殺意感染――次の犠牲者は チャプター10
十分ほどが経過する。
ビル周辺には、そもそも人が少なすぎた。いたとしても会社員らしき人か、目つきの鋭い、あっち系の人ばかり。稲村や織田の亡骸が発見されるのは、かなり時間が経過した後になるだろう。
やはり、弥生はいなかった。完全に喪失しているのだ。
ビルを一周する。やや遠くの明るい商店街に行く。駅にも寄る。念のため、二人で訪れた廃墟によるが、燃えカスと半分炭になった木材が転がるだけで、彼女の姿は否めなかった。
いない。
何度もラインをする。無反応。
「畜生!」
守るといったのに。
こいつだけは守ると誓ったのに。
なんだよこの体たらく。
死ねよ!
自暴自棄になる自分を抑え、解決策を頭の中に巡らせる。
警察に頼る選択肢もあった。けれどそんなことできない。稲村を殺したも同然なのだ、心理的に警察に頼りたくないという思惑があった。天澤が警察を呼ばなかった理由も、その意をくんでくれたに違いない。もちろん間違っている選択肢だと理知的に理解することくらいはできるけれど、それは感情の問題だった。
天澤からは連絡はない。弥生の写真をライン上で与えたため、彼も彼女のことを認識できるはず。
「けれど、どうして彼女がいなくなったんだ?」
二つ考えられる。
一つは稲村の転落を見、錯乱して逃げ出したか。多分こちらが正解だろう。けれど、思い当たる場所を探し続けても見つからない。混乱し、どこかへ走り去ってしまった可能性もあるけれど。
もう一つは、あまり考えたくない物だった。
稲村が遺した、あの人という何かが、彼女を拉致したのではないか。
だから、こうやって足で走り回っても見つからないのではないか。
疲れがピークに達する。走るのをやめ、早歩きに努める。先ほどからずっと走りっぱなしだったから、息が切れていた。
「あの人って、誰だ」
稲村をそそのかし、織田を殺させた、あの人という存在。
姫路を見殺しにした件と、それが結びつかないなんて発想はなかった。
そいつが、その場にいた?
稲村が殺された時、俺たちが壮絶な鬼ごっこをしていた時、奴は、エントランスにいたのではないか。奴は弥生を拉致し、稲村が絶命したのを見届け、立ち去ったのではないか。
そして、倉森が遺した、謎の番号とローマ字。
ポケットにいまだに入ったそれを取り出す。
結局意味が分からないまま、ここまで来てしまった。
再び紙を見直す。
何度見ても、意味が分からない。
「俺にわかるはずないだろう」
倉森は頭が良かった。昔から。いつだって俺達の先頭にいた。数学がひたすらできる、そんな奴だった。
少なくとも、あんな死に方をするような奴ではなかった。
そんな彼女の言葉の真意を、俺は理解することすらできない。
「倉森……」
弥生とともに廃墟へ向かう前日に、彼女から掛かってきた連絡。
思えばこれが、彼女の肉声を最後に聞いた連絡だった。
「……ん?」
不意に、俺は違和感を覚える。
あの時、彼女はヒントというのを俺に与えた。一つは、パソコンの裏を調べろというものだった。結果俺は理解できない暗号を得ることができた。
「けど、あいつ、あの時もう一つ変なことを言っていた」
いつの間にか俺の足は止まっていた。
思い出されるあの時の記憶。電話の奥から鳴り響く電車の通過音すらも再現するレベルまで、俺の脳はあの時の記憶をさまざまとよみがえらせていた。
あの時、彼女は言った。
『私のいつも使ってる机はきれいに整えてあるの。いつも使っている机はね』
「……ちょっと待てよ」
倉森が殺された現場の机はどうだった?
……書類やらパソコンやらで埋まっていた。どう考えても、整頓されていない状況下にあった。
何物かが侵入してきた時に、荒らされた? ……そいつが荒らすメリットなんてあるのか?
もし俺の考え正しいとしたら、整理されている机があるということなのではないか。
「だとしたら、違うのか?」
もし倉森が二つにヒントの位置を分けていたとしたら……?
