殺意感染――次の犠牲者は チャプター2
目を開くと、花が添えられた電柱が目の前にある。壁の裏には血の跡がいまだに残されていた。十年前にしては鮮明すぎる記憶に、いつの間にか俺の両腕は汗でぬめぬめしている。
コンクリートの塀の奥には廃ビルがそびえたっており、誰かが見ているのではないかという幻覚を抱いてしまうほどだ。
結局、あれから俺たちは疎遠になっていった。寺井と稲村、織田の三人は部活をやめ、残留した四人はおのずとプライベートの付き合いはおろか、最低限の会話すら交わすことがなくなった。
そのまま高校卒業した後はおのずと縁も切れ、今に至る。
「……?」
他のメンバーが黙とうしている中、一人だけ――野本だけが虚空を見つめ続けている。彼らしくない、冷え切った瞳には、一体何が映っているのか。
しかし、やがて弥生たちが目を開くと同時に、誰ともなく解散の雰囲気が漂い始めた。
稲村は未だに浮かない表情のままだったが、いくらか顔色が良くなった。
「今思うと、私たち、最低なことしたんだよね」
「そうだけど、あれは仕方ないじゃん。高校生からしたらトラウマぶっちぎっちゃってたんだもん」
悲しげな弥生と相反し、織田は口元をすぼめる。その口調は、あくまで明るかった。
「それに、私たちが助けたからと言って、生存できたとは限らないしさ」
織田は完全に吹っ切れたらしい。少しだけ冷たい気もしたが、今こうして愚図愚図悩み続ける俺からすれば、十分羨ましい感性だ。稲村は眼鏡を押し上げながら、そんな織田を感情がこもらない目で見つめていた。
「そろそろ帰るか」
俺はそう呟く。今日の目的は達成された。もともとこれは稲村の精神状態を安定させるというのが根幹になったイベントだ。むろん俺たちの区切りという意味合いも介在していたけれど、だからと言ってここにとどまりたいという心持にはなるはずがない。
「ねえ、提案なんだけど」
野本が手をあげる。先ほどのような虚ろな眼差しではない、柔和な笑みと垂れた目尻。
「せっかくだしさ、近くに僕の行きつけの居酒屋があるんだ。よっていかない?」
「そういえばそろそろ小腹が空いてきたわ」
倉森がポケットから財布を取り出す。官能的までに白い肌が映える。腕時計は十一時半を指していた。
「稲村君もいける?」
「ああ。俺も腹減ってきた」
「あたしもー!」
皆が次々と賛成する。無理もない、あの時から十年が経過したのだ。たとえ短い間でも友人でいた俺達には、あの頃のように騒ぎたいという願望が大なり小なりあったのだ。
不意に、弥生が振り返った。不審げに眉を顰める彼女に、俺は声をかける。
「どうした?」
「いや、なんでも」
弥生は首を振る。しかしその表情はありありと曇っていることに気づく。
「数分くらい歩いたらつくよ。ついてきて」
どうした、と問いかける前に、野本は俺に笑いかけ、背中を見せて歩き出した。
太陽には雲がかかり始め、どこか陰りを増し始めた。
居酒屋はがやがやしていた。先ほどの静寂が忘れられない俺たちにとって、そこはある意味ベストな場所だった。やる気のなさそうな店員に案内され、通されたのは九人が座れる座敷。
「とりあえずあたし生! 絶対生ビール!」
着席した瞬間騒ぎ出す織田に、倉森はおい、と自制を求める。野本もみんな生ビールで大丈夫かなと問いかける。唯一弥生はウーロン茶だった。
やがて全員のもとにビールやおつまみのサキイカ、ポテトが運ばれてくる中、俺らは高校時代の思い出や、先ほど話した社会人生活についてを饒舌に話し続けた。というより、嫌な空白の時間を作りたくなかったというのが実情で、どこか食い気味に俺たちは延々と話し続けた。そこには先ほど黙とうをささげた話題は一切なかった。
そんな中、弥生は席の端でカタカタと貧乏ゆすりを続けていた。しかも落ち着かない様子で、稲村のことを監視しつつもひっきりなしに周囲を警戒している素振りを見せている。会話も振られれば返すものの、どこか上の空。
