殺意感染――次の犠牲者は チャプター3
指定された病院に行くと、そこには既に弥生と織田、稲村がいた。弥生は比較的冷静であるものの、織田の顔は青く、涙の跡が認められた。稲村はせわしなく眼鏡を触り続け、聞き取れないことを呟き続けている。
「何があったんだ」
俺の問いに押し黙る織田に代わり、弥生が冷静に状況を説明してくれた。
「野本君が、誰かに刺されたみたいなの。犯人は未だに不明なんだけど……」
刺された。
嘘だろ? 数日前の彼の様子を思い出す。あの野本が、刺された? 信じられるはずもなかった。
「どうしてだよ。なんであいつが――」
「私に言われたってわからないよ。それに、気が動転してるせいか、野本君、変な証言をし続けるの。亡霊が、どうとか」
「亡霊?」
野本は理知的な男のはずだ。亡霊など、そんな非科学的なことを言うものだろうか。
「どうして?」
「分からない。けど、亡霊って……」
恐らくここで俺たちの思考は一つになっただろう。
十年前の、あれ。ゾクリと背中を冷たい手が這いずるような、嫌な感覚がする。
「幽霊なんているはずないだろう」
それは弥生に向けた言葉ではなく、ほぼ自分に対しての意味合いが濃いものだった。
「けど、タイミングが良すぎない? あの電話も、悪戯だと思えない。普通じゃないよ……!」
織田が絶叫する。呼吸も荒いし、ガタガタと両腕が震えている。
「落ち着けよ、織田。とにかく、中に入ろう。というか話せる状態にあるのかよ、野本は」
「すでに倉森さんが中にいるはずよ」
弥生とともに俺らは病院へ入った。
病室に入ると、倉森と、右肩が大きく盛り上がった野本がいた。聞けば、厳重な包帯などが施されているらしく、今も激痛を伴うらしい。個室部屋のため、野本をはじめ、寺井を除く全員がそろっていた。
静かな部屋だった。あるものといえば野本がいるベッドと、そばにある引き出しだけだ。上には花瓶があり、その後ろには伏せられた写真点てがあった。
そこには、病院の方と思われる女性がいた。胸元には『川路』というプレートが掛かっている。三十代くらいの美しい女性だった。
彼女は倉森と会話していたらしいのだが、やがてお辞儀して去っていった。
野本の顔色は、織田と同様悪かった。
「倉森」
「藤間守恵。遅かったな」
そばにいた倉森は白衣を身に着けている。近くの研究室から抜け出してきたようだ。
「容体はどうなんだ?」
「命には別条はない。けど、利き腕が使えない」
野本はさらさらした髪を壁につけ、大きな、それでいて震えた溜息を漏らす。
「けど、無事でよかったよぉ、心配したんだからね!」
「ごめんね、織田さん。心配かけて」
「……一体何があったの」
倉森が問うと、彼は視線を下げた。まるで、話していい物だろうかと慮るように。
「……亡霊って、どういう意味?」
待ちきれないといった風に、弥生が聞くと、野本は観念したようだった。
「そのままの意味だよ」
「見たのかよ、幽霊を」
「ああ」
端的に、彼は肯定した。織田が息を呑む。
「仕事から終わって帰宅してた時、突然、誰かの気配を覚えたんだ。振り返っても、誰もいない。疲れてるのかなと思って急いで歩を進めたけど、気配は消えなくて」
語尾が震える野本に、落ち着いて、と倉森が彼の背に手を置く。
「そのまま進んで、もうすぐ家だというところになって、そしたら、後ろから足音がして、振り返ったら……」
「振り返ったら?」
「血まみれの女が立ってた」
顔を両手で覆う野本を見、織田が嘘でしょ、と戦慄する。
