殺意感染――次の犠牲者は チャプター5
やはり仕事に集中することができず、定時に上がった俺は、駅付近の喫茶店に立ち寄った。天澤と一緒に行った食堂の近くにある喫茶店は、優雅な旋律が延々と流れている。洒落ているなという感想を抱いていると、ここを集合地点として指名した弥生が慌ただしく入店してきた。
「ごめん、ノルマの文章量を書き上げられなくて」
「大丈夫。あまり待ってないから」
弥生は俺の正面に腰を下ろし、店員に珈琲を注文する。ここによく訪れるのだろう、注文に迷いはなかった。
「どうだ、小説のほうは」
「ぼちぼち。ベストセラーとかにはなりたいんだけど、やっぱり難しいね」
このご時世、小説はあまり売れないからね、と弥生は悲観して見せる。俺は小説について造詣が深いわけではないためよくわからないが、若者の読書離れが深刻化する中で、小説家を貫き続ける弥生は敬服に値する。
「専門は何を書いているんだ?」
「恋愛かな。最近はBLとか主流だね」
「平塚がそれを書くってなんか意外だな」
「失礼な奴だな。お前、同性愛に嫌悪感を持つ口か?」
「恋愛にタブーこそあっても強制力を効する法律はないだろ。自分たちが納得していればいいんじゃないか」
俺と弥生の間には、なるべく本題に入りたくないという共通認識があった。話し出すと、あの恐怖が再びよみがえる。だからこそ、俺たちは弥生の珈琲が運ばれた後も現実逃避をし続け、仕事の話に花を咲かせていたのだ。
しかし、永遠とその話題を忌避しているわけにもいかない。
やがて口を開いたのは、弥生だった。
「ところでさ、昨日、大丈夫だった?」
昨日のこととは、きっと将来忘れることがないであろう出来事だった。昨夜、俺は細かい話を彼女に通していなかったため、弥生は昨日の出来事を抽象的にしか知りえない。
「野本の言ったことは本当だった。血まみれの幽霊は、本当にいた」
俺は詳細に事の次第を明らかにすると、弥生の表情が明らかに恐怖にゆがんだ。
「嘘でしょ……もう、勘弁してよ」
「問題はどうするか、だ。とにかく相手は人間じゃない」
この一連の事件は、俺たちが見殺しにした女の復讐だ。
「お祓いに行こう! そうしないと私たち全員殺される」
「けど近くにそんな施設あるのかよ」
俺の言葉に弥生は押し黙る。ネットの掲示板に投稿されたテンプレートの話とは異なり、都合よく周囲に拝み屋がいるわけではない。
「でも結局幽霊という結論じゃ、倉森さんも報われないわね」
「倉森が何かしてるのか?」
「自分の研究の傍ら、あの事件を詳しく調べてる。そのプロセスを通じて、犯人になりえる人間を特定するつもりらしい」
「そんなの警察の領域じゃん」
「ある日突然異変が起こった。その実態を知らないと怖い。貴方にもわかるでしょ」
返す言葉がない。現に俺もそうだった。得体のしれない化け物が、俺の普遍の生活に侵食し、食い尽くそうとしている。実際倉森は優秀な人間だ。現実的で合理的な彼女のことだ、幽霊の類を信じようとせず、あくまで相手が人間だと考えて行動するのは目に見えていたことだった。
「何かわかったのか?」
俺が聞くと、彼女は持っていたカバンから一枚の紙を取り出し、俺に差し出した。写真付きの資料だった。聞けば、倉森から郵送されてきたという。
「被害者の名前だけは判明したみたいよ。姫路真。あとはニュースに書かれてる通りだけど、姫路さんの母親は彼女が生まれた後に直後に死亡したみたい。父親が一人で育てていたんだけど、事故の直後に自殺を図って精神病院にいる」
「……そう、だったんだ」
「あまり裕福とは言えなかったらしいけど、仲睦まじい生活を送ってたんだって。……それを私たちは奪ってしまった」
弥生は珈琲を一口含む。語尾がかすかに震えていた。
俺といえば、ただ罪悪感に押しつぶされそうだった。自分たちのミスで、姫路のすべてをぶち壊した。そんな自分に自己嫌悪の念を覚えつつ、俺は先を促すしかない。店内に鳴り響くクラシックが空しく響き渡っている。
「あとは妹さんがいたらしいんだけど、それが現在失踪してるらしいの。この写真の子」
写っているのは、幸薄そうな美少女だった。どこかの中高学校の制服を身に着けている。
