殺意感染――次の犠牲者は チャプター1
深夜の一時を回ったころ、会社からくたくたになりながら、俺――藤間守恵はようやく帰宅した。まとまった案件が本日決着したため、家に帰るのは実に二日ぶりのことであった。
安月給にはお似合いの、古臭いアパートに入る。誰もいない座敷の小さな部屋に、ちゃぶ台が置かれているだけの簡易な部屋だ。即座に寝転がりたいのを我慢して、遅い夜ご飯としてカップ麺をすすっていると、突如スマートフォンがブルブルと振動した。こんな時間に電話をかけてくる人は、両親か会社の上司くらいだろう。どちらにせよ面倒くさいなと思いながら、俺はディスプレイを見、硬直する。
『平塚 弥生』
「どうして……」
忘れもしない、高校一年生の時のクラスメイト。数秒、通話するかどうか迷う。どうして今頃……。仕事の疲労が消え、満たされたのは、とうの昔に消え去ったはずの罪悪感。七月下旬の熱気に当てられ、ジワリとシャツに汗がにじむ。
よぎる、死の記憶。
『あの一件』の後に疎遠になった、六人のうちの一人。
「……ったく」
結局、俺は電話をつなぐ選択をした。こんな夜更けに電話をかけてくるなんて、ただ事ではないと思えたから。
つながる電話の奥から、カンカンと横断機の音が僅かに響く。
「もしもし。久しぶりだね、藤間君」
聞き覚えのある、きれいな声色。何もなかったかのような、のんびりとした声色であった。強張っていた肩が知らず知らずのうちにほぐれた。
「高校以来だな。元気にしていたか」
詰まりそうな声を無理やり引き出せば、何ら自然な声色になり電話口へ流れていく。
「まあまあかな。藤間君も、ちょっと老けたんじゃない? 声」
「老けてはないかな。毎日会社勤めで大変な日々を送ってるよ」
「私は小説家になったんだ! 今日も打ち合わせの帰りなの」
小説家。そういえば他の連中と遊んでいた時、公然と宣言していたような気がする。夢をかなえたのだ。
「そうなんだ。よかったじゃん」
「本当に大変でさ。仕事の割には臨時収入とか一切入らないから、生活カツカツなのよね」
そういえば、弥生は高校時代もよく笑う子だったなと思いながら、俺達は暫く昔の思い出話や、現在の苦境などを面白おかしく話し続けた。といっても、おしゃべりな弥生が一方的に話しながら、俺が相槌を打つという感じだったけれど。
気づけば、通話から二十分経過した頃合いだろうか、ふと会話が途切れ、やがて厳粛な雰囲気が、電話口から伝わり始めた。
「ねえ、藤間君……」
「何?」
「あれ、覚えてる?」
ドクンと心臓が高鳴り、無意識にスマホを持つ手に力がこもった。
「あれって、何?」
むろん、分かっていた。けれど、その話は踏み込んでほしくない類のものだった。カップ麺の汁に油が浮くのを眺めながら、俺は違う話題であってくれとほぼゼロの可能性を願った。
あの日、それは速やかに封印されたはずの、死の記憶。何年たっても色褪せることない、力なくしなだれた腕と、アスファルトを温かく濡らしていく血だまり。
二度とその話題に触れない。そう誓ったはずなのに。先ほどの親近感が一転、面倒なことを掘り返すな、と面倒に思えた。
「覚えてるでしょ、高校一年の、夏のあの事故」
事故。弥生に気づかれないように、静かな溜息を漏らす。電話に出る前、そうではないかなと予想に近い直感は、見事当たってしまった。
窓を開け、闇夜に沈む空を見上げる。かけることもなく満ち足りた満月が、黒い雲にかかり消えていく。
「それが、どうしたんだ?」
「明日、あの事故から十年経つの」
苦しそうな声色の弥生に言われる間もなく、そんなこと覚えている。忘れられるはずがないだろう。
人が一人、死んだのだから。
「えっとね、稲村君が、私の小説の担当者なの」
「稲村が? あいつ理系に進んだんじゃなかったっけ。なんで編集の仕事にいるんだ?」
稲村俊樹。彼も、俺たち七人のうちの一人だった。彼の動向は、他のメンバーと同様一年生を境に把握外だ。
「三年に上がって文転したの。まあそれはいいんだけど……ほら、私たちってあれから事故現場に足を運んだことなかったよね」
