殺意感染――次の犠牲者は チャプター4
「ちょっと君、書類の検閲が終わったら、私に渡すように言っていなかった?」
「あ、す、すみません!」
オフィスで考え込んでいた俺があわただしく上司に書類を渡すと、彼ははぁ、と露骨な溜息をつく。周囲の人は忙しく働いており、しょっちゅう電話のコール音が響き渡っている。
「ちゃんとしっかりしてくれよ」
分かってんだよバーコードのごみ野郎。
「すみません、次からはきちんとします」
「頼むよ~本当に」
死ね。んなねちねち言う必要性なんてないだろうが。
そこまで考えて、そんな自分に疑問を呈する。
確かに上司はむかつく。けどいつもの俺は、ここまで相手を責めていたか?
どうやら、よほど追い詰められているみたいだな、と俺は思った。
それもこれも、全部あの場所に再び行ってしまったからだ。
それ以前に、全てはあの女を見殺しにしたせいだ……。
あの夜見た記事には、その男性――鳥居辰五郎というらしい。年齢は七十九歳――は腹部を刺された状態で発見されたという。発見者が通報した時には既に死亡しており、警察は現在捜査を続けているという趣旨だった。
『俺たち全員、殺される。あの女性によって。あの女性が俺たちを殺そうとするんだ』
稲村が野本の病室で言ったことが頭をよぎる。まさか、そんなはずないだろう。
ありえない。だって、女性は死んでいる。運転手がひき殺し、俺らは見殺しにしたんだ。
だとすると。
「近親者の仕業なのか?」
運転手はメディアに名前が公開されている。そこから辿ることは難しいだろうが、百パーセント不可能ではないだろう。
けれど、ならばどうして俺たちに災いが降り注ぐ? 野本と寺井は見殺しにしたにせよ、近親者が特定できる材料はないはず。あの場に近親者が偶然いた? いや、それなら即座に通報しているはず。十分ほど経過した後に通報するなんて、ニュースの文言が正しいと仮定するならば不自然極まりない。
そもそも近親者なら、運転手を殺した時点で警察にマークされているのではないか。日本の警察は優秀だ、復讐が動機なのではないかと考えないはずがない。
もし俺なら、俺たちをまず狙い、最後に運転手を殺す。そうすれば警察のマークに逢うことなく復讐は遂行できるはずなのだ。
「あの、大丈夫ですか?」
隣の女性が話しかけてくる。よほど浮かない顔をしていたのだろう。
「ああ、大丈夫だけど……」
「ならいいんですけど。近頃何か思い悩んでるように見えたので……」
「心配ないよ。ごめんな」
愛想笑いで済ませ、再び俺はパソコンに向き直る。先ほどからちっとも進んでいない。他人に心配されるほど、どうやら俺の態度は露骨に外に出ていたようだ。
集中できない。
先ほどからずっと、手が止まったままだ。
俺はその後ラインを開く。相手は天澤だ。
きっと俺より何倍も頭が良い天澤なら、どうすればいいかわかるのではないか。結局のところは他人任せだ。
「今日行けるか?」
数秒後に既読がつく。本当に彼は仕事をしているのだろうか。
「OK。七時に××駅集合」
変化し続ける現在、彼の普段通りのそっけない返事に、俺はいくらか心の平穏を取り戻した。
長かったようで短かった勤務時間が終わり、俺は定時になると即座に退社した。
急いで駅へ行くと、駅の入り口についた交番前に天澤がいた。ワイシャツの第二ボタンまでを開き、通気性を求めている彼は、
「遅いぞ」
と不満げに眉を寄せる。
「俺は定時に上がって走ってきたよ。いつ仕事してるんだよ」
「……なんかあった? 表情が暗いけど」
スルーかよと突っ込むつもりはなかった。
「近くにうまい店があるんだ。話はそこでしようぜ」
ひげを擦りつつ、天澤は親指で俺たちの背後を指した。
お店の雰囲気はとても良かった。一見すれば高級店というより、古き良き食堂というイメージ。周囲は中年のオヤジかおばさんがいるだけの、賑やかなお店だ。天澤は常連らしく、店員に慣れた態度で個室部屋を指定した。
