水族館。楽しそう」
「島にはないもんねぇ。柚木は昔から水族館と動物園が大好きなんだよね。大人になってからも良く一緒に出掛けてるよ」
「そうなんだ⋯⋯」
―――ここまで、晃は終始無言で。
ずっと俺の背中にピタリとくっついていた。影のごとく間近で微動だにしない晃をちらちらと見てはみるものの、俺も翔真もどうすればいいのか分からない。
中川さんもエリックさんも何も言わない。ただ、微笑ましそうに俺と晃の様子をニコニコ眺めている。
「あの⋯⋯」
「何で中川さんもマスターも笑ってんの?」
「いやぁ、柳瀬も昔はこんな感じだったなぁと思って」
「僕は妹が小さい頃を思い出して」
うんうんと2人は何かを納得している。2人が何を言いたいのかがよく分からなくて、俺と翔真は顔を見合せた。
「つまり⋯⋯?」
「椎ちゃんが取られると思ったんじゃない?」
「ヤキモチだねぇ」
⋯⋯取られる?誰に?
俺が見上げると、晃はぎゅっと抱きついてきた。どうやらその答えで正解だそうだ。
そんな事言われてもどうすればいいのか分からないをべりっと引き剥がして俺は晃を見上げる。
「晃、口にしてくれなきゃ分かんないよ」
「⋯⋯夏椎が他の奴に触れるのは嫌だ」
「人助けしただけだよ」
「あの青いのに見られるのも嫌だ」
「えぇ⋯⋯」
晃の基準が理解出来ない。
あのうさぎの女の子は自分で動ける状態じゃなかったから運んだだけだ。
あの青いの⋯⋯柳瀬さんは父さんの事を知っていると言っていたし、少し怖かったけどそんな敵視するほどの事はされていない。
「⋯⋯俺は他の人と仲良くしたらダメなの?」
昔だったら。
何も考えずに側にいるだけで幸せだった。
俺と晃、2人だけの世界だったから。2人と子犬だけで完結していた小さな世界。
だって誰も関わろうとしなかったから。
でも、今は違う。
翔真は喋るし、周りの大人は優しくて、クラスメイトも温かい人達ばかりだ。
2人の世界は広くなった。
そりゃあ、10年も側にいなかった俺が悪いよ。全部忘れて、人付き合いも閉ざして生きてきたせいでこんな時も何を言えばいいのかも分からない。
でも、もう違うだろ。
もうこの世界は俺と晃だけの世界じゃない。
「晃だってクラスの友達と仲いいじゃないか」
まっすぐに晃を見上げて、俺は自分の想いを告げる。
今まで避けてきた事だ。ひとと向き合うことから逃げて、知られたくないと殻に閉じこもって、それが父さんのためになると言い聞かせてきた。
でも、俺はちゃんと関わっていくって決めたから。
俺は俺でいいと、言ってくれた人がいるから。大事な幼なじみから逃げるわけにはいかない。
「俺だけダメなのは不公平だよ」
心臓がバクバクする。
晃も俺から目を離さなかった。目を離さずに、少し怒ったように眉間を寄せる。
「俺がクラスの奴らと仲がいいって?」
晃の声が地を這うように低い。今まで聞いたことない声音に俺の体が竦む。
「そんなわけは無い。学校なんて行きたくないけど夏椎のために行ってるだけだ」
「俺のためって⋯⋯」
「夏椎だけはダメ?⋯⋯ダメに決まっている。夏椎は俺の友達だ。俺以外の友達なんて作らなくていい」
ざわざわと影が揺れる。
踊るように揺らめいて、まるで黒い炎のようだ。
ビリビリと空気が揺れているのが分かる。晃が、怒っている。幼稚園の時は怒っているのを見たことがなかったくらい優しい晃の怒りは、影の中で見た暗闇に良く似ていた。
晃に怒りをぶつけられたのは始めてだ。人の感情は俺にはコントロールが出来なくて、姿形の見えない靄の中にいるみたいだ。
「夏椎の側にいるのは俺と翔真だけでいいんだ」
俺にとって。
晃はたったひとりの友達だった。今だってそれは変わらない。