「そいつ、忘れもしない、僕たちが、見捨てた、あの女だった。あいつが、ニタニタしながら、包丁、多分、出刃包丁を、奴は振り上げて――殺されると思った時、どこかから通行人が通って、そしたらそいつが消えて」
「そ、そんなわけないって。ありえない。その人って、もう十年前に死んだはずでしょ」
「僕が記憶違いをしたとでも? ……覚えていないはずがない。折れ曲がった体、一メートル以上宙にとんだ血。そして、あの悲痛な女性の顔。忘れられるはずがないだろう!」
野本はぜぇぜぇと呼吸を荒げながら叫んだ。
「この世界に幽霊なんていないわ。非科学的すぎる」
「倉森の言う通りだよ! 仮にそうだとしても、どうして私たちなのよ!」
「呪いだ」
稲村に、俺たち全員が注目する。彼は鬱蒼とした表情のまま、筋肉一つ動かすことなく、ただ虚空を見続けるだけだった。
「呪いって、なんの?」
「逃げた俺たちを、やっぱりあの女は恨んでたんだ。やっぱり、何も起きないなんてありえない。皆に、それ相応の裁きが下るんだ」
「よせよ稲村!」
「俺たち全員、殺される。あの女性によって。あの女性が俺たちを殺そうとするんだ。ほら、言ったろう平塚、俺の予想通りだった。呪いは始まったんだ。もう、だれにも止められな――」
「いい加減にしてよ!」
織田が泣き叫ぶ。
幽霊などいるはずないと自分に言い聞かせたところで、心のどこかではあり得なくもないと考えてしまう自分がいる。自分で、自分を信じきれない。それどころか、恐怖は刻一刻と肥大化し、窓の外から誰かがのぞき込んでいるのではないかというあらぬ疑心暗鬼を誘発させた。
倉森は押し黙ったままであったが、やがて口を開く。
「仮に幽霊がいたとしよう。けれどどうして十年前になって突然そういうことが起こる? 怪奇小説なら、私たちがあの事故を目撃してから数日後、長くても数週間後に事が起こるはずじゃないか。どうして今なんだ?」
「ということは、僕が見たのは幻覚だとあくまで主張するのか」
彼女の主張は、まさしく、誰かが人為的に野本を襲撃したと言わんばかりの物だった。野本の声色が低くなるも、彼女は臆する様子はなかった。
「はい」
単純明快に首肯する倉森。
「あの日から皆に連絡された、正体不明の声の男――女の可能性もあるが――。そして次に起こった野本竜輝の襲撃。全部愉快犯と通り魔の二人がそれぞれ独立して起こした事件を、呪いというピースを通した固定観念で縛られてしまっただけだ。単純なことだよ」
「僕が見たのは亡霊だよ! あんな奴、絶対に生きていなかった」
「恐怖は冷静な人間すら歪めた視界を付加するものだ。特に罪悪に駆られていたのならばなおさら。あるいは――」
倉森は微笑を浮かべたまま、さらに言葉を連ねた。
「作為的に私達を狙う人がいるか、ね」
「倉森!」
掴みかかろうとして激痛に苦しむ野本。落ち着けよと俺は二人を止めるものの、自分が一体何を信じているのかわからなくなる。倉森の主張が、現実的には一番濃厚だろう。けれど、俺は野本の証言を頭ごなしに否定するだけの論理性と実証を持ち合わせていないのだ。
「けど作為的にって……さすがにこじつけじゃあ――」
「あら、ま、確かにそうよね、そう思うのは。……でもね、一つだけその根拠がある。覚えてる? 私たちがあそこに来た時、花が添えられていたわよね」
「電柱にあったやつだよな。それがどうした?」
「あの花、ハナズオウというの。紫色の花だった。その花言葉って知ってる?」
誰も答えない。
倉森は溜息を一つ突き、人差し指をあげた。
「裏切りのもたらす死、らしいわ」
一瞬、周囲が硬直した。裏切り。……復讐?