「当時通っていた高校から遠いし、近場に遠征する用事があっても意図的に避けていたからな」
そして卒業し、十年が経過した。
「そうでしょ。……彼ね、今わずかに鬱病の節があるの。それで、あのことを気に病んでて……」
「だけど、それがどうしたんだ? 要領がつかめないんだけど」
「あのメンバーを全員集めて、十周忌としてあそこへ行きたいの」
「弔いというわけか」
「うん。……それに、貴方にもあるはずよ。あれを負い目に生きることの心の余裕のなさを。私たちに必要なのは、隠すのではなく、贖罪だと思うの」
弥生の主張が理解できないなんてことはない。
あれ以降、しばらく俺は全てに関して疑心暗鬼になっていた。悪夢に睡眠を邪魔され、交番の警官を見ると心臓が握りつぶされそうな感覚を味わったものだ。
現在も時々、唐突なフラッシュバックのような夢を見ることがある。そのたびに、ああ、俺は一生あの剣から逃れることができないのだ、と妙に納得し、同時に暗雲とした気持を味わい続けるのだ。
俺はカレンダーを手に取る。
……明日は休みだった。
「分かった。……明日、どこに集合するんだ?」
正直言うと憂鬱だ。けれど、これから死ぬまでその幻影に取りつかれるなんて御免だ。
弥生がほっとした口ぶりで、集合場所を伝えた。
それが、忌まわしい惨劇の道しるべの一つと知らずに。
蝉の鳴く声が乱反射する。朝日に照らし出され、髪の毛が熱くなっていく。
「丁度、こんな日だったな」
集合地点は、とある遊園地だった。遊園地はゆっくりとぐるぐる回っており、絶叫系アトラクションからは甲高い悲鳴が響き渡る。時刻は十時すぎ。土曜日のため、親子連れやカップルの客が多く、独身の俺からしたら眩しく感じた。
遊園地の入り口にたむろしているのは、見間違えようもない、かつての親友たち。雑談を交わしつつも、どこか他人行儀な節があったのは否めない会話。長い間会わなかったからか、はたまたあの事故の影響なのか。
男性二人、女性三人。計五人。
男性の一人が、俺を認めるなり、わずかに手をあげる。
「変わらないね、藤間」
「野本もな」
中世的な顔立ちの野本竜輝はニコニコとしている。おかっぱに童顔なせいなのか、彼は相変わらず、朗らかな人柄に見える。
そばには眼鏡をかけ、ひっきりなしにきょろきょろしている稲村がいる。確かに神経衰弱が見て取れるほどに、弱弱しい姿だ。手にはハンカチがあり、額の汗をぬぐっている。目元には、あまり熟睡できていないのか、クマができている。鬱病とは聞いていたけれど……。弥生は誰かと電話を続けている。
「あと一人だね!」
織田澄香も、依然と大して変わっていない。はしゃいだ雰囲気をまとっているけれど、どこか作っているようにも捉えられた。あと一人――寺井正毅は未だに来ない。
「うん……そう……分かった」
弥生が電話を終えたらしく、スマホをポケットにしまう。
「どうだった? 寺井正毅は」
どこか凛々しい性質の倉森玲は、相変わらず他者の名前を呼ぶときはフルネームを用いる癖が治っていないようだった。
「来ないって。なんか風邪をひいていたっぽい」
逃げたな、と舌打ちする彼女。きつめの美人といった印象は、相変わらずだ。いや、あの時から稲村以外、あまりみんな高校から変わっていない。
「じゃあこれで全員ということ?」
「そうみたいね」
肩をすくめた弥生は腕時計を見る。
「これ以上待っていても仕方がないし、そろそろ出発しよう。ここからはかなり遠いから」
歩道を進む傍ら、俺たち六人は自分たちの近況について報告しあった。やはり弥生が小説家になったことは皆驚きを禁じ得なかった。稲村が精神を病んでいることは、弥生が他の皆に事前に打ち明けていたため、必要以上に触れることはなかった。
「へ~藤間って会社員やってたんだ。すごいじゃん! あたしからしたら夢のまた夢だよー」
現在無職らしい織田がすご~いとほめちぎってくる。
「そんなこと言ったら倉森だって相当だろ」
倉森は研究員をしているらしい。確かにその貫禄はある。