「どういうこと?」
「さあ。姫路さんが死んだ十年前は中学三年生だったらしいの。真さんが亡くなってから引っ越したみたいで、数年ほどは精神を病んだ父親を看病していた。巷では話題の、いわゆるいい子だったらしい。けど、一年前に前触れもなく失踪してる。現在は二十五歳になってるはず。私たちより一つ年下ね」
理由は不明だけどね、と弥生は付け足した。
「だから運転手が殺害された時、警察は真っ先に疑ったのが妹さんの姫路美愛さん。けれど、警察は彼女の足取りを未だつかめていないのよ」
「よく調べ上げたな、そんなこと」
「とにかく、倉森さんは失踪した美愛さんが、私たちの命を狙っていると考えてる。恐らく一番それが合理的な考えだと思う」
生きてる人間が、全てを仕切っているとしたら、ね。
「そのことを、他の連中に話したのか?」
「倉森さんから連絡を受け取った後は、稲村君に。……彼、あれから本当におかしくなっちゃって。最近は仕事も無断欠勤するようになってきて。大丈夫なのかな」
「どういう反応していたんだ? 稲村は」
「さあ。嘘だってずっと呟いてたけど……」
稲村は十年来の再開から、既にもうおかしかった。もともと神経質な奴で、勉強はできるものの小心者のきらいがあった。事実十年前、寺井や織田が次々と立ち直る中で、彼だけはずっと引きずっている。
けれど、今なら彼の気持ちがわかる。一歩一歩、薄気味悪い何かが近づいてくる幻影に怯え続ける。それが続けば、いつ精神のバランスを崩したとしてもおかしくはないだろう。
半分ほど残された彼女の珈琲は、既にぬるくなり、いつの間にか湯気が消えていた。
「ねえ、藤間君、私、この怪異を終わらせたい」
弥生は宣言した。
「終わらせるって、どうやって?」
「まだ分からない。けど、せっかく夢をかなえたんだ、まだ死にたくない。だから、藤間君も協力して」
パシッと俺の左手が、弥生の両腕に包まれる。暖かい、生の感触。ごつごつした俺の手と違い、弥生の腕は小さく、柔らかかった。思わず胸がドギマギしてしまう。
「……分かった。けど、俺たちにできることなんて――」
「一つだけある」
弥生は微笑を浮かべた。
「姫路家が今廃屋になっているのって知ってる?」
ここからは弥生の情報であり、同時に確実性に欠けているという点を考慮しなければいけない内容だった。
姫路家は二階建ての一軒家。十年前に起こった事故現場から、徒歩十分程度の場所にある。そこでは夜な夜な怪異が起こると噂されており、巷では有名な心霊スポットと化していた。一人が事故死、父親が精神病院行きとなったのだ、心霊物件と名乗らせたい野次馬からすれば格好の餌食だろう。
そして二階には姫路真の仏壇があり、そこには遺影が置かれているらしい。そのままそっくり、保存状態も良いらしい。ネットの情報によれば、二階が最も霊の出没が多いらしいのも、その仏壇のせいだと言われている。
「気休めにしかならないけど、私たちは謝罪する必要があると思う」
「供養するってことか? 俺達で」
「ええ。何もしないよりは建設的だと思う。精神的にも」
「稲村は連れていくのか?」
現状一番救いが必要なのは彼である。しかし、
「彼の精神状態でそこに踏み込むなんて、さすがに危ないと思う」
という考えがあったため、彼は外すことになった。
暫く俺と弥生は互いに仕事があるため、決行は四日後の土曜日に行われることとなった。
「じゃあ、それまで織田たちに連絡しておくな」
「分かった。集合場所はこの前と同じ駅でよろしく」
喫茶店を出、弥生が帰宅しようとし、足を止め、俺を見る。
「気を付けてね」
「……ああ」
弥生のひきつった表情に、俺はありったけの笑顔で応えるしかなかった。
帰宅している最中、俺はラインでメッセージを一斉送信した。野本、織田、倉森、そして、一応寺井。
『幽霊を供養しに行きます。俺と平塚は行くけど、お前は行くか?』
最初に着信したのは野本だった。彼は腕の怪我のために見送るらしい。続いて織田は、怖いから無理という簡潔な内容だ。
「俺だって怖いよ」
