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殺意感染――次の犠牲者は チャプター9

 もう、何度ここに来ただろう。

 駅を降り、俺と弥生は駆け足で廃ビルにたどり着く。近くには寺井の死体が発見された廃墟の跡があった。完全に焼け落ちた廃墟には、警察の『keep out』と書かれた黄色いテープが厳重に張られていた。

 そこからでも、織田が示した廃ビルは見えた。七階建てだった。電気はついておらず、真っ暗で、何が起こっているか、そもそも人がいるのかは判別できない。

 全力で走り、やがて、事故が起こった細道に入る。

 廃ビルの入り口は、立ち入り禁止という古ぼけた張り紙があるだけで、簡単に立ち入りができた。

 俺は野本に連絡をする。この状況を一応伝えておこうと思ったのだ。

 しかし、時間が時間のため、野本が出てくることはなかった。

 「駄目、織田さんともつながらない」

 倉森の時の再現のようだ。連絡が通じず、そのまま死体となった彼女。

 今回は、そんなことになってはならない。

 エントランスの窓は、誰かがやったのか、見事なまでに叩き割られていた。落書きまみれの、ビルの通路を離れないように配慮しながら、通路を駆けた。

 エントランスの傍とビルの一番端の二か所に階段があり、その間をはさむように、等間隔に扉がついている構造だ。

 ほとんどの扉は閉ざされていた。鍵がかかっているのだろう。一階には、誰もいない。

 端まで来た俺たちは、そばにあった階段で上階へ上がる。

 二階もさして一階と変わらない構造だった。

 「上に上がろう」

 「そうだな」

 緊張に震えながらも、俺と弥生は三階へ上がる。今日は熱帯夜であり、背中はじっとりと汗ばんでいる。おのずと弥生との会話のトーンが小さくなった。

 「どこにいるんだろう……」

 「私から連絡してみる? 着信音が鳴ったら位置が特定できるし」

 一階から七階まで、しらみつぶしに織田の居場所を探るには時間がかかりすぎる。

 「そうだな」

 それにしても、と俺は思う。織田を追い詰めている奴は、いったい誰なのだろう。先ほどは彼女が錯乱しているため聞くことができないままだった。けれど、もし相手が人間だと仮定したら、俺たちがいるビルのどこかに、そいつはいる。

 三階に上がると、先導していた俺は立ちすくむ。

 誰かがエントランス側の階段を使い、上に上がったのが見えた。コン、コンと乾いた靴音が静寂を劈く。

 「誰かいた……」

 「織田さん?」

 「分からない……」

 事実こちらからは暗がりに覆われて人影としか認知できなかった。街灯の明かりは薄く、懐中電灯を持ってこなかったことが悔やまれるほど。

 「……けど、普通じゃない。織田は錯乱していた。あんな落ち着き払っているはずなくないか?」

 「私たちも上がってみる? 誰かどうかを確かめないと」

 しばし、判断に迷う。

 「……そうだな。上がってみよう」

 奴を何とかすれば、織田の身の安全は保障される。

 「……ちょっと待って」

 俺はラインを開く。

 天澤のラインだ。

 そこに位置情報を打ち込み、来てくれと連絡する。細かいことは話していないが、緊急性の観点から、きっと天澤は着てくれるはずだ。

 既読がついたのを確認し、俺はスマホをしまう。

 「……行こう」

 「うん」

 四階へ上がる。

 ……誰もいない。

 さらに上階へ上がろうとする。

 人の姿はなかった。

 どこに行った?