「何かあった?」
雑談に花を咲かせる傍ら、俺はそっと弥生に聞きただすと、彼女は暫く話すかどうかを逡巡している様子だった。
やがて、弥生は俺に顔を近づける。ほんのりと香水の良い香りが鼻を撫でた。
「……ちょっと、来てくれない?」
弥生は俺と連れ立って席を立つ。俺たちが立ち上がるのを、稲村が眼鏡を押し上げながら見つめていた。
居酒屋から出ると、ものすごい熱気が体を襲う。思わずクラリとしてしまう熱に、思わずため息が漏れる。
「で、なんなんだ?」
熱線に当てられてるはずなのに、彼女の顔は真っ白だった。燻ぶる不安感が、じわじわと胸を占める。
「……聞きたいんだけど、あの時、誰かの視線を感じることはなかった?」
「視線?」
俺は彼女の言葉を反復する。
「視線って……どうして?」
「感じたの」
弥生の声色が戦慄いだ。
「あの時黙とうを終えて、目を開けたら、廃墟のビルから誰かが見下ろしてたの」
「誰かって、誰が?」
そんな気配、全く感じなかった。いや、幻覚だけは覚えたけれど。
「分からない。次の瞬間には消えてたから。よくわからなくて」
見間違いかもしれないんだけどねと弥生は続ける。
「ごめんね、変なこと言って」
「別にいいけど……」
神経過敏になってるだけではないか。廃墟のビルに上がって、俺らを観察する。どういう理由で? 弥生には申し訳ないが幻覚だろうと結論付ける。弱弱しい弥生に、俺は慈雨の如く大丈夫だと慰めてあげた。
「こんなことになったんだ、やっぱり精神的にきついから、そう言うものが見えちゃったんでしょ」
「だよね。うん、気にしすぎかも。稲村君を笑ってられないよ、私」
付き物が晴れたらしい弥生は再び居酒屋へ戻る。
「なにやってたの~まさか告白? ひゅーひゅー!」
「織田澄香、下品なことを口走るな」
倉森がジョッキを煽り、わずかに顔を赤らめながら織田を窘める。
「そんなんじゃないわよ、もー」
弥生が席に座り、ウーロン茶を両手でごくごく飲み干す。先ほどよりも若干調子が戻ってきたらしく、それからは織田と会話を弾ませていた。
「……これで、いいのかな」
ポツリと稲村がため息交じりについたのは、そんな時だった。
「稲村?」
「俺ら、こんなことで、許されるはずがない」
応答に応えることなく、稲村は独り言のように、ゾッとするほどに澱んだ瞳をビールのジョッキに注ぎながら――いや、茫然と見ている方向にたまたまジョッキがあったというだけかもしれない。――虚ろに呟く。そのぼそぼそとした声は、隣に座る俺以外には聞こえていない。
「俺たちは、ひょっとしたら――」
それっきり、何かを怖がるように押し黙り、頭を抱える稲村を、ちらりと倉森が見やる。
織田と弥生のバカ騒ぎが、ひどくから回っている。野本は二杯目のビールで止め、時々おつまみをつまむ。その後社交辞令も半分含まれていただろうが、全員のラインを交換した直後に倉森は席を立ち、どこかに電話を掛けていた。
その中に囲まれながら、俺は形容し難い不安感を覚えていたのも事実だった。何か、得体のしれない者が、俺らの周囲を嗅ぎまわっている薄気味悪さ。
刹那、背後に気配を覚える。誰かに見られているような、ちりちりと背中がこそばゆくなる感覚。……じっとりと睨みつけられてる。じっと、俺を、俺たちを見ている……。
弥生の言葉が脳裏をよぎり、振り返る。
当たり前なことに、俺たちに視線を送る人間は、一人もいなかった。
解散したのは、結局午後三時を過ぎたあたりだった。電車を乗り継ぎ、元のボロアパートに戻る。
「疲れた……」
アパートに入り、蒸した部屋にエアコンを入れる。地球温暖化など埒外な低い温度に設定したことが功をなし、ものの五分で快適な温度になる。
結論から言い、この出来事は、全く持って俺たちに対し良い効果が表れることはなかった。むしろ弥生の一言が原因で、胸の奥底にうっそうとした不信感が芽生え始め、十年前の良心の呵責が鮮明に浮かび上がっただけだった。稲村の『何か』を示唆した発言も……。