一人ぼやいてから、了解、と一言だけ送る。寺井はやはり既読がつくことなく、まるで独り言を垂れ流している様相を呈しているだけだ。
残りは倉森だけだ。
住宅街に入ると同時に、先日あの女と遭遇した恐怖を思い出し、俺は住宅街を駆け抜ける。そのままアパートに転がり込み、すぐに施錠する。
明かりをともし、俺はちゃぶ台の上にある刺身包丁を確認する。武器があるという事実は、間違いなく俺の心の安定剤と化していた。そんな自分の精神状況に、わずかな不気味さを覚えながら、近くにあったカップ麺を貪り食う。
「あと、四日か」
どうか、すべて終結してくれ。
頼むから。
プルルルル。
バイブレーションが鳴るスマホを見ると、倉森と表示されていた。
「どうしたんだ、あいつ」
電話に応じると、間髪入れず騒音が部屋中に鳴り響いた。数秒ほど何の音かはわからなかったものの、やがてそれが電車がプラットホームを通過する音だと気づく。
「藤間守恵か?」
「どうしたんだ、こんな夜更けに」
「さっきあなたがラインを送ったの忘れたの?」
それもそうか、と俺も納得する。
「参加するわ。……供養したいと思ってたところもあったし」
感情をあらわにしない平坦な口調には、倉森の思考の奥底や感情の機微を見つけることができない。
「分かった。平塚に伝えておくな」
「よろしく。……あ、それとなんだけど、一応連絡しないといけないことがあるの」
「連絡?」
「ええ。私、数学の研究と並行して、色々調べてみたの」
「平塚からいろいろ聞いたけど、それがどうかしたの?」
「あの子から連絡がいったんだ。……とにかくね、過去のニュースや、それに実地調査とかもしていた」
やはり倉森は独自に彼女なりの調査を進めていたのだ。実地調査という点は引っかかったものの、次の一言で俺の頭から全てが吹き飛んだ。
「……面白いことをつかんだの。この一連の事件に対する、真相の核心」
「どういうこと?」
俺が食いつくと、倉森は初めて口元を緩めた。
「ふふ。さあ、なんだと思う?」
悪戯を仕掛ける子供のような対応には、かすかな余裕がにじみ出ていた。
この状況下で、余裕。
「けど、今は決定的な証拠が足りない。だから、今ここで公表することは藤間守恵をかく乱させる結果になる。だから話すのは遠慮しておくよ」
電話の奥から、電車の到着を告げるアナウンスが鳴り響く。
「けど、ヒントだけは与えておく。もし私に何かあったら、自室のパソコンを調べて。それと――」
さらさらと何かを書いている音がする。仕事をしながら連絡を取っているのだろうか。
「私のいつも使ってる机はきれいに整えてあるの。いつも使っている机はね」
「何を言ってるんだ? つーかお前、自分の身に何かが起こると思ってるのか?」
「それと、一つだけ忠告」
ガタン、ガタン、と電車がレールを通過する音の間隔が徐々に長引いていく。
「あまり他のメンバーを信じるな。特に、疑心暗鬼に陥りそうな稲村俊樹とかね」
「それってどういう――」
「じゃ、土曜日に」
プツン。
俺にかまうことなく、電話が切れる。どこか興奮したような倉森の声が、今も鼓膜に染みついている感覚がした。いや、実際彼女は普段より忘我していた。理知的な倉森が、相手の言い分を聞かず一方的にまくし立てて電話を切るなんて非礼なこと、普段の彼女がするはずがない。
核心、か。
「何かわかったのか?」
けれど、先ほどの言い草じゃ、まるで倉森自身に何かが起こると予期しているようではないか。
そして、倉森は人為的な事件だと仮定して調べていた。……だとしたら、分かったのか? 野本を襲撃し、寺井を失踪させた犯人が。そして倉森は、それが少なくとも生きている人間だと示唆している。
そして、他のメンバーを疑えという発言。
相手は亡霊か、それとも人間か。
「とにかく、土曜日まで待つしかないか」
彼女が話す気になるまで、俺は待つしかないのだ。
しかし、異変に巻き込まれているといっても、やはり仕事は俺を待ってはくれない。
今一つ集中できない中、俺はいつもなら有り得ないミスを連発し、上司には怒られ、同僚には心配される。確実に負のサイクルが出来上がろうとしていた。