弥生は口をつぐみ、稲村は微動だにしない。ニコニコと場違いな笑みを浮かべていたのは、倉森だけだった。
「皮肉に見ていると思わないか。……そんなのを添えるのは、必然か偶然かの事象であるかを置いておいて、人間であることに間違いはない。亡霊という説は消えるでしょう」
「やってられない!」
織田が叫ぶ。
「じゃ、じゃあ、誰かがあたしたちを殺そうとしているってこと?」
「可能性は否定できないよ、織田澄香」
涼しい表情で断言する彼女に、織田の顔は真っ蒼になった。
「冗談じゃないわ! どうしてあたしたちが命を狙われなきゃいけないのよ!」
「そんなこと、自分が最もよくわかっているんじゃないかしら」
倉森の言葉は、織田だけでなく、俺たち全員の胸に突き刺さった。
「大なり小なり、私たちが救えたかもしれない命を一時の錯乱に任せて見捨てた。果たして立場が逆だったら、貴方は恨まないでいられるかしら。そんな人たちを」
「それは……」
いい淀む織田に倉森はさらに詰め寄った。
「もし、あの場に誰かがいたとしたら? あの場に私達がいた痕跡を見つけた人がいたら? その人が、あの女性と繋がっていたら? 可能性は、すべてゼロではないんだよ?」
「……ああもう!」
織田が荒々しく病室から出ていく。弥生はちょっと、と彼女についていく。
稲村は押し黙ったまま動かず、倉森は熱くなりすぎたわ、と自戒を示す。
病室には重苦しい静寂が訪れ、それは先日待ち合わせした時の親しい騒めきはなかった。
帰宅すると、時刻は十二時を回っていた。明日は休日のため、俺はカップ麺にお湯を入れ、テレビをつけていた。碌に聞いてもいないニュースが淡々と流れる中、俺は頭の中でぐるぐる考え事をし続けていた。無論そんなことをしたとしても全ては無駄だとわかりきっているのだが、それでもやらなければ気が狂ってしまいそうだったから。
弥生たちと帰宅した後にかかってきた、あの気味の悪い電話が頭をよぎる。
「皆、殺される、か」
そんなはずない。俺たちが何をした? 何もしていないだろうが。どうしてこんな理不尽な目に合わないといけない。
……いや、何もしなかったのが問題だったのだ。
これもそれも、弥生があの場所に再び誘ったから。
寺井が本当に羨ましい。そういえば、あの場に寺井はいなかった。一人だけ知らぬ存ぜぬを決め込んでいる彼に、羨望の念を抱かずにはいられなかった。
「けど、どうして今なんだ?」
十年だ。なぜ、十年後に起こるのだ? そこは倉森の言う通りだ。この大きなインターバルが何を指すのか。
いや、疑いだせば全てが怪しいのだ。天澤の言うニーチェの言葉を思い出せ。考えだせば、それらが問題になる。
カップ麺の汁まで飲み干し、俺は茫然とテレビの音声に耳を傾ける。キャスターは良くも悪くも単調なため、こういう睡眠BGMになりやすいのだ。
願わくは、過去に戻りたい。あの事故を未然に防げさえすれば。
そんなことできないとわかっている。けれど、そう願わずにはいられないのだ。
いや、そもそも脅迫と襲撃が偶発的に起こったとするならば、きっとこれ以上のことは何もないだろう。
食べ終わった満腹感からか、ようやく俺は微睡み始める。
このまま寝てしまおうか――。そう思った時だった。
次のキャスターのニュースは、俺の意識を十分覚醒させるのに足りうるものだった。
「えー次のニュースです。数日前、突然職場や家族と音信不通になっていた報道部の寺井正毅さんが、現在行方不明となっていることが判明いたしました。彼の家は荒らされており、警察は寺井さんが何かの事件に巻き込まれたという見解を示しています」
たとえ今日が仕事だったとしても、俺は躊躇いもなく休暇届を提出したであろう。
実際弥生、稲村も無理やり休みを取っていたし、織田もバイトを急遽他の男性に代わってもらったそうだ。唯一倉森は都合がつかないということで、本日は欠席していた。