一つは破壊されたパソコンの裏。
もう一つは、彼女がいつも使うという『きれいな机』という存在。
可能性は否めない。
恐らく倉森は自分が殺されるのではないかとうすうす察していた。殺しに来る奴もきっと誰か見当がついていたのだろう。けれど確信には至らなかった。だからこそ犯人の証拠を俺に残した。
二つに分けた理由も、すぐに考え付く。
ストレートでそいつの名前をあげれば、万が一奴の目に触れてしまえば確実に処分されてしまう。だからこそ一つじゃわからないように、すなわちそれがヒントだと奴にばれないようにするための措置だったのだ。
……そして、倉森の予想が的中する状況になったとしたならば。
「俺たちの誰かが、殺人鬼」
けど、もう一つのヒントはどこだ?
倉森の私生活を知らない俺からすれば、そんなことわかるはずがない。
俺は天澤に連絡を入れることにする。彼にわからなければ、俺は詰みだ。
一コールの後、電話はつながった。
「どうした? 藤間」
「話さなきゃいけないことがある」
俺は先ほどひらめいたことを手短に話すと、天澤は黙り込んだ。
「きれいな、机、か」
「心当たりはないか?」
「俺も彼女については分からないままなのだけれど……」
考え込む天澤は、やがて一つの質問をしてきた。
「彼女、職業はなんだ?」
「職業? 大学院生だった。数学系統の研究をしてる」
「……大学院」
彼は呟く。
「大学院には研究室がいくつか存在してる。そこのセミナーには個人に机が割り当てられている」
「じゃ、じゃあ……」
「倉森さんの大学に行け! 彼女が使っている机なんてせいぜい自室か、研究室の机しかないはずだと思う」
倉森の言葉を思い出す。
そう、確かに言っていた。あれは、寺井を除いた全員が集まった、十年来の再会の日。
「東山大学」
「そこって、確かここから近いよね」
ここから徒歩十分ほどの位置にある大学。
「けど、あいつの捜索が……」
「俺が捜索を行う。暗号を持っているのは君だ、お前に託す」
「分かった。気をつけろよ」
「お互いにな」
電話を切り、俺は地図を開く。
「行こう」
時刻は十二時を回ろうとしていた。
大学に入ると、宿直の男性がいた。老齢の用務員は、俺を見るなりいぶかしげに眉を顰める。大きなキャンパスだ、入り口に置かれたパネルを見る。学校案内のための物らしい。一号館から九号館まで林立する中、六号館が数学学科であることを理解する。
「すみません、忘れ物をしました」
用務員のことだ、在学している生徒のことなんて把握できていないだろうという思惑があった讒言だが、やはり彼は納得してくれた様子で、簡単に入校できた。
大きなグラウンドを抜け、俺は巨大な赤煉瓦の建物の入り口の番号を確認し、そのまま入室した。
二階まである構造で、とても広い。偏差値が高い大学だからか、設備が多いのだろう。
「研究室は……」
上のプレートを確認しながら、廊下を進む。
「……ん?」
不意に気配を覚え、振り返る。
もちろん、誰もいない。
「勘弁してくれよ、頼むからさ」
おのずと独り言が多くなってしまうのは仕方がないだろう。
遠くでサイレンの音がする。
……恐らく、誰かが稲村が死亡している現場を通ったのだろう。時間的にもそろそろ発覚してもよい頃合いだ。
俺はそのまま二階へ上がる。
……気配がする。
先ほどは錯覚だと思ったのだけれど、そんなことはない。……足音が、重複しているのにようやく俺は気づく。
大学に侵入してから、何かがおかしい。
ずっとつけられている。用務員さんじゃないのは明らかだ。警備員でもないだろう。彼らなら俺の姿を認めたら隠れる必要性がない。
不意に俺は、住宅街を逃げ回ったことを思い出した。
あの血まみれの女がフラッシュバックする。あいつがすぐ後ろで、俺を狙い、息を潜めているのではないか。
殺される。
……他の皆のように、殺される。
走り出そうとして、ギリギリのところで思いとどまる。
今逃げたところで袋小路に追い込まれるだけ。つけられているのを気付いていないふりをするほうが、得策なのではないか。うかつに気づいているそぶりを見せれば、奴はきっと俺を力任せに襲うのではないか。
結局ただ単に歩行に終始する。
おのずとナイフの柄を握りしめていた。いつ斬りかかってくるか、チリチリと背中に神経が集まっている感覚がする。
角を曲がった先には、非常口の緑のマークがあるだけで、真っ暗だった。
「……あった」
研究室-03 数学学科
扉は開いていた。……普通はロックが掛かっているのではないか?