案内された場所は、二人が入れるほどの大きさの個室。俺たちが着席すると、ほどなくしてお冷が渡された。
「味噌煮込みうどんでいい?」
「天澤のおすすめで頼むよ」
「ならそれにしよう。ここのうどんはとても美味だぞ」
呼び鈴を押すと、間髪入れず店員が来た。彼は定員に軽く注文する。
「じゃ、乾杯するか」
「いや、子供かよ」
「童心に帰ろうぜ」
仕方ないな、と俺らはお冷で乾杯した。
「で、何があったんだ?」
そういいだしたのは、彼がお冷を一気に飲み干した直後のことだった。
「……前に話しただろ、色々」
「ああ。覚えてるが。で、どうしたんだ?」
「実は――」
俺は簡潔にこれまでの流れを説明した。野本が襲撃されたことから始まった一連の異変を。
すべてを話し終えた後、天澤は腕を組みながらうなり声をあげた。
「偶然じゃないね」
「お前もそう思うか」
天澤はあっさり結論付けた。
「これを偶然と説明づけるのは難しいと思う。君の言う、何か――そいつが生きている人間か、それとも幽霊かは置いておいて――がそれを引き起こしているのは十中八九間違いはないだろう」
「けど、どうして」
「分かっているんだろ?」
十年前のあれのせいだよ、と天澤はこちらも確信をもって答えた。
「罪を犯す人は罪の奴隷なり。新約聖書-ヨハネ伝八章三十四節からの抜粋だよ。君たちはまるであの事件に縛られ続けている罪人そのものだ。まあお前ら七人の場合はイレギュラーだが、罪の意識はやがて君の中で明確な罪を犯したという見せかけのリアルを形成している。現にそのために、異変が矢継ぎ早に起こっている。……君は、幽霊を信じるのか」
「分からない。いないと言いたいけど、いるのではないかという疑念が付きまとうんだ」
「いるよ、幽霊は」
天澤は言った。
「理由は、まあ、論旨から外れるから言わないけど、もし幽霊ならお祓いなどに行けば助かることが多いだろう。現に掲示板で掲載される実話とされる物語では、憑かれたらすぐにお祓いを受けて平穏な日常に戻るというケースが多々ある。……けど、俺は君が話した一連の事件は、誰か、人為的に起こしたものだと思うのは確かだ」
「やっぱり、十年のタイムラグからそう思うのか」
「それもある。けれど他にも理由がある。それはずばり、襲撃や殺し方だよ」
「どういうこと?」
「幽霊とかが包丁で人を刺すか?」
はっとした。
確かに、幽霊がそんなことをするとは思えない。人を刺したりするだけだ。よくあるホラー小説などでいう猟奇的な死を見ていない。
「幽霊だったら、そうだな、かなり悲劇的な死に方や、トラウマを与えられる死に方が多いし、幽霊に取り殺されるという点では、ほとんどが自己完結、自殺などが多い。第三者に刺されるなんて、そんな話はめったに聞かないと思う。それに、ハナズオウを供えた人間がいたのも確かだ」
そうだ、と俺もうなずく。
「それと、この前言わなかったけれど、あそこには都市伝説があってね」
「ああ、そんな話してたな」
あの頃は興味がなかったからこそ聞かなかった奴だ。
「あそこの道で車にはねられると、自分の生きたい時代にタイムスリップするという話だよ。自分で言っても眉唾物だろうし、噂の出どころもわからない異様な話だけどね。どのみちお前らを狙うという話とは直結しない」
「だとしたら、倉森の言っていたことは」
「多分的を得てる。野本はきっと見間違えただけだと思うぜ、やっぱり。人は死を前にすると正常な思考を放棄せざるを得ない。だから時々恐ろしい殺人鬼を認識すると、それは凶悪な亡霊に代わる。罪意識があるならば、なおさらね。多分犯人は運転手のじいさんをネット内で特定し犯行に及んだ。お前らはどうやって特定されたのかはいまだに不明だが、大方インターネットから引っ張り出したんじゃないかなと俺は睨む」
「けど、どうしてまず俺たちを始末しない。お爺さんを殺したら、おのずとあの事件と絡めて考えられるはずだ。標的があの場にいた俺たち七人と運転手なら、まず俺たちを殺したほうが効率的じゃないのか」
「そんなの簡単にわかるだろ」