「くそ……」
スマホのラインを見る。今日追加された五人分の連絡先。消してしまおうかと思ったが、さすがにそこまで薄情になり切れない。
あの事故の後と同様の不安と、目の前で人が死んだトラウマがぶり返しただけ。弥生の提案をひどく恨めしく思うが、全ては後の祭りだ。まるでこれは呪いのようではないか。
絶望に染まった、あの女性の目。
「なんで忘れられないんだよ」
誰か、殴ってでもいい。俺の記憶から消去してくれ。そんな突拍子のないことを考えてしまうほどに、俺は追い詰められているのだろう。
ちゃぶ台に顔をうずめる俺は、目を瞑る。
ずっと歩きっぱなしだったのは体に堪える。普段はデスクワークのため、妙に疲れている自分がいた。
少しだけ寝ようと思った数分後には、俺の意識は闇に沈んでいた。
嫌な夢を見た。
というのは、俺はその夢を明確に覚えていなかったから。けれど、後味の悪い夢だった。
俺は、何かから逃げていた。ふらふらになりながら、痛みを堪え、左肩を抑えながら、暗い道を走り続けていた。
何かが、追いかけてくるから。
明確な殺意と、それに応する狂気を握った何かが。
誰もいない暗闇。
捕まったら、殺される。
生存本能からくる警告。振り返る。ただ闇が広がり続けてるだけだ。
けれど、何かが追ってきている。
再び逃走を開始するために、視線を前に向け――あってはならない方向に曲がった四肢、血に塗れたあの女性の目と交錯する。悲鳴のなりそこないが、喉元から漏れ出る。
「お前のせいだ」「お前のせいだ」「お前のせいだ」「お前のせいだ」「お前のせいだ」「お前のせいだ」「お前のせいだ」「お前のせいだ」「お前のせいだ」「お前のせいだ」「お前のせいだ」「お前のせいだ」「お前のせいだ」「お前のせいだ」「お前のせいだ」「お前のせいだ」「お前のせいだ」「お前のせいだ」「お前のせいだ」「お前のせいだ」「お前のせいだ」「お前のせいだ」「お前のせいだ」「お前のせいだ」「お前のせいだ」「お前のせいだ」「お前のせいだ」「お前のせいだ」「お前のせいだ」「お前のせいだ」「お前のせいだ」「お前のせいだ」「お前のせいだ」「お前のせいだ」「お前のせいだ」「お前のせいだ」
多方向から響き渡る、女性の声。やめてくれ、やめてくれ、やめてくれ! あれは俺のせいじゃない。俺のせいでは――!
同時に、背後に強烈な気配を覚える。居酒屋と同等の、粘着質な気配。銃口を突き付けられたような、極度な緊張感。
振り返ったらヤバい。
そんなことは分かっていたはずだ。
けれど、俺の体は自分の意に反し、後ろを確認しようとする。
そして、俺はそれを見た。
そこには が。
背を起こした時、全身は汗でぬれ、強烈な吐き気を催していた。いまだにあの殺意と憎悪が現世に存在してる気がし、自失茫然となってしまう。心臓は快走した後みたいにどくどくとせわしなく動く。シャワーを浴びたと勘違いするほど、俺はぬれていた。腕がブルブルと痙攣しているのをどこか他人事のように見つめながら、座敷の上に、再びあおむけに寝転がる。
空はすでに闇に包まれており、視界が利かない。電気をつける気力も起きず、ただ重力に任せるままとりとめのないことを頭の中で発散させていく。
「毎日がこんなんだとしたら、そりゃ精神病むな」
神経質で気弱な稲村だったら、まず耐えられない。
やってられるか。
「平塚め……」
恨みがましく彼女に当たってしまうが、心の奥底では許諾した自分が悪いと理解していた。寺井もこのような事態を恐れ、弥生主催の弔いには不参加だったのだろう。いつからか忘れていた、頭を抱えたくなるほどの罪悪感が、今になって……。
ブルブルブル……。
スマホが振動する。
「なんだよ……」
弥生あたりか? スマホを開き、俺は首をかしげる。
非通知。
面倒だな。誰だ?