しかし今はもたついている場合ではない。ガラス張りの扉を開き、素早く中に入る。
「暗いな……ここは」
七つの机が並んでいる。どれもこれも書類やら本やらでぐちゃぐちゃな机になっている。ずぼらな研究者は多いと聞くが、やはりそのとおりらしい。
しかし、真ん中らへんの机だけがやけにかたずいている。本棚に本が差し込まれているため、誰も使っていないということはなさそうだった。
机の右端には、名前のシールが張り付けられている。
『倉森 玲』
机には、一冊の本が出ているだけだった。
「これって」
数学のワークブックだった。高校生の数学だろう。確かあの時、俺達六人がそろった際に、彼女は高校数学を勉強しているという旨を雑談の合間に話していた。黄色のワークは黒鉛で汚れ、ページをめくると膨大な書き込み事項が乗っている。勉強熱心な倉森らしい。
「これがヒントなのか? けど、この一冊のワークに何が隠されてるんだ」
分厚い本だ、軽く三百ページはあるだろう。
持つとずっしりとした重みがある。
しかし、今ここで読み解く時間はなかった。
「……逃げよう」
気配は消えていない。どれくらいの距離を取れているのか不明なのだ。一刻も早く、退避しなければならない。
スマホを起動し、俺は天澤に通話をつなぐ。現在の状況を報告しておこうと思ったのだ。
そのまま研究室から飛び出すや否や、即座に俺は非常扉を開けた。
開けると、白にさびが掛かった螺旋階段があった。一階まで続いている。今にも足を滑らせそうなほどの量の鳥の糞が付着している始末。こんな時でなければ使用を遠慮していただろう。ややべたつく手すりに手を当てると、ひやりとする。
駆け下りつつ、振り返り、俺は心臓が止まりそうになった。
誰かが立っていた。俺が先ほどいた研究室の横。
暗がりで顔は分からなかったけれど、間違いない、奴は、ナイフを握っていた。
螺旋階段を駆け下り、一気に駆け出した。
いた。いた。いた!
後ろを見ている余裕がなかった。追い立てられているかのように走る。どう見ても奴は女だった。赤いシミのあるスカート。顔は結局認知することができず、というより認知するほどの精神的余裕がなかったというのが正しいだろう。本を持っている手が汗でぬめる。キャンパスを一気に走り抜ける最中、ようやく天澤と連絡がついた。
「見つかったか?」
開口一番に尋ねる天澤。
「やばい! 奴が大学に来ていやがった!」
追ってきているだろうか。振り返る勇気はない。大学を飛び出す。横には用務員が不思議そうに俺を見ている。
「机の上には何かあったか?」
「数学の参考書があった!」
街路をジグザグに疾走しながら、俺は天澤に言う。
「他には何かあったりした?」
「何もなかった」
不意に何かにつまずいた。転倒しそうになったが、ギリギリ持ちこたえる。
振り返るも、人の気配はない。いつの間にか路地裏に当たる場所に来てしまったようだ。じわじわと湿気た路地で、蒸し暑い中不快感しか覚えない。そろそろ足が限界に近い。しばらく呼吸を整えるために、胸に手を当てて深呼吸を繰り返す。
「巻いたっぽい」
「周辺を警戒しておけよ。……というか、俺もなんか異変を覚えているというのもあるんだけどな」
「どういうことだ? それは」
「何かに見られてる気がする。杞憂かもしれないけど、なんか、おかしい」
訝しむ天澤。
「どこにいるんだ?」
「稲村君が死んだ近く。警察がビルに入っている。一連の出来事に、多分警察は気づくんじゃないかな……平塚さんはいなかった」
「そうか」
もう、可能性は一つしかない。
弥生は誰かに拉致されている。ここまで探し回っていないとなると、おのずとそういう考えに行きつく。
「……あの女が」
