第16話:スローモーションの世界
【予選会場・地下特設リング】
「…おいおい、あれが噂の『元・少年院の狂犬』か? ガリガリじゃねーか」
「極角の段持ちって噂は眉唾か?」
「あのセコンド、狂犬の彼女か? めちゃくちゃ可愛いじゃん」
野次が飛び交う地下会場。
対戦相手の巨漢は、切島の細い体躯を鼻で笑いながら、周囲の取り巻きに愛想を振りまいて調子に乗っている。
だが、セコンドに立つ俺には分かっていた。切島の体は無駄な脂肪が削ぎ落とされ、研ぎ澄まされた鋼のような質感だ。
「切島、検定試験はどうだった?」
俺の問いに、切島は軽く肩を回しながら、無表情で答えた。
「ああ。キッチリ80点、取れてるんじゃねーかな。それより黒崎、あのデブ、なんであんなにトロ臭えんだ?」
俺は内心でニヤリとした。
「…そうか。トロ臭い、か」
ウリエルの「天使の速さ」に一ヶ月間晒され続けた切島の脳と動体視力は、人間の限界値に近づいているようだ。
『レディー?…ゴー!』
ゴングと同時に、巨漢が咆哮を上げながら突っ込んできた。観客席からは「一撃で沈めろ!」と歓声が上がる。
だが、切島は動かない。
巨漢の重い右フックが、切島のこめかみを捉える――かに見えた瞬間。
切島は、最小限の動きで首を傾け、その拳を余裕でやり過ごした。
そして、最短距離の軌道を描いた左の中足で、巨漢のレバーを完璧に撃ち抜いた。
ドォォォン……!
人体が発するには大きすぎる重低音が会場に響き、巨漢が膝から崩れ落ちる。わずか三秒。
「お?」
佐藤プロデューサーがモニターの前で凍りつき、会場の喧騒がパタッと止まり、静まり返る。
切島は倒れた相手を見下ろすことすらせず、俺の方を向いて言った。
「ウリエルに比べりゃ、止まって見えるよ」
その一言を、マイクが拾っていた。
「止まって見えるよ」が、瞬く間にSNSのトレンドトップを駆け上がる。
【会場の片隅】
「本当にあの、切島なのか? 化け物じゃないか」
客席の端で、財前が震える手でスマホを操作していた。切島の強さは彼の「想定」を遥かに超えていたようだ。
「黒崎さん、君は切島に何をしたんだ?」
俺は財前に笑顔で答えた。
「最適化、かな?」
【夜・自宅】
緒戦勝利のささやかなお祝いをしたあと、俺は22時頃に自宅に着いた。
「…お帰り、ユナ」
リビングには、サチコが一人で座っていた。
テレビのニュースは、ネット上でバズり始めた「謎の天才格闘少年」の話題を流している。映像には、ユナの姿も映り込んでいた。
「ねえ、ユナ。この格闘家の子、切島蓮って言うのね…」
「え…?」
「この男の子が、あなたに大怪我させた犯人なのよね!?」
「……。」
「なんで……あなたを大怪我させた男を、佐藤さんに紹介して、リングに上げたりするの? 私からしたら、憎んでも憎みきれない相手なのに……ママの人脈まで使って、なぜあなたは、あの男のために必死なの?」
「……。」
「ちゃんと、話して欲しいのよ、お願い。心配で心配で、胸が張り裂けそうなの」
俺は、観念した。サチコに全てを話さなければならないタイミングだ。
「確かに、私を大怪我させたのは切島くんだよ、それは間違いないよ」
「彼は、両親も兄弟も居なくて、学校にも居場所が無くなって、退学しちゃったの」
「でも、自動車修理工場でちゃんと働いてるんだよ? ウリエルに大怪我させられたけど、退院してすぐに仕事に戻って頑張ってるの」
「私を大怪我させたのは、彼の後輩を私がやり込めちゃったから…後輩のため、だったんだよ」
「それだけで正当化は出来ない、ってママは思うだろうね、私もそう思う」
「でも、彼は夢は持ってたの。格闘家、大検、整備士。本気で夢を追いかけるんなら、ワルもやめるんなら、協力してあげる、って私から言ったんだ」
「彼はそれから必死で努力したの。テレビでも言ってたでしょ? 大検を受けたし、格闘のトーナメントで今日、初勝利したの」
「本気なんだよ、真剣なの。もうワルの頃の彼じゃないの。だから応援してる」
「でも、ママが心配してくれてるのは分かる、心配させてごめんなさい」
サチコは無言でユナの独白を聞いていた。