でも、晃にとっても、俺がたったひとりの友達だったなら。
10年という長い月日をどんな気持で過ごしていたんだろう。いつまでも抜け出せない長いトンネルの中で、それでも晃は俺のことを諦めずに探し続けていてくれた。
晃の影が俺の前に伸びてくる。俺がそれを拒絶出来ずにいると、ふ、と急に影が視界から姿を消した。
「落ち着いて〜」
顔を上げると、のんびりとした口調で中川さんが晃の肩をぽんぽんと叩いている。
瞬く間に元の形へ戻っていく影に、晃は目を見開いた。晃が呆然としながら中川さんを見上げると、中川さんはさっきと同じような柔らかな笑みを見せる。
「⋯⋯どうやって消した?」
「消してない。俺相手にそれが使えないだけだよ」
晃は睨み上げながら、何度か影を出そうと試みている。
けれど、影は静止していた。あるべき姿のままでいる影を見下ろして、晃は唇を引き結んだ。
「俺より強くなったら出せるかもね!」
中川さんはあくまでも穏やかな姿勢を崩さず、ぱっと晃の肩から手を離す。
その瞬間、晃の影が揺らいだ。中川さんは愛らしい仕草でこてんと小首を傾げる。
「好きで大事だからって閉じ込めようとするのはナシだよ。それは友情とは呼べないなぁ」
「⋯⋯⋯」
「人と人との付き合いはねぇ、適度な距離感が必要なんだよ。友達だっておんなじ。夏椎くんに拒絶されたくなければ、お互い心地の良い距離感をちゃんと考えないと。ねぇ、夏椎くん?」
「えっ、あ、」
急に話を振られて、俺はうろたえた。
けれど、そうだと思う。
俺だって、そうだ。
いつまでも世界を閉ざしたままじゃ、きっと、お互い息が詰まってしまう。
「⋯⋯夏椎はアイツらと仲良くしたいのか」
晃は小さく、本当に小さく呟いた。
ちゃんと聞かなければ分からないくらいの声音。だけど、聞こえる。俺にはちゃんと分かるよ。
「あの時とは違うよ、晃」
全てに拒絶されていたあの時。
俺には父さんがいた。祖父は厳しくても、木戸さんのように優しくしてくれる人もいた。
だけど、晃は違った。
親からずっと拒絶されていると話してくれた。ずっとずっと誰からも拒絶され続けて、ようやく会えた唯一の友達だった俺とも離れ離れになってしまって。
苦しかったよな。寂しかったよな。過ぎてしまった時間はもう取り戻せない。いくら俺が2人と過ごしていたって、あの頃に戻れるわけじゃない。
でも。
「俺がいなかったこの10年、出会った人達全てが晃を拒絶していたわけじゃないでしょ?」
俺には晃が周りをどんな風に思っているのかは分からない。
でも、晃の隣には翔真がいて、2人の近くにいる大人達は優しくて。クラスメイトも楽しい人達ばかりだった。
その全てから目を背けてしまうのは、きっと、すごく勿体ない事なんだ。
「俺は2人と一緒に、みんなと仲良く出来たらいいなと思うよ」
「⋯⋯⋯」
晃はしばらく俺を見つめて、やがて、影を元の形へ戻していった。
そして、いつも通り抱きしめられる。でもそれがあの時と同じ感情表現の仕方なんだと思うと懐かしくて、ぽんぽんと大きくなった背中を叩く。
晃の時間はあの時止まったままだったのかな。
あの時。俺と晃は友情も知らないただの依存関係だった。香流さんや石田先生の友人関係を見ているとよく分かる。
歪な関係だった。その歪さで救われていたあの時から抜け出したって、もう誰も俺達を拒絶しない。
「俺が他の誰かと友達になっても、ずっと晃とも友達だよ」
「⋯⋯ずっと一緒がいい」
「うん。今度こそ約束する」
「⋯⋯分かった」
晃の返事を聞いて、俺はほっとする。
その間に、翔真が突撃してきた。今度は予測していたので俺も晃もしっかり翔真を受け止める。
「おれもいるからね!」
「分かってるよ」