あの女がやったのだ。弥生の拉致だけではない、このすべての出来事すべてが、奴が引き起こしたのだ。
「手掛かりはないのか? 奴のアジトは」
「少し前まではあったんだがな」
以前の廃墟。寺井の亡骸ごと燃えてしまったあそこ以外に、思い当たる場所はないのだ。廃墟がない今、一連の事件と、奴の隠れ家の共通点は見出すことができない。
「お前はどこにいるんだ?」
「路地裏だ。ずっと走ってたけど、駅が見える。そこを目印にしている」
足がつらい。今も震えている。
誰もいないことを確認し、塀に背中を預けて座り込む。
「大丈夫か?」
「駄目に決まってる。疲弊が著しいよ」
今宵、二人死んだ。
弥生も行方不明。
俺を狙っている奴がいる。
「俺らが何をしたんだよ。何もしてないじゃないか。なんで、こんな理不尽な目に逢わないといけないんだよ! くそ!」
頭を抱える。じめじめした土の臭いがする。
「とにかく、倉森さんの遺したものを解読しないと」
「分かってるよ……けど、もう、つらすぎる」
何をしても裏目に出ている。何をなしても誰も救えない。
……分かっている。あの時、身を呈してでも姫路を守るべきだったのだ。すべての連鎖はそこから始まったのだ。
何をしてももう無駄なのではないか。動かなきゃいけないのはもちろん分かっている。けれど、もう無理だ。気力がぽっきりと折れている。すべてが遅くて、もう弥生自身も殺されているのではないかという幻覚すら漏れだす。
動けない。
もう、動く気力がわかない。
「失われた時は再び来らず」
「……なんだよ、それ」
「アウゲーという説話の引用だよ。一回過ぎた時間は絶対に戻らないし、タイムスリップしない限りは絶対に死者は蘇らない」
向こう側で車が動く音がする。街路に出たのだろう。再び探索を開始するのだ。
「……動かないなら完全に詰むよ、お前」
不意に、天澤が淡々と電話口で呟いた。
「確かに疲労困憊だろう。色々あったし、一日に二人も死んだ。確かに気力が奪われると思う」
電話の向こう側で、いかにも天澤が自分の髭を撫でている姿が容易に想像できた。
「何が言いたい」
「平塚弥生を救いたいなら動くしかないんだよ。死んでいる可能性だってもちろんある。けど、発見が遅れれば遅れるほど生きていると仮定しても絶対殺されるはずだ」
「そんなことわかってるよ」
「分かってるなら動くしかないだろう!」
突然声を荒らげる天澤に、俺の肩が飛んだ。
「ふざけるなよ、さっきも言ったけどな、確かに死んでいない確証はない。けどな、生きていないという確証もないんだよ。救えなかったってお前後悔してるよな、なら今、再び後悔しないために走り回れよ! 助かる確率をゼロにするなよ!」
一度も聞いたことのないような天澤の声色。
「お前の気持ちが弱いから、姫路さんも救えず、今こうして平塚さんも見捨てようとしてる。……今救えることができないなら、お前は一生何も救えないまま後悔し続けるだけだよ」
ぶつん、と接続が切断された。
俺は暫くスマホを見つめていたが、やがて電源を落とす。
「天澤……」
尻についた土を払い、スマホをポケットにしまう。
「相変わらずぐさって刺さるな、あいつの言葉は」
思えば、彼と初めて会った時もそうだった。当時の俺は過去の幻影に苛まれていた。けれどあいつは俺の悩みを巧みな言論で吹き飛ばし、あろうことか親友として、ずっとサポートしてくれた奴だった。たまにズバリ突き刺さって傷つくこともあったけれど、それはそいつに対する嫌悪感を介在することなく、むしろ彼の論理の正しさゆえにうっとうしさを覚えることがほとんどだった。
「今度何かを奢らないとな」
苦笑しつつ、数学の参考書を見つめる。
鬱蒼とした気分はすでに消えていた。残されたのは、後悔しないための選択を選ぼうという意思だけだ。