「大した研究じゃないわ。数学系統の研究で、近くの東山大学に所属してる」
「数学か。すごいじゃ~ん。あたし数学雑魚雑魚の理系だからさ」
「私だってそこまでできる人間じゃないわ。研究と並行して、数学ⅡとB関連の勉強をワーク購入してやり直してるところ。毎日忙しいわ。けど、いずれ数学界に革命を起こしてやるさ」
きっちりとしたスーツを身に着けた倉森はそう照れ臭そうに笑った。
「稲村も、大丈夫か?」
「……まあね、俺も編集者だ、皆の作品に真摯に対応するために、こんなところで立ち止まってるわけにはいかないのにね」
「お前も十分やってると思うよ、稲村俊樹。その心がけさえあればお前は大丈夫だと思うわ」
「僕一応精神科だから、よかったら来てよ。東京でクリニックをやってるから」
野本は名刺を稲村に渡した。
「そういや寺井は何になったんだっけ」
「マスコミ関連の職になったらしいよ! あいつ社会科だけはありえんほどできたからねー」
曰く織田は寺井とは親交があるらしく、ちょくちょく連絡を取り合ってる仲だという。
驚くべきことに、織田は倉森、それと野本までもネットワークを築いていたのだ。あれ以来誰とも連絡を取り合っていなかった俺からすれば、素直にすごいと思う。
「皆高校生の時とは予想できない職業に就いたんだね」
「ははあたし無職だし。精神科もめっちゃすごいやん!」
「かなり勉強したからね。一時期こっちが鬱の症状が出るほどになっちゃったよ。仕事ばかりで彼女もすぐ離れていくし」
野本に突っ込む織田に、一同笑いが起きる。
……あの時も、こんな感じだった。あの日も、俺たちは将来のことやテストのことについて面白おかしく語っていた。こんな風に織田や、今はいないけれど寺井が中心になって場を和ませて、俺たちは軽い雑談を交わしあう。一日経ったら忘れてしまうような、浅い会話。けれど俺たちにとって、それはその瞬間最も幸福だと思うに足る時間だった。
けれど、それも、あの一瞬で地獄へ変貌したのだ。
血なまぐさい記憶とともに。
賑わう大通りの裏へ出ると、一気に人の姿が減った。
細い、まっすぐの道。車が二台がぎりぎり入るくらいの舗道に加え、ひどく見通しが悪い場所。
ここまで来ると、いつの間にか口数が少なくなってきていた。封印した記憶の場所なのだ、さすがに織田も騒ぐことはない。複数人の足音だけがするだけの、気まずい静寂。
夏だというのに、ここは冷蔵庫のように冷え切っていた。蝉の声もない、不気味なほど静かな場所。すでに廃墟となったビルが林立しているおかげで、日当たりも悪い。遠くから、わずかに遊園地のアトラクションのBGMが流れ込んできている。
「十年前のままだな」
思わず俺は声を漏らした。まるで、タイムスリップしたかのようだ。
「本当だね」
野本は口元に手を当てる。稲村の眉間にしわが寄った。
何から何まで、あの時と同じ……。
「ねえ、この電柱の花って……」
電柱には花束が六つ添えられていた。紫色の花だ。数本ほど束からはみ出ている。
「枯れていないことを考慮すれば、つい最近供えられたものらしいな」
倉森が一本を手に取り、次には首をひねっていた。
「何かあったの?」
「……いえ」
弥生の問いに、倉森は首を振って曖昧に微笑するだけに留めていた。
「ここで、あたしたちが……」
彼女の不審な対応が気にかかったのだが、織田の戦慄く一言で全てが埒外になった。
電柱の裏には、黒々とした染みが残っていることに気づく。
俺たちを見下ろすように建てられたビルは廃れ、人気はない。
……畜生。
よぎる最悪の記憶が、目の前の景色と重なり、ぐにゃぐにゃと形成されていく。
「……とにかく、黙とうしよう」
野本の言葉に、賛同しない者はいなかった。
高校一年生のころだった。同じ部活動で意気投合していた俺たち七人は、夏休みの思い出作りに遊園地に行こうという計画を立てた。企画したのは稲村、それに乗ったのが俺と弥生だった。
当時通っていた東山高校から二駅離れた遊園地である。金額的にも学生割引のおかげでお得だったこともあり、日程を合わせて土曜日に駅前集合と相成ったのだ。
