第19話:母娘の葛藤
【切島のアパート】
ウリエルは切島に肩を貸して、彼のアパートまで歩いた。
築年数も分からないような木造のボロボロのアパート。四畳半の和室がひとつと、小さな台所があるだけの、最低限の生活空間だ。
そこには、万年床の布団と、小さなテーブル、仕事着のツナギ、そして俺が渡した参考書を含めた僅かな本しかなかった。
「ちょっと、失礼しますよ」
ウリエルは手際よく切島の血に汚れた服を脱がせ、清潔なジャージに着替えさせ始めた。
その瞬間。
ユナは、バッと後ろを向いた。
本来の俺は男の裸など見飽きているはずだ。だが、耳まで熱くなり、心臓がうるさいほどに鼓動を刻んでいる。
17歳の女性のDNAが、切島の剥き出しの背中や、傷だらけの筋肉に対して、本能的な「恥じらい」を突きつけてくるのだ。
ウリエルは切島に、リラックスして仰向けのまま動くなと告げた。そして、かつてユナにも施した「天界の術式」を編み始めた。
ウリエルの指先から淡い光が漏れ、切島の腫れ上がった顔や裂けた皮膚に吸い込まれていく。
十分ほどして、ウリエルは「よし」と言い、俺の方を向いた。
「次の試合までは二日ありますからね、充分間に合いますよ」
そして、切島にも静かに声をかけた。
「私の術式、君の体力、そして……執念。チャンスは潰れていないから安心しなさい」
そして、ウリエルは、ユナの目を見据えて言った。
「ユナさん、今日は家に帰りましょう。サチコさんには僕から説明しますし、これ以上彼女に心配をかけたらダメですよ」
その瞳は、ユナの胸の内を完全に見透かしているようだった。
ユナが、このまま朝までここに残って看病しようとしていることを、ウリエルは見透かしていた。ユナの心が「一人にはできない」と泣いていた。
「ユナ、お前は、ちゃんと家に帰れ」
背を向けたまま、切島は言った。
「お前がいると、逆に落ち着かねーわ」
突き放すような言葉。だが、その声には優しさが詰まっていることがユナには理解できていた。
切島は自分がボロボロの姿でいることを、ユナに見られたくないのだ。男としての、最後のプライド。
「わかった…無理すんなよ」
俺はユナにそう言わせたが、声が震えていた。
切島は、先日、修理工場に現れたサチコに言われた言葉を思い出していた。
サチコの言う通りだった。
ユナは自分なんかといっしょに居てはいけない人だ。…でも、決勝戦までは。
ユナといっしょにいられる時間は残り少ない。
ユナはアパートを出て、夜風に吹かれながら歩く。俺の隣を歩くウリエルは、何も言わなかった。
俺の中の「パパ」としての意識が、妻の悲しみと、娘の恋心の間で、激しく揺れ動いていた。
【自宅・リビング】
遅く帰ってきたウリエルと俺=ユナを、サチコは待ち構えていた。
サチコは、ウリエルの説明を黙って聞いていた。
ウリエルの説明は助かった。実に論理的に順序立てて、感情を排し客観的に話してくれた。俺が説明しようとしたとて、ユナの感情が邪魔してくるのは目に見えていたからだ。
サチコは、ユナにこう言った。
「ユナちゃん、こっちにいらっしゃい」
サチコはユナを横に座らせると、ギュっと抱き締めた。
その肩が、微かに震えていた。
サチコは何も言わなかった。ただギュっと、ユナを抱き締めていた。
ウリエルはそっと席を外した。
サチコに心配をかけている申し訳なさ。ユナが切島にボロボロにされた時の恐怖、怒り、そして今の切島への思い…。
俺の中でユナはもう、制御不能になりつつあった。
(サチコ。ごめんな。でも、もう少しだけユナを信じてやってくれ)
抱きしめられながら、俺は心の中で妻に、そして娘に語りかけた。
この、母親の温もりに甘えていたい「娘」としての自分。
切島をプロデュースしようとしていた元商社マンの「パパ」としての自分が、溶けて消えていくような不思議な感覚だった。