俺は電話をつなぐ。
「もしもし、どちらさまですか」
「……」
応答は、無い。
「……どちら様ですか」
二度問いかけるも、相手は押し黙ったままだ。
「……もしもし」
「アナタガトオマモリエサンデスネ」
心臓が飛び出るかと思った。パーティーグッズだろうか、人間の音域ではない、例えばニュースのインタビューの時の、男性か女性か不明なキンキン声。
「あんた誰だ」
背を起こすと、相手はくつくつと邪悪に嗤う。
「ワタシハオマエノコトヲゼッタイニユルサナイ。ゼッタイニオマエヲ」
――コロシテヤル。
ぷつんと言う音ともに、電話が切れた。反応する間もなかった。ツーツーツーという音だけが空しく響き渡る中、俺は唖然とするほかなかった。
思い当たる節は、一つしかなかった。
「どういうことだよ、本当に」
いたずらか? それにしてはタチが悪すぎる。それ以前に、やる奴が想像できない。悪乗りするやつといえば、織田か寺井の二名だ。寺井は欠席しているから、織田か?
……いや、さすがに織田でもそんな非常識なことをしないだろう。
ピロリン♪
次の瞬間、ラインの通知が来た。
弥生だ。
「なんだよこんな時に」
水色の画面に、黄緑の吹き出し口が現れる。
そこには、こう書かれていた。
『さっき変な電話が来たんだけど、藤間君じゃないよね』
『考えすぎたことは、全て問題になる』
二日後、俺は友人である天澤敬之の家にいた。彼は大学の同期――一浪しているため、実際は俺より一歳年上ではあるが――であり、サークルを通して知り合った。どこか変人としての一面も併せ持つ彼は、どういう因果か俺を可愛がってくれる人だった。
そして、酒の席で唯一全てを語ったことのある人でもある。無精ひげを擦りながら、天澤は年代物の安楽椅子に深く背中を預けた。
「ニーチェの言葉だよ。守恵は何事も難しく考える癖があるじゃないか」
「けど、平塚にもかかってきてる。単なる悪戯だと思えないんだ」
「それこそ、織田さんや寺井さんのどっちかじゃないのか。聞いている限りそんな気はしたけど」
「そんなこと――」
しないと断言できる証拠はない。居酒屋で飲んだ時のまま、冷静な思考を放棄した状況下なら有り得る。その後、他のメンバーの確認を取ったところ、野本と倉森、稲村にもかかってきたらしい。織田も同じ証言をしていたが、正気に戻った後に自作自演することだってできる。
問題は寺井なのだが。
「織田を介してラインをもらったんだけど、なんか音信不通なんだよね」
どうやら弥生がいくらラインを送ってもリプライがつかないらしい。
「……とにかくだ、そんな心配しないほうがいい。君はただ目撃しただけなんだろう。仕方がないんじゃないかな。お前は罪人じゃないなら、なおさら恐怖に煽られるな」
「……そうじゃ、ないんだよ」
「ああ知っている。目の前に死にそうになった人を見つけた。しかしお前は怖くて、それどころじゃなくて、逃げ出した。助けようともせず。お前の罪の意識の対象があるとするならば、それは司法や法律ではなく、自部自身のモラルと良心なんだろう」
天澤の言葉は、どうしてこうも俺の核心を抉るのか。軽く首を振ると、だろうな、と天澤は続ける。
「実際、あそこには都市伝説らしきものがあるらしいし」
「……」
得意げに語りだそうとする天澤は、俺の様子を察したのだろう、小さくため息を一つついた。
「そうだな、こんな話がある。ある駅の植物で形成されたロータリーに、一人の男性が車と接触して吹き飛ばされたんだ。その人は瀕死の重傷でね、とにかく損傷がひどかった。腕の骨は折れている、左目は激痛で何も見えない。耐え難い痛みだ」
彼は薄気味悪い笑みを浮かべた。俺は彼のことを畏敬を持って接してきているものの、この何を考えているか分からない笑みは好きになれなかった。
「誰かに救急車を呼んでほしいと思った彼が、必死の思いで立ち上がり、見たものは何だったと思う?」
「……さあ」
「今にも死に絶えそうな男に向かって、写真をっている人間たちの姿さ。面白い。刺激的。それを求めた群衆は、救急車を呼ぶことなく、その男性を撮影していたのだよ。インスタグラムやインターネット掲示板、俗にいうさらしというやつか、単純にクラスメイトや友人に、すごいものを見つけたと宣伝したいのか。いずれにせよ、彼らは男を助けることなく、ただ自分たちのためにそれを撮影し続けた。助けようとするものは、一人もいなかった」