その夜は友人たちとの遠征に、心を躍らせていた。きっと他の皆もそうだっただろう。夜遅くまで興奮で寝付くことができなかった俺たちは、寝る直前までラインをしていた。特に寺井は、いつもの数十倍ほどは騒がしかった。
当日の朝は、不気味なほどに晴れていた。駅前に行くと、既に寺井や織田がいて、弥生は遅刻してきた。そしてようやく出発しようという時、丁度道を調べてきたという倉森が提案したのだ。
「正規ルートで行くより、近道を通ったほうが五分くらい早いみたい」
「よく知ってるなぁ、玲ちゃんは」
俺たちが倉森の提案にのらない手はなかった。寺井の馬鹿でかい一声で、俺たちは彼女の誘導を受け、大通りの裏手へ出たのだ。
裏手はじめじめしていて、日当たりが悪かった。しかもどこか鬱蒼とした雰囲気が漂っているのは、商店街とビルに囲まれ、太陽光が来ないからか。
「本当に、ここ大丈夫なの? なんというか、すごく心細くなる」
「大丈夫だろ。普通に人が住んでるビルが横に隣接してるしさ」
びくつく野本をリラックスさせていると、織田があちゃーとしゃがみこんだ。
「どうした? 織田」
「いや、ちょっと靴紐がほどけちゃった」
織田がしゃがみこみ、一同が停滞するも、数分もかからず再出発する。
「車通り少ないな」
「裏通りだからね。怖いの? 稲村俊樹」
「んなわけないだろ。な、野本!」
小悪魔的な倉森の挑発に稲村がムキになる。野本は胸元に手を当てながら、口を閉ざしたままだ。
「なんつーかよ、あれだよな、ホラーゲームに出てきそうだなぁ! 絶対夜に来たくねーよ」
「絶対寺井は泣くでしょ。爆笑」
寺井は一切臆することなく、織田とゲラゲラ笑い続けている。そこに野本や稲村が感じる不安感はなかった。
……俺は野本の気持ちがよく分かった。何しろ、そこだけが異界にでも取り込まれたかのような異様さがあったから。弥生も同様らしい、テンションが高い織田に付き合いながらも、どこか浮かない顔つきをしていた。
そんな時、俺たちが行きたがった遊園地の曲が流れてきた。
「この曲って……遊園地、近いのかな」
だから、野本がおずおずと声を上げた時、俺は真っ先に助かったと思ったのだ。どうして助かったという思考が生まれたのかは分からない。けれどその時俺は痛切に思ったのだ。
「早く行こうぜ!」
それは俺だけでなく、稲村も同じだった。彼は一心不乱に駆け出す。待って、と弥生も彼につられる。
丁度その時、背後から車の駆動音がした。振り返ると、細道にもかかわらず、トラックが猛スピードで走ってきたのだ。見る間に近づいていくトラック。
「なんだ……あのトラック」
時速は四十キロくらいだろうか。……しかも、何故かトラックのヘッドライトの一つがへしゃげている。
この段階で、嫌な予感はしていたのだ。
野本が口元を引きつらせる。倉森の表情が変わる。不穏な空気が漂う中、視力が高かった俺は、当然トラック運転手を見て、マジかよと一言呟くしかなかった。
トラックの運転手は突っ伏していた。頭がはげた、老齢の男性だ。
そして、先に走り出した稲村と弥生は、後ろの暴走に気づかなかった。
「稲村! お前らちょっと待て!」
今思えば、俺が不用心に声をかけたのが、全ての過ちだったのだ。
「なんだよ」
立ち止まる稲村がいた位置は、大通りから裏道につながる一本の道だった。突然静止した彼にぶつかる弥生のせいで、稲村がうおっと変な声を漏らし、数歩よろけでた。
その瞬間だった。
自転車が、裏道から飛び出してきたのだ。
乗っていたのは、二十代くらいの女性だったと思う。思うというのは、俺がその人を見たのが一瞬だったから。
女性はゆっくりと自転車をこいでいた。おまけに、この道に出る直前、確かに彼女は左右を見、安全確認を怠らずに進行していた。
そして、稲村が後ろの弥生につかれて前に進み出、自転車のバランスを簡単に崩す結果となった。
今でも、あの瞬間は忘れない。
地面に転がった女性の上に、自転車がガシャンと彼女のうつ伏せになった背中を襲う。痛みに顔をゆがませた女性が、立ち上がろうと両手に手をついた――。