あれから何度か倉森に連絡を取ってみたのだが、彼女は俺と連絡する意思はないらしく、完全に無視され続けていた。最初は悠長に待っていたのだが、やがてもったいぶるような態度に、わずかな焦燥といら立ちを募らせ始めていた。自分のことは短気だと思っていたが、まさかこれほどまでとは。恐怖や焦りは人の本性をよくあぶり出す。いつか天澤が言った言葉が脳裏に反芻される。
代わりに弥生とは頻繁にSNS上で連絡を取り合っていた。弥生も不安なのだろう、逐一くだらない話題を仕事の合間に挟んでいた。それは定期的な生存確認と異変がないかという確認の意味合いも強かったため、表面上は楽しんでいる素振りをしていても、全く心躍ることなかった。きっと弥生もそうだろう。
休み時間に、旧姫路家を検索してみると、確かに心霊スポットであるという紹介がなされていた。表門は締まっているものの、裏口は鍵が壊されているらしく、目立たず侵入することが可能だという。
オカルト掲示板には、幽霊を見た、影が横切った、野太い男のうなり声がする、など眉唾物の情報しか掲載されていない。一方、裏口から入ると、まずは大きなリビングに出ることができ、そこに据え付けられた階段から二階に上がることができるという。しかし二階の地盤はガタガタであり、下手したら転落するかもしれないという趣旨は共通認識となっていた。この様子ではホームレスのアジトになっているかもと推測を立てていた。
一方、俺はこの前見送ったサイトも開いた。天澤の言う都市伝説が記載されたページだった――何故か検索した時、今まで何ともなかったはずのスマホの処理速度が遅くなった。――
出てきたのはいたって普通のページであり、けれど赤い文字の文体がつらつらと書きつねられていた。オカルト掲示板特有の軽いノリや、主観に塗れた文体ではない、客観的に、淡々とした文章が連ねられていた。
『皆様は知っているだろうか。
〇〇県××市の商店街の裏にある道路のうわさ話を。詳細は明かすことはしないが、以前そこで一人の女性が事故死しており、それ以来そこで車と衝突すると異次元に飛ばされ、過去に戻ることができるという噂がある。』
「……最近はやりの異世界転生かよ」
ガセ臭しかないけれど、女性が事故死している点だけは事実でもある。しかしこの噂、下手すると人の死を冒涜する内容ととれる。
『実際○○掲示板や××速報などのスレでは、そこで車にひかれ、過去に遡ったという記述や、実際に未来予知を行った例があるとされるが、現在それらはすべて削除されており、ネット民のみが語り継いでいるという状況にある。ネット民自身も、本当にそれを見たのか疑わしい部分もあり、現状は鮫島事件同様、ネット内部ではタブーとなっている内容である。』
「……くだらないな」
ブラウザバックし、俺は吐き捨てる。無駄な時間だった。本当にどうでもいい。
血濡れの女に怯えながら、とうとう約束の四日も過ぎ。
土曜日の午後五時。
空が夕焼けに包まれるころ合いになり、俺は駅で弥生と合流した。彼女は執筆を早めに切り上げており、なんと三十分ほど前から待っていたという。
「こんな状態で書いても、能率が上がらないから」
弥生の目にはうっすらと隈が浮き出ていた。……あまり熟睡できていないのだろうか。まあ、無理もないだろう。いつ、どこで俺のように襲われるか分からないのだ。精神的につらくないはずがない。
「まあ、そうだよな。俺も仕事は一切手につかないよ」
雑談を交わしながら、後は倉森の到着を待つ。しかし、四日前に雑談のネタをすべて消費しつくしたおかげで、やけに重苦しい沈黙が、俺たちの間に広がっていた。
「……倉森さん、遅いね」
途切れがちの会話にポツリと呟いた弥生につられ、俺はスマホの電源を入れ、時刻を確認する。すでに、約束の時間を十分以上過ぎている。遅れるという趣旨の連絡もまだ来ていない。
「おかしいな」
「倉森さんってしっかりした性格だよね。無断で遅れるなんて、彼女がするかな?」
弥生が不安げに俺に尋ねる。俺はその問いに答えることができなかった。
あの夜、倉森の電話に言っていた不審な言葉が脳裏をよぎる。
まさか、何かがあったのか?
だから、来れない?