「とにかく、これを解く必要があるよな」
倉森の暗号を、どう解釈するか。
まずはそこからだ。
あの紙を取り出す。
倉森が遺したものだ。
『Caesar
[p213 245番(3)]
→LMKMRMFY CDHZUDIJ FJITVFPNCV』
ここまでそろっているならば、もう比較的簡単だ。
「二百十三ページ……」
分厚い参考書をパラパラめくり、該当ページを開く。
数学の参考書を得た時点で、俺は朧気ながら想像がついていた。
数学Bの数列の問題の羅列があった。目がくらくらしそうなほどの大量の設問。
「やっぱりな」
問題の設問は二百四十二から、二百四十七まであった。
二百四十五番の設問には、小問が八つ。
「そして、その三番の問題」
そこには、この数式が示されていた。
(3) 2+(nー1)3
「なるほど、これなら俺だってわかる」
この問題は数列の等差数列というものだ。
nの代入の数字を求めろというもので、ただ代入しておけば簡単に解くことができる。ワークとしてはかなり初期の問題のはずだ。
「n=1からの代入なら、2、5、8、11、14だな。三ずつ足してっている系統の等差数列」
上の物はpというページを表すアルファベットがあった。そして、次が大問を表す。()がついているということは、その中の問題を示す。ここまでは予想通りに解ける。
俺は暗号を読み込む。
しかし、解けたのはここまでで、結局先は不明のままだった。
「ここからどうすればいい……」
答えは分かった。しかし、この怪文書に同関連するのかが分からない。
「それに、まだ解けていない問題がある」
Caesar
ローマ皇帝、帝王、専制君主、独裁者、シーザー、カエサル。
スマホに打ち込むと、和訳がずらずらと並ぶ。
「……詰んだな、これは」
再び俺は天澤に連絡を突けようとする。
数コール後、天澤が連絡に出た。
「なんだ?」
「暗号を解読してる。助けてくれ」
俺の救援要請に、天澤は全てを察してくれたのだろう。
「……どこまで解けた?」
「数学の問題があった。一応答えも出ている。あとはその答えを何らかの形で文書に当てはまるだけだ」
「手掛かりは?」
「シーザー。……ローマ字で書かれている」
「シーザー?」
天澤が呟く。電話の向こうから、車が行きかう音がする。駅近くに捜索範囲を拡張したらしい。それ以前に誰かに見られている気配があるらしい、周囲に人気がある場所にいるという選択は現時点でベストのはずだ。
「数学の問題を指し示すものと、当てはめる文章、そして、このシーザーという文字。これですべてが整うんだ、あいつからのダイイングメッセージが」
あと一歩で、倉森が伝えたかった真意がわかる。
俺は周囲を見渡す。
人の姿は、相変わらずない。あの女がついてきている気配は皆無だ。
「……ちょっと待て、考えさせてくれ」
「ああ」
立ち上がりながら、俺は駅に向かうことにする。うまくいけば、彼と合流できるはずだ。
「……それに、大丈夫か? 天澤」
「何がだ」
「誰かに見られている気配」
尋ねると、天澤はしばらく無言であったが、やがてクスリと笑った。場違いな笑み。
「君に心配されるとは。思えば初めてだったかもしれないな」
「俺のせいだからな」
「……お前のそういう優しいところ、マジでいらないと思うよ。お前、俺みたいなひねくれ者にもなんだかんだ絡んでくる奴だったしな」
「何感傷的なこと言ってるんだよ。俺だってお前にだいぶ救われたんだからな」
飄々と持論や考えを述べる彼とはかけ離れた姿に、驚きを通り越して、どこか気持ちが悪い。しかも、こんな時だからこそなおさらだった。
「お前がいなかったら、多分諦めてて、絶対に後悔してた。倉森の真意をつかもうと努力せず、平塚を探さず、自分の勝手で意気消沈してたよ」