刹那、トラックが俺らのすぐ真横を通過した。トラックの荷台には、某引っ越し屋のマークが刻印されているのが目についた。立ちすくむ弥生の瞳に恐怖の色が走る。
しかも、吸い寄せられているかのように、トラックの進行方向が、弥生たちに向いたのだ。
暴走トラックの運転手は、目を覚ます気配がない。
「お前ら早く隠れろ!」
叫んだのは寺井だった。血相を変えた彼の後ろには、反射的だろう、目を瞑った織田。
「やべぇ!」
稲村が、そんな弥生の手を引き、先ほど女性が出てきた道に隠れる。
間髪入れずに、稲村らがいた場所をトラックが通過した。
トラックに遮られたため、あれを全て見たのは、そばにいた稲村と弥生だけだろう。
けど、こちらには、『その音』が夏の空のもと乱反射した。
自転車がガシャンと吹き飛ばされる騒々しい物音がした。
同時にカエルが潰れた瞬間にも似た、泣き叫ぶ絶叫と、天高く舞う血しぶき。コンクリートの廃墟の壁に、赤いものがべっとりとこびりつく。バキ、ともぐちゃ、とも形容し難い、骨を砕き、内臓をすりつぶす音。トラックが持ち上がり、やがてガコンとトラックのタイヤが地面に当たる。
「う、うおおおおおおお!」
野太い寺井の悲鳴。倉森が口元を抑え、目の前で起こった惨劇を直視する。
俺はただ超然と立ち続けることしかできなかった。鈍い音とともに、車の下から廃油と混じった血が流れ、むわりとした悪臭がする。
現実とは思えなかった。目の前の出来事がドラマのように現実味を欠いていた。自分は今夢の中にいるという現実逃避のおかげで、俺は多少他のメンバーと異なり冷静でいられた。
だからかもしれない。
トラックから、首が俺たちを見ていたのに、すぐに気づいた。
涙を流し、血を流した彼女と、目が合った。
必死の形相のまま、女性は言った。車の下から引き抜いたらしい、指の方向がめちゃくちゃになった腕を、俺に差し伸べた。
た、す、け、て。
た、す、け、て。
た、す、け、て。
た、す、け……て。
繰り返す彼女の瞳の光が、徐々に弱くなっていく。
助けられる。
そう、助けられたのだ。この時点で、彼女は死んでいなかったのだ。今手を打てば、きっと助けられた。
けれど、俺たちは。
「うあわああああああ!」
寺井が我先に走り出した。俺も、一人で取り残されるのが怖かった。だからこそ、俺も引きずられるようにに逃げた。逃避した。怖かったのだ。人が死ぬ。その瞬間に立ち会うのが。それほどまでに衝撃的な出来事だった。
「ちょっと!」
倉森の静止も、この状況では無意味だった。警察を呼ぶという選択肢を倉森も考えられなかったところからすると、彼女自身も動揺していたのだろう。
両足が走り方を忘れたかのように、いつも通りの走りができなかった。走っても走っても前に進めない。
がむしゃらに走った。というか、そうするしかなかった。
途中、振り返った時の彼女の目が忘れられない。
絶望、苦しみ、そして、どうして助けてくれないという憎悪……。
結局俺たちはうまく逃げ切ってしまった。
その後、寺井が取り寄せた新聞を見た時の驚きは、いまだに先日のごとくありありと覚えている。片隅に書かれた小さな記事には、高齢者の男性が看護婦の女性をひき殺したことが明記されていた。
めったに人が通らない場所だった。男性は意識不明になり、女性はあのまま十分ほど苦しみぬいた末に命を落としたという。骨が砕け臓器が飛び出し、意識を保ったまま、激痛に苦しみ、その女性は命を落とした。
俺たちがあの場に存在していたことは、新聞のどこにも書かれていなかった。
倉森が近道をしようとと提案しなかったら。
織田の靴紐がほどけず、そのまま歩き、一度停止しなければ。
野本が近くに遊園地があるなんて言わなければ。
稲村が駆け出さなかったら。その次に距離を開けず弥生が走らなかったら。
俺が、声をかけて二人の意識をこちらへそらさなければ。
寺井が絶叫し、我を失い逃げ出さなかったら。
その女性は、死なずに済んだのかもしれなかったのに。