俺、弥生、稲村、織田の四人は寺井の家を訪ねた。織田の記憶を頼りに、俺たちは住宅街の一片に、四人で並ぶ。俺、弥生、稲村はスーツ、織田は萌えキャラが縫い付けられたラフな服装だった。
寺井の家はこざっぱりとした一軒家であったが、そこには警察によって立ち入り禁止のテープが何重にも張られていた。
「本当に、行方不明なんだ」
知らなかったと言う織田に、俺は前兆があったかどうかを尋ねたが、彼女は知らないの一点張りだった。
「けど、どうして……ありえないでしょ。弥生ちゃん、貴方私たちが十周忌のために集合した時、寺井と話したよね」
遊園地に集合した際、確かに弥生は連絡を取っていた。風邪だから行けないと返答があったというのは記憶に新しい。
「ええ。寺井君の声がガラガラで、嘘には聞こえなかったんだけど」
「その時はまだ彼はいたということか……」
そして、行方不明になった。
「妙な電話に、襲撃、失踪事件」
「稲村……?」
「偶然、なんて言葉で収まるのかな、これは」
「どういう意味よ」
織田が詰め寄るものの、これ以上稲村が口を開くことはなかった。
けれど、もうわかる。
倉森はこれが人為的なものだと推察した。しかし、それが亡霊であろうが人為的な物であろうが、まず間違いなく、俺たち全員が何かの標的になっているということを。
「……稲村君の言う通りだと思う」
あまり眠れていなかったようで、弥生の目元にはうっすらと隈ができている。
「三つも立て続けに異変が起こってるのよ」
「嫌なこと言わないでよ! どうしてあたしたちがこんな目に合わないといけないの? ふざけるなよもう!」
織田の金切り声に通行人の視線が集中する。すみませんと俺は軽く会釈しながらも、ひたすら思考を働かせた。
もう、天澤の言う通り、全てを偶然として片づけられない。
何かが、起こっている。
「最悪だよ! 誰よ、こんなことしてるの! どっきり仕掛けてるんじゃないの」
「落ち着けよ織田! 叫んだって解決にならない」
いや、解決なんてするのか? この問題は。
「だいたいさ、普通じゃないでしょ! あたしたち何もしてないじゃん! 殺人に加担したら確かにそうかもだけど、あたしたち見てただけじゃん!」
「落ち着けって言ってるだろ! ……とにかく、警察に話そう」
「警察に行ったって信じてくれるの? 幽霊が現れたって! あたしたちの過去が警察にばれるだけだよ!」
言いくるめられたのは、俺達も内心あの出来事を掘り返されることを恐れたからである。同時に、本能的に、警察に露見することが嫌だった。それに、警察は絶対に信じてくれない。
実際、警察に連絡すべき事案だったのだろう。幽霊騒ぎではなく、普通の事件として処理してもらえば、身辺護衛もつくかもしれなかった。けれど俺と織田だけでなく、弥生や稲村も同じ考えに結局のところ帰結してしまったため、誰も警察を頼ろうという冷静な提案は封じ込まれてしまったのだ。
「とにかく、私たちは互いにスマホを持ってる。何かがあったらこまめに連絡を取り合おう。ね?」
「……同感だ」
弥生の案に同意する稲村。異論をはさむ者は、誰もいなかった。
帰り道のことだった。
稲村や織田と別方向になった俺は、弥生とともに駅へ向かっていた。弥生はやはり表情が硬いままで、何やら思案している様子だった。無理もないだろう。これは、偶然にしてはできすぎているのだから。
また、何かが起こるかもしれない。
野本か、稲村か、織田か、倉森か、弥生か。
俺か。
また何かが、俺たちに降りかかろうとするのではないか。
「織田さんたち、大丈夫かな」
「さあな。かなり錯乱してた。まあ織田の心情が分からないわけじゃないんだけどね」
「稲村君も心配だし。二人ともかなり精神やられてるんじゃないかな」
だろうなと思う。織田はいつも騒がしい奴だが、人一倍心が繊細にできていた。
「ねえ、藤間君」
「……どうした?」
「寺井君、どこに行ったんだろうね。あいつテンションおかしい奴だったけど、絶対にあんな電話するような奴じゃないし、身の振り方も考えず失踪するなんて人じゃなかった」