「さすがに妄想の域だな」
「なにが?」
「いや、なんでもない。多分、実験が長引いているか、昼寝でもしているんじゃないか?」
「そう、だよね」
納得したらしい弥生が、倉森に、もう出発するという内容の連絡を送った。
「じゃ、行こっか」
弥生が重い腰を上げ、付いてきてと指示を出す。
この時にはすでに空は茜色に包まれつつあり、空の隅は昏い紺色がじわじわと染まり始めていた。
弥生の案内に基づき、到着した時には五時半を回っていた。
夕焼けに包まれ、どこかから鴉のけたたましい鳴き声が乱反射する。
「雰囲気出てるな、ここ」
住宅街の一角に存在する、大きな二階建ての廃屋は、閑散としていて、とても不気味だった。
ツタが絡まり、二重、三重の鎖で覆われ封鎖されている表の扉。
二階の窓は破られているものの、完全に闇に落ちており、様子が分からない。
白い壁は黒く汚れ、どこかからかび臭い、不快な臭いが立ち上っている。
「心霊スポットと言われるだけはあるな」
「まさかここまでとは思わなかったよ」
弥生の表情は、ありありと入りたくないという嫌悪感がにじみ出ていた。俺も同じ気持ちだった。
二人できたのは誤りだった。稲村や織田、野本を強制参加させるべきだった。こんな薄気味悪いところに、二人だけ。しかも一人は女性だ。こういう時、頼りになる男の相棒が欲しい。
空は刻一刻と薄暗さを増していく。愚図愚図していると、本格的な闇夜に移り変わってしまうだろう。そうなれば本格的に立ち入ることができない。
「確か、裏口が開いているんだったよな」
「ええ」
勇んで俺は一歩道を踏みしめる。その後ろを弥生がついてくる。
塀と家の、じめじめした通路を縫って、家の裏へ回り込むと、確かに裏口が存在した。入れますよという風に、わざわざ半開きになっている。隙間からはリビングらしき光景が見えた。
夏だというのに、嫌に涼しい。
今にも、何かが飛び出してくるのではないか――。
そんな妄想が頭を駆け巡る。
「藤間君……」
か細い、震える弥生の声色。
「……行くぞ」
ドクンドクンと自分の心臓が耳の奥で激しく鳴る。
扉は土や蔦が巻き付いており、ひどく不衛生だ。
俺は扉を蹴り上げる。キィィィ、という甲高い音とともに、扉はいとも簡単に全開になった。
もちろん、何かが飛び出してくるはずもなかった。
土足のまま、俺はリビングに踏み込んだ。パソコンが地面に無造作に転がっており、そばにはゴミが散乱している有様だ。かび臭さが一気に増す。
リビングには大きな机と、それを囲む四つの椅子があった。どれもこれもまだ使えそうな、木造の椅子だ。
俺たちが見殺しにした、姫路という女性が使っていた、椅子。
まるで怨念がこもっているようで、すぐに俺は目をそらした。
それにしても、暗い。カーテンが締まっているというのも原因の一つだろう。しかし、それを抜いても、やけに部屋が闇に浸っている。まるで、大きな影が部屋中に横たわるように。
それに。
「寒い……」
今日は三十度を超える猛暑だというのにもかかわらず、ここは異様に寒いのだ。
霊感がない俺でもすぐにピンとくる。
ここは、ヤバイ。
しかし、俺の不安が蓄積されるのに相反し、実際は壁にはスプレーか何かで『〇〇参上!』などの落書きや、卑猥な文言が書き連ねてあるだけで、怪異の一端すらも起こる気配がない。
「誰もいないね」
「そりゃ、こんなところに望んでくる奴なんて、よほど頭がパーじゃなきゃいないだろ」
「確かに」
弥生が俺の後ろにぴったり張り付くように、身を縮こまらせる。
「二階だったよな」
「うん」
一歩一歩、地面を確かめるように、注意深く探索する。
台所に出る。包丁やまな板が乱雑に食洗器に突っ込まれている。誰かが生活をしていた形跡は見受けられない。弥生が水道の蛇口をひねるも、水が出てくることはない。弥生は落ち着きなく背後を見やっているのがひどく気にかかった。
風呂場を通り過ぎようとして、おのずと俺の足は止まった。
風呂場の扉にかぶせるように、大きな木の板が張り付けられていた。上には数十本のくぎが打たれ、中に入れないように厳重な固定がなされていた。誰がどういう意図をもってこのような狂気じみたことをやってのけたのか、俺には想像できないし、したくもなかった。
廊下に出ると、封鎖された表門が見えた。
そばには、二階に上がる、埃の積もった木造の階段。
階段の下から、上を覗いてみる。
もちろん、人の姿はない。
「……行こう」
それは弥生に向けた言葉ではなく、本能的に恐怖している自分を奮い立たせるための物だった。
怖いと恐れ、退く隙を自らに与えることなく、俺は階段に一歩足を進めた。