「だいたいさぁ、晃とおれは相棒でしょ!勝手にひとりでひとりぼっちに浸らないでよね!」
相棒。なるほど、そういう関係もあるのか。
翔真の明るさには救われる。俺も晃もつい笑ってしまうと、翔真も嬉しそうに尻尾を左右に揺らした。
「良かったねぇ」
「青春だねぇ」
「あ、パウンドケーキおかわりください」
「これで4つめだよ、中川くん」
香流さんが迎えに来たのは、それから少し経った頃だった。
★★★★★
「あのうさぎの獣人はちゃんと治療してもらえるってよ」
『兎の目』を出て歩きながら、香流さんがその後の経過を教えてくれた。
あのうさぎの女の子はまだ意識が戻らないとはいえ、命に別状はないこと。
しばらく病院で入院して経過を見ること。
子どもの面会は病棟によっては禁止しているので、今行っても会えるわけではないらしい。元気になったら会うかどうかは俺が決めていいと香流さんは言った。
「どこから来たのか分からないから、後は俺たちが何とかする。お前らは気に病むんじゃねぇぞ」
「さすがお巡りさん」
一緒に歩きながら中川さんが拍手をした。
てっきり『兎の目』で別れるものかと思っていたのに、中川さんは付いてきている。翔真は嬉しそうに隣を歩いているけれど、このまま付いてきていいのだろうか。
俺が香流さんを見上げていると、香流さんが視線に気付いて不思議そうな顔をした。
「どうした?」
「中川さんも警察官ですか?」
「いや?中川は違う」
「俺は柚木の隠れ蓑をしに行くんだよ」
「隠れ蓑?」
香流さんがしーっと中川さんに指で合図をする。中川さんは何だか嬉しそうだ。
と、その時、
「先輩!おかえり!」
交差点に立つ大きな赤色が陽気に声をかけてきた。
香流さんは呆れた顔を見せるけど、俺はその人を知っている。
真っ赤な長い髪をひとつにくくった、とても整った顔立ちの男性。時々父さんが写真を見せてくれた、同じ家に住んでいた優しいお兄さんだ。
「木戸さん!」
「お、夏椎も一緒にいたのか〜!」
木戸さんは明るい口調のまま、ひょいっと俺を抱き上げた。下にいる晃の顔が引きつっているのが見えたけど、翔真が横から「ガマンガマン」と耳打ちしている。
「あんな豆粒みたいだったのにでっかくなったなぁ」
「豆粒ではないです」
「中川は今日何食べたい?」
「昼に魚食べたから肉かなぁ」
「肉かぁ⋯⋯」
木戸さんと俺が話している間に、香流さんと中川さんはスタスタと交差点を歩いて行ってしまった。
慌てて木戸さんが俺を抱えたまま追いかける。
「ねぇ、何で置いて行くの!?」
「お前が用があったのは夏椎だ。じゃ、俺と中川は帰るからちゃんと送り届けろよ」
「方向一緒なんだよなぁ!」
後から晃と翔真も追いかけてくる。木戸さんから見える景色が高くて俺は身動きが取れない。
「中川さん、昨日先輩と寝たんですか!?」
「寝たよー。ベッドとソファーでね。ついでに今日は現世帰りだよ」
「いいなー!何で俺は誘ってくれなかったんですか!」
「お前は仕事だろ」
早足どころか走りながら会話する大人達。
この島はやっぱり大人の方が常識がない。俺は常識ある優しいクラスメイトを思い出して遠い目をした。
「ねぇ先輩、俺とデートする約束は!」
「してねぇよ。捏造すんな」
「デート?」
俺はつい疑問を口にする。
木戸さんは嬉しそうな顔で香流さんの手を捕まえた。香流さんはすごく嫌そうな顔をする。
「俺の運命の人」
運命の人と呼ばれたひとは全力で木戸さんの手を振り払おうとしている。中川さんも立ち止まって、あーあと苦笑した。
「さすがに木戸には勝てないねぇ」
「くそ、離れねぇ!」
「香流さんが木戸さんの運命の人⋯⋯?」
木戸さんから下ろされた俺は、呆然としながら2人を見上げる。