「ああ。だろうな。どこに行っちまったんだろう」
「……藤間君は、それは呪いだと思うの?」
「考えあぐねてる。何を信じていいか分からない。自分の考えすら、信じられない」
日常を殺した異常な日々が、冷静な思考を破壊し、蹂躙していく。情報の取捨選択すらままならない。
「そう、だよね。それが普通だよ、うん」
「平塚は何を考えてるんだ」
「……一体、どうすればいいんだろうって」
弥生は下唇を噛み締めた。彼女の言葉は、さらなる事件が引き起こされると危惧、いや、確信しているものでもあった。
「私たち、助かるよね」
弥生の問いかけに、俺は自信を持った相槌を打つことができなかった。
「助かるも何も、まだ俺たちが標的だと決まったわけじゃない。それに、殺したのは、俺達じゃない。そうだろう」
「けど、見捨てた。七人いたのに、誰も救いの手を差し伸べようとしなかった。それは復讐に足りうるものじゃないのかな。少なくても、私が逆の立場だったら、きっと、恨んでたと思う」
「そんなこと……」
それきり俺は黙り込む。というより、そうするしかなかった。
「けど、俺もわかる。その気持ち。俺の愛している人が、助かるかもしれなかったのに、助けようとしなかった連中がいたら、きっと、俺も復讐を思いついてしまうと思う」
「藤間君はそれを人為的だと見込んでいるの?」
「今は、何とも言えない。けれど、倉森の言う通り、幽霊なんていない。……そう思う。いや、そう思いたい」
そうしなければ、自分で自分を保っていられないから。
「……もし幽霊がいたとして、私たち、絶対に恨まれてる。知ってる? 織田さんや寺田君はあの事故のこと、武勇伝みたいに語ってるらしいのよ」
「そんな……けど、何で知ってるんだ」
「最近はインスタグラムや、SNSが主流の世の中よ。簡単に人の発言なんてわかっちゃう」
「まさか……」
いや、ありえない話ではない。彼らは一時的にあの事件に怯えていただろうけれど、数年経てば酒の肴になるレベルの事件でしかなかったのだ。あいつらは、良くも悪くも無神経なところがあった。
逆に、稲村は精神を病むほどに、そのことに対して思い詰めている。
「小説を書いているとさ、たまに思うの。私も小説のキャラクターみたいな、日常とは程遠い体験をしたいって。けど、間違いだった」
駅の雑踏にのまれた弥生は、憂鬱気に言った。
「戻りたい。何もない、くだらない日常に」
夕方。面会時間ギリギリのころ合いに、俺と弥生は野本の病室に訪れた。昨夜錯乱していた面影はすでになく、暇そうに読書していたが、俺たちに気づくと本を伏せる。個室部屋の特権か、ベートーヴェンの交響曲第9番、『歓喜の歌』が流れ続けている。そういえば野本は格調高いクラッシックを好んでいた。
「君たちが来た理由を僕は何となく理解できる」
テレビは毎日見ているからな、と野本は力なく微笑んだ。この様子では、寺井の失踪については理解しているのだろう。
「僕たちは呪われたんだ。あの女、僕たちを全員殺すつもりなんだ」
「まだ寺井君が死んだって決まったわけじゃないよ! ……それに、幽霊の件も、幻覚とかじゃないの?」
「お前も、僕を疑うんだね」
「違うよ。けど」
諦めたような態度の野本に、弥生は言いよどむ。
「……一応言っておくけど、仮に僕の話を信じなくってもかまわない。けれど用心は忘れるなよ」
「野本もなるべく誰かと一緒にいろよ」
「もちろん」
野本はそういい残し、力なく嘲笑の色を浮かべた。
「そういえばさ、聞きたいんだけど、どうして本棚の上に花瓶があるの?」
話題を変える趣向があったらしい、弥生が本棚の上を指した。そこには一つの花束が植えられていた。ピンク色のバラの束だ。とても美しい。
案の定、野本の表情が明るいものとなった。
「ああ、これは彼女からもらったんだ」
「彼女……え! 野本って彼女いたのかよ!」
