第14話:地獄のインターバル
【深夜・リビング】
「…ユナちゃん、最近帰り遅いわね」
リビングの時計が22時を回った頃、玄関を開けた俺をサチコの視線が射抜いた。
かつて商社マン時代、深夜に泥酔して帰宅した俺を何度も出迎えた、あの「静かなる威圧感」を湛えた瞳だ。
「あ、えっと…綾乃ん家で二人で勉強してて。ほら、もうすぐ試験でしょ?」
俺は用意しておいた言い訳を言う。
だが、サチコは俺の髪に鼻を近づけ、クン、と小さく息を吸った。
「何かしら、この臭い…機械油?それから、とんこつラーメンの匂い?」
背筋に冷たい汗が流れた。
さすが、俺と20年近く連れ添い、数多の商談の裏側を見抜いてきた女だ。
これは…バレるのも時間の問題かも知れん。
「あ、あはは。帰りにちょっと寄り道しちゃった。…ごめん、ママ。次は気をつけるから」
俺は逃げるように風呂場へ向かった。
鏡に映る女子高生の姿。中身は40歳のトップセールスマンだが、妻の「女の勘」の前では、どんな完璧な演技も剥がれ落ちそうになる。
(危なかった…。だが、今は手を止めるわけにはいかないんだ)
俺の勉強の特訓に、切島は必死の努力で報いようとしている。
アイツの人生がかかった大一番がもうすぐやってくるのだ。
【同時刻・夜の公園】
「…がはっ…!」
切島が、深夜の公園で片膝をついていた。
全身、泥と汗にまみれ、呼吸は激しく乱れている。
その目の前には、ワイシャツの袖をまくったウリエルが、呼吸一つ乱さず立っていた。
「切島さん…動きに無駄が多いから見切られるんですよ?」
「っざけんなよ! お前、本当に人間か…?」
「それはどうでもいいでしょ?僕に蹴りをいれたらいいだけのことです」
天界の人外であるウリエルのスピードは地上で生きる人間にとっては捕捉不可能なスピードだ。
ウリエルとの組手は、もはや指導というより「強制的な進化」だった。
天使の視力で見抜かれた無駄な動きは、物理的な痛みによって一瞬で矯正される。
俺がラーメン屋で言った「死ぬ気でやっても死なない」という言葉を、ウリエルは残酷なまでに忠実に実行していた。
【翌日・仕事中の切島】
翌朝。切島はボロボロの身体を引きずりながらも、仕事と勉強を根性で両立させていた。
ツナギのポケットには、俺が渡した英単語のメモ帳が突っ込まれている。
切島は隙間時間を惜しむかの様に勉強に没頭している。
「…『Obstacle(障害)』…『Overcome(克服する)』…」
「なるほどなあ…これは憶えたぞ」
休憩時間の度に、メモ帳を取り出しては彼はぶつぶつと呪文のように唱える。
工場の親方が不思議そうに見ていたが、切島の瞳からは、かつての自暴自棄な闇は消え失せていた。
昼休み、彼はコンビニのおにぎりを片手に、俺の作った「80点奪取マニュアル」を開く。
数学の公式。歴史の年号。
今まで「自分には無理だ」と切り捨ててきた知識が、俺の作った論理的なマニュアルによって、パズルのピースのように切島の脳味噌に刻まれていく。
(勉強って、意外と面白いな…)
放課後、遠くからその様子を観察していた俺は、手元のスマホで佐藤プロデューサーに動画を送信した。
俺がプレゼンした「切島というコンテンツ」のバリューを肉付けする作業だ。
機械油にまみれた手でペンを握る切島の姿。
そして、ウリエルにボコボコにされながらも、諦めずに立ち上がろうとする切島の姿。
『佐藤さん、これが私の用意した「企画」の現状です。…価値、上がってるでしょ?』
夜に佐藤から短い返信が来た。
『いいねえ。本戦の煽りVTR完成だね』
俺は小さくガッツポーズをした。
だが、その背後に、いつの間にか立っていたユイが呆れたように言った。
「あっ…。そう言えばさーあ?」
俺は驚いて振り向いた。
「ママがユナちゃんのスマホ、ロックかかってて見られないって怪しんでたよ?」
「…げっ」