天澤は不敵な笑みを浮かべながら断言した。
「爺さんを殺したことで、あんたらの恐怖心をあおるためだろう。好物は最後まで取っておく……あんたらを極限まで精神的に追い詰めて、殺すため。理由は分からないけど、先にリスクを冒して爺さんを真っ先に消すなんて、それ以外考えられない」
どうしてだろう、天澤の言葉だと、不思議と全てを納得してしまう自分がいた。そういうところも天澤の魅力でもあり、または魔性でもあるのだ。
そして、改めて自分が殺されるかもしれないという焦燥にも似た恐怖があった。
「本来なら警察に行ったほうがいいけど、行きたくないんだろ?」
その問いに俺が行き詰っていると、天澤はすぐに察してくれた。
「ま、お前らの気持ちが分からんでもない。それに、警察は何かはっきりした事件が起こった時にしか動かないからな」
「けど、人為的ならいくらでも対策できる」
遠くにいると恐怖を感じるが、近くに迫ると、それほどでもない。ラ・フォンテーヌ の「寓話」である。確か、どこかで天澤が言った言葉だった。
「けど、よく考えてみろ。お前らについてはノーマークだが、警察が殺人を見逃すはずがない。遠からず、犯人は捕まると思う。寺井ってやつもきっとその時助け出されるんじゃないか」
先ほどの分からないという恐怖はいつの間にか消えていく。天澤の考察に裏付けされた、人為的であるという事実が、俺を完全に安心させていた。
もちろん解決策などはゼロに等しい。けれど、今は、自分の思考からかけ離れたものではないということこそが、今の俺に対しては最も大きな安息に値する答えだった。
「顔色、いつも通りに戻ってきたみだいだな」
「ああ、少しだけ、助かった気がする」
味噌煮込みうどんでーすと店員が顔を出した。並べられた味噌煮込みうどんは鉄板の皿にあり、未だにくつくつと沸騰している。味噌の香ばしい香りが俺の食指を動かす。ネギが乗った、太いうどん。
「うまそうだな」
「だろ。ちょっとばかり味が濃いが、めちゃくちゃうまいぜ。この県の伝統料理だからな」
ずるずると麺をすする天澤につられ、俺もうどんを食べる。
なかなか濃いが、天澤が推薦するだけはある、噛み応えのある麺と程よい味噌の味が何とも言えないほどうまい。
天澤も食事の時間は何よりも尊重したいのか、この時は何もしゃべらず麺をすするだけだった。
先ほどの曇った気分は吹き飛び、店から出るときにはやけに気分が良かった。その後飲酒をしたからだろうか、異様な高揚感を覚えていた。
「じゃあ、気を付けなよ。俺方向違うから」
「ああ。ありがとな、天澤」
彼と別れ、俺は駅に乗り、電車で最寄り駅まで揺られていた。
改札を抜けてから、俺はうだる暑さの中外へ出る。
知らないというのは恐ろしいもので、知ってしまえば恐れるに足りない。相手が生きた人間なら、対処の仕様があるというものだ。
絶対に大丈夫だ。
俺たちは。
いつもの住宅街に入る。あと五分くらいで、いつもの古ぼけたアパートにつく。
「ったく、何にビビっていたんだろうな」
今日はよく眠れそうだ。大体、神経過敏なんだ。稲村に影響されてしまったせいだ。
「くだらねえ」
あんなにびくついていた自分がむしろ滑稽だ。
お酒の力を借りたおかげか、鼻歌交じりに俺は歩き続ける。住宅街に入れば、ものの五分で自宅のボロアパートに到着する。
ほろ酔い気分に、夜の少し冷めた風が心地よい。蝉の声も聞こえない、代わり映えのない夜だ。
腕時計を見ると、九時を回っている。
「早く帰って寝るか」
そう呟き、のんびりと歩いていた。
コツ、コツ、コツ。
自分の革靴の音が、やけに暗い住宅街を反響する。この乾いた革靴の音も、聞き続けると癖になる。
コツ、コツ、コツ、コツ、コツ。
一定間隔で、俺は足音を無駄にならして歩き続ける。近くに子供がいる一軒家があったのか、キャッキャと騒がしい家があった。通り過ぎると、その音もわずかに小さくなってくる。
コツ、コツ、コツ、コツ、コツ、コツ、コツ、コツ、コツ、コツコツ、コツ。
……。
ん?