「ひどいな……」
「結局その男は助かった。近くにいた老婆が連絡してくれたから。しかし退院した彼は、そんな人間の醜さ、誰かの不幸を楽しく嘲笑う性分を極度に恐れ、壊れ、廃人になり自殺した」
胸糞悪い話だが、俺は似たような話を一つ知っている。確か××駅で首つり自殺をした人間がいて、その写真を道楽の如く撮影し、ネットで叩かれたというものだ。
「人間というのは本来実に残酷なものだよ。人が死ぬのを見るのが楽しい。人が苦しむのをエンターテインメントとして鑑賞し、自分が良ければすべてよし。そんなもんだ」
「それは全人類をひっくるめた言い方過ぎるんじゃないかな……」
「違うのか? ならばどうして最近の若者たちは人の不幸の話だけでそれほどまでに盛り上がることができる。苦しむ人たちを見て一切同情せず、ただ爆笑しながら煽るだけ煽って何もしない? ネット上の個人情報の特定や人を貶め、不幸な人や追い詰められた人を鼻で笑うのは? ……まいや、やめよう、論旨とずれたな」
話を切り上げた天澤は、口元を皮肉げにあげる。
「けれどお前はそんなトチ狂ってない。むしろ後悔してる。そんなゴミみたいな倫理観を所持している男ではない……被害者に対してその気持ちだけを持てれば、後は充分なんじゃないのか? その人もお前のことなんて眼中にないだろうし、こうしていることできっと救われている。俺は少なくともそう思うよ」
彼の家から帰宅する頃には、あの時抱いていた恐怖の芽は、あらかた摘まれていたといっても過言ではなかった。
「けどさ、天澤」
「なんだ?」
「さっきの話、よくあの場で思いついたな」
帰り際に彼を誉めると、天澤は一瞬きょとんとしていたが、やがていつものニヒルな笑みを浮かべる。
「ああ。だって、それ俺の友人の話だから」
それがからかったものだったのか、あるいは事実なのか、俺には分からない。
家に帰宅してから、俺は弥生に考えすぎないほうがいいよと送った。間髪入れずにスタンプが贈られるのを確認し、俺はスマホの電源を落とした。
憑き物が取れた気分の自分も、実は倫理観を持たない者が大多数という現実に安堵し、彼らを下に見てるのに過ぎないと自覚はしている。天澤も俺がそう思うからこそ、あの例えを出してくれたのだろう。
「あいつには助けられっぱなしだな」
今度何か奢ってやろうと誓いつつ、俺は完全に十年前の出来事を過去の物として扱おうという覚悟を込めた。
数日が経過した時点で、俺は完全に切り替えることができた。日常とともにせわしなく働き、給料を得るために必死に仕事をこなす。
順調だ。
非日常を経験したからか、普段なら何とも思わなかったはずの日常の安定感に、俺は心底心酔していた。
だからかもしれない。
七月が終わり、さらに暑さが増した日のことだった。
仕事を終え、同僚と数人で飲みに行く際、スマホのバイブレーションが着信を知らせた。
スマホを開くと、弥生だった。
「なんなんだよ、急に」
寺井から連絡が取れないといういざこざから、約二週間ぶりである。またあそこに行くお誘いか、と冗談半分に考えながら、俺は通話に応じることにした。
「もしもし、どうしたんだ、平塚」
「藤間君! 大変なの!」
切羽詰まった声色に、俺の直感は告げる。まだ、全て解決していないと。
「何があったんだ?」
おのずと乾ききった俺の声色に被った、弥生のヒステリックにも似た断末魔が電話口から鼓膜を揺らした。
「野本君が、野本君が……!」
「野本がどうしたんだよ」
「たった今、病院に運ばれたのよ!」
弥生の声色はすでに涙声になっていた。天澤の慰めで保てていた安全という名の平衡が、彼女の一言で足元から瓦解した時の心情を、俺はどうしても言語で百パーセント表現することはきっとできない。
ただ、はっきりわかったのは。
何かが、俺の、いや、あの事件にかかわったメンバー全員を侵食しているかもしれないという振り払い難い恐怖感だった。
新宿駅