子どもの頃、この2人が知り合いなのを知らなかった。ましてや、木戸さんが見つけたと言っていた運命の人が香流さんだったなんて。
「香流さん、お綺麗ですけど男の人なんですよね⋯⋯?」
「正真正銘100%男だよ」
「木戸さんは男の人が好きなんですか⋯⋯?」
「いや?女の子が好きだけど?」
俺の頭にたくさん「?」マークが浮かぶ。後から追いついた翔真と、その後から来た晃が俺の隣にピタリと張り付いた。
「だったらさっさと彼女でも作ってこいよ」
「先輩より可愛くて優しい子がいたら考えてもいいけどなぁ」
「そうか。早く見つかることを願ってるよ。ほら、もういいだろ。離せ」
「やだ」
香流さんが必死で引っ張っても、木戸さんはニコニコしたままだ。
見た目だけは美男美女でお似合いだと思うけど⋯⋯。恋愛経験値のない俺には口は挟めない。友達の中川さんも止めるつもりはないようだ。
「俺は男だから、彼女にはならない!」
「やだなぁ、俺にとっては先輩の性別なんて些末な問題ですよ」
往来の真ん中で2人が言い争いをしている。
通りすがるひと達に見られていることに気付いた香流さんが、もう諦めて先へ歩き出そうとした。
でも木戸さんは動く気がないようで、香流さんの足は一定距離以上は進まない。香流さんは木戸さんをきっと睨み上げた。けれど、その視線を受けた木戸さんは何だか幸せそうだ。
「今日も俺の先輩は可愛い」
「うぜぇー⋯⋯」
「あ、夏椎。島へ帰ってこられて良かったな」
「あ、はい」
「大事なお友達と末永く仲良くしろよー。何か困ったことがあったら相談に乗るから」
木戸さんは香流さんの手を繋いだまま、順番にぽんぽんと俺達3人の頭を撫でた。
屈託のない笑顔は昔と変わらない。俺を膝に乗せて絵本を読んでくれたあの時の木戸さんのままだ。
俺はつい表情を緩ませた。びっくりしたけど、そんな木戸さんが香流さんを運命の人と言うならきっとそう⋯⋯
⋯⋯いや、そうなの?
「木戸さん」
「何?」
「なんで香流さんなんですか?」
アメリカでも女同士、男同士の恋人関係は見たことあるし、オープンなお国柄だったから俺はそこに抵抗はない。
なくとも、分からない。木戸さんは確かに女の子が好きだった。黒服のおじさん達とテレビを見ながらそんな話をしていたのは覚えている。
巨乳がどうとか、美尻がどうとか、5歳児の前で話す内容ではなかったんじゃないかと今なら思うけど。
「なんでって⋯⋯」
「木戸。子ども相手だから言い方に配慮するように」
ピシャリと中川さんが話を遮った。香流さんが複雑そうに眉根を寄せている。
そんな香流さんを見て、木戸さんはふにゃりと眉尻を下げた。
「魂が好き」
「魂⋯⋯」
「どんな見た目でも、どんな性別でも、どんな声でも、どんな空気を纏ってても俺にはこの人しかいない。だから先輩が俺の運命の人だよ」
「言い方がうざい」
「相変わらず重い」
「子ども達。後輩に冷たいこの先輩達は悪い大人です。見習わないように」
「木戸には言われたくねぇなぁ」
「ほんとにねぇ」
軽口を叩き合いながらも、大人達の空気は穏やかだ。
愛の告白をしたのに、振られたのに、木戸さんは平然としている。恋愛経験のない俺には全く分からない世界だ。お互い気まずくなったりはしないのだろうか。
「あ、大丈夫だよ。もう通算百回以上は振られてるから」
「いい加減懲りろよ」
「やだなぁ、何億年先でも待つって言ったでしょ」
う、と香流さんは言葉に詰まる。それ以上は何も言わなくなる香流さんに笑いかけて、木戸さんは俺の方へ顔を向けた。
「久しぶりに会えて良かったよ。龍司さんも夏椎も一応俺の実家みたいなもんだから」
「実家って」
俺はつい笑ってしまった。それなら家族って言えばいいのに。