足を止め、振り返る。暗闇で視界が乏しい物の、誰かの人影は確認できない。
「気のせいか」
ったく、結局ビビってるのか。情けないな。再び俺は足音を立てながら、歩行を続けた。
コツ、コツ、コツ、コツ、コツ、コツ、コツ、コツ、コツ、コツコツ、コツコツ、コツコツ。
……間違いない。
足を止める俺。
足音が重複している。
再び俺は振り返る。もちろん、誰もいない――。
心臓が、急ピッチで心拍数をあげていくのを感じる。
聞き間違え、じゃない?
……二回も?
するすると先ほどまでの心地よさが消えていき、その穴を埋めるように広がるのは、得体のしれない不気味な感触。
理詰めではない、太古の昔に不必要とされ、人の最下層に封印されていた本能が、警告を鳴らし続ける。
ここは危険だ。
逃げないと。
オレハ、シヌ。
そんな時、俺は気づいた。気づいてしまったのだ。
自動販売機の影に、何かがいる。身じろぎするように、それが僅かに動いている。
完全に同化していたらしいが、自動販売機は細い、どうしても体の一部が見えていた。
ライトに照らし出される、そいつの肢体の一部が、生々しく映った。
血に塗れた腕。
土などで汚れた白いスカート。
そして、握られた、一本の包丁。
野本の言葉が、ありありとよみがえる。
包丁を、持っていたという証言が。
奴の存在を見つめていたのは、時間にすればほぼゼロに等しかったであろう。しかし俺からすれば、それは十秒以上の長い時間のように思えたのだ。この機に及んでも、この真実を信じることができなかった。夢ではないかという感覚。けれど異常なまでの心臓の高鳴りと、瞬時に冷めた酔いは、目の前にある光景をリアルだと知らしめていた。
体が、動かなかった。
一ミリでも動いたら、飛び掛かってくるのではないか。逃げないといけないのに、走れない。暑いはずなのに、体が冷えていく。背中に脂汗が浮き出し、ワイシャツとくっつくのが不快だ。
殺される。
そいつは、俺が気づいていないと思っているのか、ずっと動かないままだ。
けれど、ギラギラと鈍色に光る包丁は、明確な殺意を俺に向けていた。
手汗で、手のひらがぬめる。呼吸ができない。
動けない……!
プルルルル♪
着信音が、ポケットから鳴り響いた途端、俺はようやく金縛りが解けたかのように、人間らしい体の感覚が戻ってきた。
電話に出ている余裕などなかった。
間髪入れず、俺は走り始めた。はじかれたように、速度を上げていく。あげなければ追いつかれる気がしたから。後先考えず、自分のアパートがある方向に激走を続ける。
逃げなければ、殺される!
後ろの様子を気にするなんて気力がわかなかった。電話が途切れても、俺は速度を落とすことはなかった。そのうち心臓がどきどきしてきて、両足が重くなっていく。
角を曲がると、俺の住んでいるアパートが見えた。
やった! これで逃げきれる!
安堵した瞬間、俺は気づく。
ここで逃げ込めば、確実に家がばれる。
どうしようもないぼろいアパートだ、扉は破ろうと思えば破れるような薄いものだ。
そこに逃げたのが露見すれば、俺は完全に詰む。
方向を急転換し、俺はアパートを素通りした。そのまま俺は大通りを目指して走る。幸運なことに、付近には先ほど俺がいた駅に続く大通りがある。ここまでたどり着ければ近くに交番がある。
早く、早く、早く!
どうしてこんなに人がいない!
心臓が痛い。
けれど、俺はさらに悪いことに気づく。
ついてきている!
気配でわかる。背後に、誰かがいる!
角を曲がる際、据えられたミラーが、俺の背後を映し出す。
ちらりと映る、白い服を身に着けた、血まみれの女。長い前髪で顔は分からない。
けれど、追ってきている。
しかも、俺とそいつの距離が、徐々に狭まってきているのだ。
足ががくがくする。恐怖で足がもつれそうになる。
すぐ目の前に、大通りが広がっている。人が行きかい、ネオンで彩られた町は、まるで別世界のようであった。
最後の力を振り絞り、俺はそのまま大通りへ飛び出した。
突然現れた、汗をかき、荒い息をする男が現れたのだ、当然視線は集中する。
本来なら羞恥に悶えるはずだけれど、そんなことは埒外であった。
振り返る。
「……いない?」
先まで追ってきた女は消えていた。代わりに底なしの闇が広がっているだけだった。注視するもの、先ほどの女の影は見込めない。
助かった……?