俺の素っ頓狂な声色に、弥生はイケメンだしね~と呑気に返した。理知的な彼が、ここまで幸せに破顔することは珍しかった。弥生も話をずらしたという意味合いもあっただろうが、彼の予想を超える幸せそうな態度に、本当に興味を示したらしい。
「大学時代から付き合い始めてね。その時僕は大学院へ進んだけど、彼女はもう働いてて、一時期紐だったこともあった。そしてせっかく精神科医になれたのに、今度はこんなことになった。本当に情けないよ」
「彼女いるだけ羨ましいじゃねーか。俺なんて家にいるだけで憂鬱になるよ。一人だから」
「そうか? まあ、実験ばかりしていた僕なんかを好きになってくれる子だ、大切にしたいと思ってる。何があったとしてもね」
結局そのまま俺たちは面会時間が終わるまで、野本の彼女の話で盛り上がっていった。
その反動かもしれない。
家に帰ると、改めてここには自分以外の人間がいないのだという実感がわいてしまった。
誰もいない孤独感。いつもなら狭いと思ってしまう部屋が、妙に広く感じてしまうのはどうしようもないだろう。
「……なんだよこの不安感」
家にいるのが、怖い。窓も外から誰かからみられているのではないかと錯覚してしまうほどに、疑心暗鬼に陥っている自分がいた。すぐにカーテンを閉めるも、今度はカーテン隔てた向こう側に誰かが立っているのではないかという妄想をしてしまう。
俺はスマホを確認する。現在誰からもメッセージが届いていない。寺井からも。
何の気なしに、俺は寺井にラインを送った。
『寺井、元気か? お前どこにいるんだ』
もちろん、既読がつくはずない。
「畜生……」
俺はラインを閉じ、ついインターネット上で検索をかけた。もちろん、十年前に起こった事件についてだ。十年前から俺はあの事件についてわざと忌避してきた。そのため信じられないことに、この事件の簡単なあらすじしか理解できていなかった。
だからこそ、向き合わないといけないという使命感があったのだ。何より、何もしない状態というのが最も気持ちが悪いことであったからだ。
すると表示されるページの多いこと多いこと。
「そういえば、あの時は警察にばれるんじゃないかってずっとひやひやしていたな」
高校時代の、少なくとも高校一年が終わるまでは勝手にびくびくしていた。いつから、何も感じなくなったのだろう。時の流れは確かに傷をいやしてはくれるけれど、同時にそれはとても残酷なことなのだなという奇妙な心得を得た気分だった。
「けれど、なんだこの検索結果は」
何故か上位ページには都市伝説関連のサイトが次々と現れていた。天澤が先日言っていたものだろう。調べようとしたのだが、今はそれが先決ではないと見送る。
適当なページをクリックすると、一瞬画面が白くなり、写真付きの小さな記事が表示された。
写真は、まぎれもない、事故が起こった場所の物だ。
記事には、こう記されていた。
『7月21日の昼頃、近場の看護師勤務の女性(23)が大型トラックにはねられました。女性はその後病院へ搬送されましたが、やがて死亡が確認されました。女性がはねられた場所は人通りも少ないため、事故が起きてから約十五分ほど、通行人の目に触れず、通報がされなかったということです。病院関係者は『もっと早く通報があれば、助けることができた』と遺憾を示していました。トラックに搭乗していた男性(69)は、眠っていた、何が起こったか分からないと供述しており、警察は男性を過失運転致死傷罪の疑いで逮捕、現在取り調べを行っています。』
通報が早ければ、助けられた。
「……クッソ」
衝撃だった。あの時踏みとどまれば、高確率で助かっていた。
なのに、俺たちは……。
「ん?」
記事の下に、関連リンクがあった。これは比較的新しく、一か月前ほどの日付が記されていた。
その題名を見、俺の背筋は完全に凍り付いた。
『トラック運転手、刑期を終えた直後に殺害される!』
また一人、あの事件の関係者が、毒牙にかかった。