彼がいなければ、俺は完全に詰んでいた。
「天澤、俺は――」
「悪い、電池半分切ったから、そろそろ切るわ」
「分かった。俺も考える。何かわかったら連絡してくれ」
「ああ。……気をつけろよ」
ぷつんと通話が切断される。あいつマイペースだなと俺もスマホの電池残量を見る。こちらは四十パーセントを切っていた。不要な長電話は電池残量をさらに摩耗させるだろう。
「そうだな、俺も広場に出よう」
ここは危険いて、いつあの女が襲ってくるか分からない。駅前に行けさえすれば、まず間違いなくあの女が殺しに来ることはないだろうし、うまく天澤と合流することだってできるだろう。
「あの女もいないな……」
立ち上がり、俺は路地から抜け出した。
今思えば、天澤が俺のもともとの話題――天澤をつけている奴について――を、彼は巧妙にはぐらかしていた。
天澤は、俺が電話した段階で異様な雰囲気に気づいていたのかもしれないと考察しても、既に手遅れだったのだ。
人だかり。
叫び声。
飛び散る血。
「どうして……」
そこはまるで、地獄絵図だった。
へしゃげた車が止まっている。
交差点の一角。交番のすぐ近く。
野次馬の周囲を縫って、俺は確認した。
確認してしまった。
天澤がいた。うつ伏せで、顔は分からない。しかしそのだぼだぼな、おしゃれに気を使っていないこの服は、まぎれもなく、事故にあった男が天澤であると結論付けていた。
腹部が赤くなっており、じわじわと血の半円が描かれていく。しかし、ピクリとも動かない。ただそこに転がっているだけだった。
「ひどいな……」
「けど、なんかこの人、不自然に前に飛び出してたよね。飲酒してたんじゃない?」
「まるで誰かに押されたみたいだったよな……」
「考えすぎじゃない?」
嘘だ。
嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ。
なんで、こんなことに。
警察の男が規制している物の、野次馬は引くことを知らず、興味本位で倒れた彼を囲っていて、こそこそと噂をしあっていた。
「……!」
俺は周囲を見渡し、やがて気づく。
横にいる女子高生。複数のサラリーマン。私服の男。
野次馬の多くが、天澤を撮影していた。
俺は思い出す。
弥生たちとともに事故現場に訪れた数日後に天澤を訪れた時に、彼は言っていた。
彼の友人が死にそうになっていた時、彼らはエンターテインメントを求めて、重症の彼を撮影していたという話。
ああ、天澤の言った通りなんだな、と俺は思う。
人なんて、ゴミみたいなものだ。
すぐ死ぬし、人の不幸に喜ぶし、そして、人が死ぬところを見たら、それを娯楽として活用し、あまつさえ手を差し伸べることなく、逃げる。
それが人というものだ。
……違う。
今はそんなことを論じている場合ではない。
怒鳴りこみ、俺は彼のもとに駆け寄る。
「天澤!」
俺の存在に気づいた警察官が静止する。
「近づかないでください、直に救急車が来ます!」
「天澤は無事なんですか!」
俺の問いに、警官は沈痛な表情のまま、黙り込んでしまう。
「……そんな」
不意に俺は天澤を見、絶句した。
黒髪に覆われているせいでわからなかった。
頭は避けていて、白い頭蓋骨がザクロの如く露出していた。ひどく地面に打ち付けてしまったのだ。しかも、地面には、避けた腹から、黄色いモノが飛び出している。あれは、腸だったのだろう。
医学に精通していない俺でもわかる。もう、助からない。
血の臭いと、よくわからない――抉れた臓物の物かもしれない――悪臭が、より一層強くなった。
どのように考えても、どのような打算をしても、彼は戻ってこない。
生き返らない。
「天澤ぁ……」
つい数分前に交わした、何気ない会話がリフレインされる。