再び奴が飛び出してくる雰囲気はない。
呼吸を整えながら、しばらく今まで走ってきた通路を確認してから、俺はようやく安心感を覚えた。
「なんなんだよ、一体」
再び逆行する勇気はなかった。ちらりと近くの店に飾られている時計を見ると、既に十時半を過ぎている。
何が相手が人だ。
野本の言う通りだった。
奴は……人間じゃない。
俺たちが殺した……。
「復讐、なのか……」
一瞬、自分が死んでいる情景が妙に生々しく連想できてしまう。
「そういや、誰かから電話が来ていたな……」
スマホを開くと、天澤から不在着信が届いていた。
「天澤かよ……どうしたんだあいつ」
かけなおすと、数秒もおかず回線がつながる。
「もしもーし、守恵、元気かい?」
能天気な天澤の話し方に若干の殺意を覚えながら応対する。
「天澤、か」
「元気ないけど。どうした? 悪い、お前に借りてた本あっただろ? ホラー小説。返すの忘れてたからまた今度の機会にしようと思ってさ~」
ホラー小説。そういえば、一か月前ほどに貸した覚えがある。とある映画の原作本だった。
そんなためだけに電話してきたのか。……いや、その電話が無かったら、俺の体はずっと縮こまったままだっただろう。
情けは人の為ならずと誰かは言った。
「まさにその通りだな」
「お~い、もしも~し。大丈夫~? 起きてる~?」
「うっせえよ」
何故かむしゃくしゃして、乱暴に電源を落とす。俺がこんな怖い目にあっていたのに、呑気な態度を取っていたからという名目だが、それはもちろん八つ当たりだった。
用心しながら帰途に就く。俺があの家に帰るためにはとてつもない勇気が必要だった。常に誰かが自分を見張っている気持ち悪い感覚。何度も振り返り、ようやく自分のアパートまで行きつくことができた。
先ほどの女はいなかった。どうやら待ち伏せというホラーでの常套句はないらしい。
中に入るや否や、即座に施錠し、そのまま玄関にへたり込む。
疲労困憊したまま、俺は溜息を漏らす。頭を抱えながら、俺は盛大な舌打ちをした。
「どうして、こんなことになったんだ」
狙われた。間違いなく、俺は殺されかけた。野本の恐怖が今ならわかる。死ぬかもしれないという原始的な恐れ。
そして、そいつは、自分の家の近くにいた。
「そうだ、あいつに知らせないと」
弥生とは何かがあったら連絡しあおうと約束した。
震える指先で弥生にメールを送る。
『ヤバイ。野本の言った女が近くにいた。』
緑色のポップな吹き出しの横には既読がつかないままだ。それすらも俺の不安感は煽られる。ひょっとしたら弥生も、というあらぬ最悪なパターンを想定してしまうから。
何とか立ち上がり、俺は台所に入る。電気はつけなかった。万が一奴が近くにうろついていたら、それこそ終わりだったから。
台所にはまな板と包丁などがあった。大抵俺は家にいるときはカップ麺で済ませてしまうため、調理用具はほとんど新品のようなものだった。
その中から刺身包丁を握りしめ、ちゃぶ台の上へ置いた。よく研ぎ澄まされた包丁だ。
俺はちゃぶ台の横に布団を敷いて寝るため、何かがあったらすぐに包丁を手に取ることができる。
とても眠れる気分ではないものの、会社は待ってくれない。明日も仕事がある。業務に差し支えてしまえば、再びあの上司の説教が飛んでくる。
布団にくるまりながら、俺は目を瞑ることしかできない。
無音とは恐ろしいもので、先ほどの酔った時特有の有頂天気分はすでになく、俺にとって有害でしかない想像力だけが働き続ける。
結局眠りに落ちたのは、それから二時間以上もたった後のことだった。