昔から父さんは木戸さんを弟だって言っていたんだから。記憶をなくしてからは忘れていたことだけど、今ならきちんと思い出せる。
―――そうだ。
「木戸さん、こっちがあの時の晃です」
「晃?」
「何回かお風呂入るの手伝ってくれましたよね」
晃を連れて帰った時、祖父にバレないように何度か手引きしてもらった事がある。
木戸さんは毎日は家にいなかったけど、たまにいると何も聞かずに俺の手助けをしてくれた。
翔真も抱っこしてもらった事があったはずだ。結局犬嫌いが多くて翔真は飼えなかったけど、翔真に優しくして貰えて嬉しかった事もちゃんと記憶に残っている。
「あぁ、夏椎がこそこそ誰かを連れて帰ってきたこともあったな。へぇ、あの時はもうちょい肉ついてた気がするけど子どもは変わるもんだなぁ」
「晃、ご挨拶は?」
「⋯⋯どうも」
「あ、俺は犬人間の翔真です!」
俺に促されてしぶしぶ頭を下げる晃に続いて、隣の翔真もぴょこんと頭を下げた。その後に、俺に目配せしてくる。
「あんな赤い人あのお家にいたっけ⋯⋯」
「いや、昔は黒かったよ」
「そういやそんな時代もあったなぁ」
翔真は木戸さんの顔をじっと見上げた。
もふもふの尻尾が下がっている。一生懸命思い出そうとしているのかな。尻尾にすぐ感情が現れるのがなんだか微笑ましい。
「翔真、気にすんな。覚えてなくても何の損もしないから」
「そうそう。なんなら忘れてた方が幸せかもよ」
「先輩方?」
「優しくして欲しかったらさっさと手を離せ」
「じゃあぎゅってしていい?」
「却下」
「夏椎も晃や翔真とハグくらいするよなぁ?」
「うん、する!」
俺の代わりに翔真が元気いっぱい返事をした。
「子どもがして大人がしない道理はないですぅ」
「あのなぁ、そういうのは屁理屈って言うんだよ」
言い終える前に、木戸さんは香流さんを腕の中へ閉じ込めた。
香流さんの華奢な身体が木戸さんの腕にすっぽりと収まっている。2人はしばらくそのままでいると、少したってから香流さんが木戸さんの胸元を手で押した。
「先輩、お願いがあるんですけど」
「⋯⋯まぁ一応聞いてやろう」
香流さんは呆れた様子で木戸さんを見上げる。木戸さんはにぱっと明るい笑顔で言った。
「ドイツ行ってお金なくなったからなんか食べさせて」
香流さんははぁー、と肩を落として、木戸さんから体を離した。
「仕方ないな、俺ん家来いよ」
「やった!」
「おれも柚ぽんのお家行ってみたい!」
木戸さんから離れた香流さんに向かって、今度は翔真が突撃していった。
香流さんは少し考えてから、ぽんぽんと翔真の頭を撫でる。翔真の尻尾がまた左右に揺れ始めた。
「言っとくけど俺の家は何もないぞ。遊びたいなら賢吾の家に行けよ」
「柚ぽんがいいの!」
グリグリと鳩尾に頭を押し付けられる香流さんが顔をしかめた。ちょっと痛かったのかもしれない。
「いきなりなんだよ」
「ヤキモチ!」
「俺は夏椎じゃねぇぞ」
「それは知ってる!」
翔真がぶすくれている。あぁなるほど、香流さんが木戸さんに抱きしめられたのが嫌だったのかな。俺はそう思い当たるけど、香流さんはよく分かっていないのか目をまん丸にしている。
「翔真?」
「⋯⋯手繋いで帰ろ」
「いいよ」
手を繋いで歩き始める2人を微笑ましく見守りながら、俺と晃も後に続いた。
★★★★★
(木戸)
「あのふたり、噛み合ってなさそうですね」
「柚木は対人関係ポンコツだからねぇ」
先輩に聞こえないように苦笑いすると、中川さんも同調した。あの人、犬の翔真がヤキモチ妬いてる意味なんか全く分かってなさそうだもんな。
「さっきなんの話してたの?」
中川さんが背伸びをしてひそりと耳打ちしてくる。