あいつは、この状況を予期していたのか。
誰かに狙われ、多分次の瞬間には襲撃に逢っているだろうということに。
だから、変に感傷的な言葉を俺に捧げて、死んだ。
……あの女だ。
野次馬どもは押されたといっていた。
あの女がやったのだ。
車が来た時、交差点にいた天澤を押し出し、事故死させた。
……。
「殺してやる」
あの女を、補足する。絶対に逃がさない。追われるのではない、俺から追ってやる。
俺のつぶやきに、隣の撮影していた中年の男がびくりと震えた。しかも、それすらも苛立ちの原因となった。考えるよりも早く、衝動的に体は動いていた。
そいつのスマホを強引に取り上げた俺は、それを地面に叩きつける。パァンと弾けるディスプレイには、確かに天澤の亡骸が映されていた。
「な、何をするんだ!」
「死体の写真撮ってんじゃねーよ」
胸ぐらをつかむと、一気に俺に対する注目が集まるのが分かる。脂ぎった顔をした、醜悪なおっさん。警官がやめなさいとがなり立てる音がするも、そのまま黙殺する。
「何をするんだじゃねーんだよ、ボケ。お前みたいなゴミクズなんてさっさと死ねや、加齢臭のハゲ」
思い切りスマホを踏みつけバキバキにした俺は、そのまま男の顔面を殴り飛ばした。地面にひれ伏す男の頭を踏みつける。
天澤を娯楽目的に撮影した報いのつもりだった。ついでに取り押さえようとした警察を殴り倒し、勢いに任せてそこから立ち去った。
その一連の行動を目した連中もすごいすごいと好奇心に煽られて湧く姿に虫唾が走る。
……八つ当たりなのは分かってる。本当に怒っているのは俺自身にだ。
天澤は部外者だった。俺が巻き込まなければ、生きていられた。自分のふがいなさに殺意が湧くほどだった。
「ごめんな……天澤」
路地裏に駆け込み、俺は血が出るまで唇をかみしめる。目の奥が熱くなる。彼との生活が頭の中でぐるぐると回想し、無性に泣き喚いてしまいたい。けれど、今はその時じゃない。
……残された俺にできることは、一つしかない。
織田も、稲村も死に、弥生が消え、今唯一無二の親友が命を落とした。
生きているのは、俺だけ。
「終わらせるんだ、俺が」
天澤の死によって、俺の判断力に曇りが宿ったのはまず間違いないだろう。彼の死を簡単に割り切り、次の行動をとろうという気持ちの切り替えはもちろんできるはずがなく、そのことにより、俺は誰もいない場所に、たった一人うろうろしているという結果を導き出していた。
時刻は二時を回ろうとしているころだった。
奴がいた大学付近に、俺は再びいた。
手には、稲村が所有していたひしゃげたナイフ。人気もなく、ほとんどが消灯した住宅であふれた、木霊する俺の荒い呼吸音。吐きそうなほどの緊張と、疾風でそよぐ草木の音がひどく耳に響く。
じめじめした場所で、空に浮かぶ満月だけがやけに黄色がかっていた。
LEDでない昔ながらの電柱の光は弱弱しく、蛾が集まり、影がユラユラと揺らめいている。
恐怖はもちろんある。しかしそれを凌駕する憤怒と殺意が表面化していたのだ。さながらハンターの如く周囲を散策し続ける。不思議と奴が近くにいるという確信があったから。
「……出て来いよ」
姫路が死亡したあたりには稲村が転落死したため、警察がまだ現場検証を行っているはず。そこに行ってもまず間違いなく奴は現れない。
現れるとしたら、天澤を手にかけた現場である駅からそこまで離れておらず、かつ奴が俺を最後にとらえた場所付近である大学近くにいるはずだ。奴が人間であろうと、血まみれのあの女であろうと。
背中の神経がやけに過敏になっており、今や衣類に擦れると軽く痛いほどだ。ナイフを握る手も汗ばんで、今にも滑り落ちそうになる。
もはや、倉森の示したメッセージなど意味もなさなかった。
出てきたやつが、敵。