俺は人差し指を口元へ立てた。子ども達に知られるのは面倒なことになりかねない。スマホを出して、中川さんの画面を開いてメッセージを送信する。
〈ニールに穴が空いた形跡があるって話を先輩に提供しました〉
中川さんはスマホを見てから、少し考えて文字を打ち込んだ。
〈どこ情報?〉
〈A地区の風俗街です〉
〈情報源までは柚木に言えないねぇ〉
やましいことはしてないから別にバレても構わないけど、風俗街自体を説明しなきゃならないのが目に見えている。あのド天然が理解できるとも思えない。
俺と中川さんはスマホをしまった。中川さんがにこりと微笑むので、俺は少しだけ眉を寄せる。
まぁ、一応昔馴染みの俺が適役ですよねぇ。俺は笑顔を貼り付けながら、後ろから夏椎と晃の肩を引き寄せた。
「なぁ、翔真は夏椎が拾ったわんこだっけ?」
「はい、そうです。すっごく可愛いポメラニアンですよ」
「アメリカに連れて行けたら良かったのにね」
そしたら志賀親子は島へ帰って来なかったのになぁ。
龍司さんに息子の交友関係まで気を配るような細やかさはないもんな。忙しくさせられていたのもあるけれど、どちらかといえば放任主義だった。
「10年かかったけど、再会出来て良かったね」
「⋯⋯はい!」
無用なトラブルを避けるためにも、志賀夏椎の前では優しいお兄さんでいる必要がある。
そのための言葉ならいくらでも並べられる。隣には柔和な中川さん、この場で警戒される条件は揃ってない。
「そうだ、晃は10年の間ずっと香流さんと過ごしてたの?」
「翔真と一緒に拾われた」
「2人を拾ったのは柚木と愛敬だよねぇ。2人でお巡りさんごっこしてた時に拾ったって聞いたよ」
「そんな事もあったな⋯⋯」
晃がぽつりと呟いた。
翔真と晃のことは話には聞いていたけど、俺も中川さんも関与していない。あまり大勢で押しかけるのが晃の負担になると先輩に言われたからだ。
街もめちゃくちゃだったし、立て直すのに時間がかかった。正直なところ、そこまで手が回らなかった実情もある。
「⋯⋯最初のうちは3人で一緒に寝てた。翔真がよく犬に戻って柚木の腹の上に乗っていた」
何そのスーパー可愛い光景。
やっぱり見に行きゃ良かった。先輩と子どもとか絶対可愛いに決まってる。
「愛敬もよく遊びに来ていた。4人で寝たり、川崎も来た。柚木妹と天気のいい日は散歩に出かけたりもした」
「楽しそうだね」
「⋯⋯そうだったかもしれない」
★★★★★
「晃、また『かしい』捜ししてたのかよ」
夕方になっても家へ戻らないと、あの金色は必ず探しに来た。
どこにいても、何をしてても、必ず探しに来る。見つかったあとは、決まって何が食べたいか聞いてきた。
ずっとずっと夏椎を探していた。
夏椎だけが世界のすべてだと思っていた。見える世界はモノクロで、夏椎がいないと色がつかないと思いたかったのかもしれない。
ここまで育ててくれたのが誰かも分からないくらいに。
それでも、あの金色だけはいつも色がついていた。
いたり、いなかったりしていたけれど、それでも家に帰ると必ず温かい食事と風呂はあった。
代わる代わる誰かは側にいた。それをひたすら拒絶していたのは自分の方だ。
★★★★★
「⋯⋯翔真の方が大人だ」
「それは確かにそう」
呟く晃に向かって、夏椎が間髪入れず頷いた。
驚いたような顔をする晃へ、夏椎はふふっと笑う。
「もう俺のこと捜さなくていいからね」
「⋯⋯そうか」
はぁ、なるほど。
コイツらは友達と言うより共依存みたいなもんか。あの時、詳しく事情は聞かなかったけど晃は夏椎にべったりくっついていた。
それは逆も然りで、夏椎も晃に依存してたんだな。友達と言う枠組みの中にはお互い1人しか許容出来なかった。それが先輩のおかげで枠組みが増えた、と⋯⋯。
マジで俺の先輩女神様過ぎん?
そういうとこなんだよなぁ〜。魂の不安定な夏椎を受け入れるだけじゃなくて、ちゃんと導いてあげている。最後に見た5歳の夏椎より、ずっと輝いた瞳をして友達と話せている。
これは龍司さん喜ぶだろうな。
そして、お綺麗なものが大嫌いな奴らは腹を立ててるだろうなぁ。
「これからは隣で色んなことを見て行こうね」
「⋯⋯でも夏椎が一番の友達がいい」
「俺もそう思ってるよ。一緒に友達増やしていこうね」
「それならいい」
これまで共依存でしかなかった2人が、ようやく友達として歩み始めることが出来る。
穏やかに微笑み合う2人を眺めながら、俺は目を覆った。
「若人が眩しい」
「俺のような薄汚れた大人が側にいていいのだろうか」
「いやアンタ天使でしょ」
しょうもないやり取りをしていると、前からザワザワと騒がしい声が聴こえてきた。
上から覗き込むと、警察庁の前に1頭の牛が横たわっている。
お供え物のように紅白のしめ縄が巻かれていて、先輩が頭を抱えている。牛を囲む人の群れの奥から、黛さんが慌てたように駆け寄ってきた。
「香流!お前どこ行ってたんだよ!」
「牛⋯⋯」
「さっき馬の面を付けた神様が来て置いてったんだぞ!あの時の牛が亡くなったので届けに来ましたって!」
あの時の牛⋯⋯と言われれば思い出すのは行列牛事件しかない。
珍しく先輩から連絡がきて、俺も手伝った。警察庁からC地区の住宅街まで続く牛の大行列は圧巻だったなぁ。
どこの牧場か分かんないけど、森谷さんが引き取ってくれる牧場を探し出して確かに牧場へ返したはずだ。そして、先輩は「命を粗末にするなよ」と優しく諭していた。
誰も死んだらここに来いとは言ってない。
「中川」
「ん?」
「良かったな、肉が来たぞ」
「いや牛1頭は望んでないです」
中川さんはぶんぶん首と手を振った。
先輩は翔真の手を離して、牛の元まで歩いてそっと手を添えた。その姿が愛らしくて心臓がぎゅんって痛くなる。
「まぁ、よく帰ってきたなってことで。ちゃんと現世で生まれ変われよ」
何その笑顔。はぁ〜かっわい。マジで女神感やべぇんだけど〜。
俺にもその笑顔向けて欲しい。あの慈愛を含んだまん丸の綺麗な瞳で見つめられてぇ〜。
そんな可愛さの具体化でしかない先輩の肩を黛さんが叩いている。警官服が様になってる黛さんは、見た目だけは立派なお巡りさんだ。
「で、どうする?」
「どうするも何も、食えばいいじゃねぇか。今日は中川と木戸も来てるしな」
「え。あ、友達来てたのか」
黛さんは今しがた俺達の存在に気付いたらしい。中川さんはニコニコしながら手をかざした。
「とりあえず解体しなきゃいけないし森谷を呼ぶか」
「森谷さんなら警察庁にいないぞ」
「そうなの?相変わらずふらふらすんなぁ」
「お前にだけは言われたくないと思うよ」
黛さんの真顔の突っ込みに、先輩は押し黙ってしまう。
先輩に助け舟を出すため、俺は牛の近くへ歩み寄った。真上から見る先輩も変わらず可愛らしい。
「先輩、俺解体出来るよ」
「頼んでいいの?」
「いいよー。場所だけ貸してくれたらパパっとやりますよ」
「なら頼んだ。じゃあ、手の空いてる奴らは屋上で肉焼く準備するぞ」
先輩が言うと、わっと警察庁の職員たちが浮き足立った。
いそいそと準備を始める面々を見送って、先輩は次に黛さんを見上げる。
「まゆ、鴫呼んでこいよ。ついでに肉食えない奴らに食べれるもの買ってきてやれ」
「お前はいい子ねぇ」
「だって肉食えない奴らが何もないのは不公平だろ」
先輩は次に、翔真に目を向けた。翔真の耳が小刻みに揺れる。
「翔真。連絡つくなら友達呼んでもいいぞ」
「え、いいの!?」
「牛1頭で何人前取れると思ってんだ。腐らせるのは可哀想だろ」
牛1頭で大体3千人前の肉がとれる。中川さんならそれくらい食いそうだけどなぁ。
と思いながら中川さんを見ると、中川さんはウインクしてきた。俺の預かり知らぬところで以心伝心するのはやめて欲しい。
「じゃあ連絡しよーっと!」
「みんな来るかな」
「肉好きエルフは這ってでも来るんじゃないか?」
わくわくしながら子ども達が浮き足立っている。
「黛くん、俺も買い物付いてっていい?」
「別にいいけど、中川くんは何買うの?」
「お酒」
「相変わらず不良天使だなお前」
その隣でちゃっかり中川さんがご相伴にあずかろうとしている。帰るつもりねぇなあの人。
「げっ、何で警察庁に蓮くんがいるんですか?ついに自首しに来たんですか?」
うわー、会いたくない奴が出てきた。
そりゃこんだけの騒ぎになれば来るよなぁ。くっそ、愛敬が帰ってから来りゃ良かった!