俺が補足するべき敵だ。
「どこにいる」
殺されるくらいなら、俺が殺してやる。
「警察なんかには任せてられない」
住宅街を左折する。
遠目には大学が見える。
俺が先ほど走ってきた道に出る。
「……人気はない、な」
姫路が死んだときもそうだった。人なんていないことがほとんどだ。車もない。彼女を引いた運転手で、一か月前に殺されたあの老人も同様だったのだろう。だから姫路を轢いた。
……ここは住宅だけれど、誰かが死んでも、しかもこんな夜更けなのだ、発見されるのがどうしたって遅れる。
それよりも、疲れてきた。
普段だったらとっくに寝ている時間帯だし、明日も仕事が残っている。なのに、疲労なんてない。アドレナリンが全開なのだろう、むしろ異様なほど神経が研ぎ澄まされていて、気持ちが悪くなるほどの高揚感を覚えている。
「天澤……」
俺を守ってくれ。
……来た。
唐突に、俺はそう感じた。
振り返っても人の姿はない。けれど、分かる。隠れる場所なんて無数にある。電柱の裏や、頼りなさげな光を帯びた自動販売機。
いつ襲われるか分からない緊張感に吐き気すら覚える。
どこにいる?
奴は。
恐怖は全くなかった。それらそっくりが殺意に入れ替わっていたからだ。
自分の足音だけが、異様に大きく響き渡る。まるで、世界に一人取り残されたかのようだ。
荒ぶる感情を押さえつけるように、震えた深呼吸を数回する。
まるで、あの時と同様だなと思う。
天澤と食事をした帰り道、俺はあの血まみれの女に襲われた。
あの日俺は逃げたけど、今は違う。むしろ立ち向かっている。
以前の俺からしたら想像できなかっただろうなと思うと同時に、やはり自分は天澤の死によって、まともな思考判断ができなくなってしまっているのではないかと自嘲した。
突如、自動販売機の影が目に留まる。
不自然に飛び出した影は、まぎれもない、人の形を成している。
……いた。
奴は動かず、俺の動きを観察している。動悸が高鳴り、喉がカラカラと乾く。つい足が止まってしまう。
どうする?
ナイフを握りしめる握力が上がってしまう。
「いるのは分かってるんだ、出て来いよ」
思わず飛び出す俺の言葉に、その影がゆらりと蠢いた。
自動販売機の後ろから、一本の腕が伸びた。乾いた血の跡がついたそれに、俺の心臓が止まりそうになる。
……これは、人なのか?
思い出してしまう、奴が人ではない可能性。
……けど、俺は奴に友人を殺されたのだ。
「引けない」
俺が引導を渡さないと。俺がすべてを終わらせないと。
倉森も、寺井も、織田も、稲村も、天澤も、そして弥生も、俺の傍から消滅した。
俺は――。
「出て来いって言っているだろうが!」
怒鳴り声とともに、俺は一歩進み出た途端。
前触れもなく、背後に強烈な気配を覚えた。どうして気づかなかったのかというほどの殺意の塊のような何かが、俺のすぐ後ろにいた。
前方の敵に意識を注いでいたため、全く後ろに警戒心を配備していなかったことが、完全に仇となっていた。
「……! 誰――」
ゴシュ、という鈍い音が、振り返りざまにした。途端に視界がブラックアウトし、気づいたときには地面がすぐ目の前にあった。遠くでナイフが転がる音が鳴り響いた。
視界が二重、三重に重なりぐらぐらするし、遅れて激痛が頭を走る。
何が、起こった?
閉じられる視界に、足が映った。
革靴。
腕からは鉄棒が握られていて、ぽたぽたと液体が滴り落ちている。
「……ま、……さか」
殴られたのか。まるで自分の体でないように、体の統制が聞かない。苦しい。呼吸もできない。
意識がもやがかかったように不安定になっていく。
ブラックアウトする意識の中、俺はそのまま意識を失った。
僅かな意識と混濁の間の中、誰かに呼ばれた気がした。