「丁度良かった。愛敬、木戸の案内は任せるよ。俺は屋上開けてくる」
「嫌だけど!?」「嫌ですけど!?」
「頑張れ後輩達〜」
先輩はさっさと警察庁の中へ入っていった。なんっで先輩に案内してもらおうと思ったのにコイツと!その顔やめろ、俺だって嫌だわ!
でも解体するって言っちゃったし今更帰れねぇよなぁ!もー、先輩の塩!大好き!
★★★★★
(柚木)
殺風景だった警察庁の屋上に賑やかな喧騒が満ちている。
結局、警察庁職員の家族が惣菜やおにぎりを持ってきてくれたので肉以外のおかずも充実している。必要以上にお酒を買ってき中川は、たくさんのお肉とおかずを見て「ビアガーデンだね!」とご機嫌だった。
ビアガーデンが何か知らないけど、お酒がかからないように子ども達はちゃんとすみっこの方に隔離されている。
俺は黙々と肉と野菜を焼いていた。賢吾はいつも通り警察庁へ帰ってきた石田が止めてくれている。この時ばかりはここへ帰って来てくれてありがとう石田と心から感謝した。
「先輩、食べてます?」
「俺は食べなくても死なないからお前らが食っとけよ」
それについては実証済だ。異星人に閉じ込められた時も、2週間近く飲まず食わずでも何ら身体に異変は来たさなかった。
家族がいなければ何か食べたいとも思わない。俺は側に立つ木戸を見上げて焼けた肉を渡した。
「いくらか残してお前の食糧にしとけよ」
「俺ん家冷蔵庫ないからなぁ。じゃあヒツギに渡しといて」
「自分で持ってけ」
「はーい。先輩、今日も愛してるよ」
ニコニコしながら、木戸がよく分からないことを零す。
⋯⋯いや、分かる。ちゃんと分かっている。いつも分からないふりをしているだけだ。
その方が都合がいいから。何も知らないと思われている方が何も追求されなくていい。見返りを求められなくても済むから。
女も、男も、俺には同じに見える。同じだからこそ好意のあり方がよく分からない。
それを何とも思わない自分を、それをどうにかしたいと思わない自分を、俺は何とも思わない。
賢吾や石田も、まゆも、恋愛感情なんてものに振り回されて大変そうだなとただ眺めるだけだ。
自分にはいらない感情だ。心の底からそう思う。
ただ、愛も恋も向けられる価値もないと思ってはいるけれど。
「俺はみんなといるのが好きだよ」
木戸には、きちんとした愛を向ける別の誰かを見つけて欲しいと願っている。
それは本音で。
俺じゃない方がいい。
せっかく誰かを好きになれる感情が備わっているなら、賢吾と石田みたいに相思相愛の方が幸せだろ。
でも、子どもみたいな本音も隠れている。
「⋯⋯ずるい言い方すんなぁ」
まだ、このままでいいんじゃないか、って。
「大丈夫だよ、香流。百年後も同じことしようね」
「後輩のくせに呼び捨てすんな」
いつか木戸が心変わりした時。その時は友人として、上手くいくよう願うから。
笑って祝福してやるから。やっと見つけたのか、遅かったなって。それが百年先か千年先かは分からないけれど。
―――だけどまだ、もう少しこのままで。