 相手が姿を見せないことが不気味すぎる。

 六階に上がった時、俺は扉の一つが開いていることに気づく。まるで俺たちを誘っているように、半開きになった扉……。

 人影はない。ゆっくりと扉に近づく。弥生はしきりに背後の様子を気にしながら、俺についてきた。

 「誰かいるのか……?」

 俺の呼びかけに、中にいる人物は応えない。

 いや。

 違う。

 弥生の表情が変わった。

 「……クッソ!」

 蒸し暑い中、俺の嗅覚は鋭く、血の臭いをとらえていた。倉森を発見した時に嗅いだ、むせかえるような、生理的嫌悪を介在する悪臭。

 部屋に入ると、そこは惨状そのものだった。

 あおむけになった女性はピクリとも動かない。

 よほど苦しんだのだろう、彼女の爪は剥がれ、地面には深いひっかき傷が残っている。

 腹部からはまだ血が流れていた。暗がりには血が飛び散っており、玄関で赤い海を形成している。

 ディスプレイが破壊されたスマホが、遠くに転がっている。

 凄絶な最期を迎えた織田は、恐怖に顔を歪めた状態で絶命していた。

 「救えなかった……!」

 犠牲者は出さないと誓ったのに。

 「どうしてこんなことになったんだ」

 俺たちはどこで間違えた。

 弥生の誘いに乗って集まったからか?

 姫路を見殺しにしたからか?

 あの道に入ったからか?

 出かける予定をしてからか?

 ……そもそも、俺たちが出会ったこと自体が間違いだったのではないか。

 そうすれば、あの時のメンバーの三人が命を落とす結果にならずに済んだのではないか?

 いっそ、あの時危険を試みず、姫路を救おうとアクションを起こしていたら。

 しかしどれだけ考えても、それはすべて過去のこと。どうやったって、変えられない事象でしかない。

 「……どうしよう。警察に通報する?」

 「警察にまともに取り合ってもらえると思ってるのか? 大方冗談だと思われるのがおちだ。しかも、これは不法侵入に値するんだ、できるはずない」

 弥生は今にも泣きだしそうだった。呼吸も乱れ始め、今にも泣きだしそうだった。

 彼女は限界だ、と悟った俺は、弥生に提案する。

 「別行動をとろう」

 「本気で言っているの? あの人影の正体すらわかっていないのに」

 「お前は外にいてほしい。三十分経っても出てこなかったら、多分俺の友人の天澤ってやつが来るはず。あいつの指示に従ってほしいんだ」

 弥生はしばらく躊躇していたが、やがて同意を示す。

 「気を付けてね、藤間君!」

 「ああ」

 速足で階段を駆け下りる弥生を見送ってから、俺はこと切れた織田を見下ろした。

 「……すまない」

 数秒黙とうをささげ、俺は再び上を目指すことにした。

 弥生が限界だったとはいえ、一人で上へ向かうのは正直怖かった。ポケットの中に入ったナイフが手に触れる。

 それにしても、織田を殺した刺し傷は、恐らく包丁の類だ。

 ……俺の部屋に侵入した奴なのか。緊張のあまり吐きそうになりながら、俺は震える足に鞭打ちつ。

 六階。

 いずれにせよ、人の姿はない。……まさか、下に降りたんじゃないだろうな。

 俺は弥生に連絡しようとするが、やめておく。話に気を取られて周囲の確認を怠ってしまう未来しか見えない。

 今にも背後に奴が現れるのではないか、という幻影が俺を襲う。

 七階へ上がると、屋上へ続く道があった。

 しかも、かぎが壊されている。無理やり何かで殴打し破壊したのだろう。恐らく以前肝試しに上がった若者の所業だろうなと考察しながら、俺は屋上へ出た。

 屋上は狭かった。何もない真っ平らな屋上。長い間野ざらしになっているためか、ひどく地面がぬるぬるしている。

 俺以外、人はいなかった。

 やはり降りたのか。

 「平塚……」

 屋上から七階の踊り場に出た瞬間、俺は硬直した。心臓がずきりと驚くあまり激痛を発するほどだった。

 廊下の奥に、人影があった。

 そいつは俺の姿を認めるとともに、足を止める。

 服装は、ズボンだった。華奢な体躯をした男。

 「……どうして」

 赤くなったワイシャツ。握られた出刃包丁。

 よぎるのは、生前の倉森の言葉だった。

 『あまり他のメンバーを信じるな。特に、疑心暗鬼に陥りそうな稲村俊樹とはね』

 倉森がこの状況を察知していたかは不明だけれども、結局のところは彼女の判断は正しかった。

 眼鏡を押し上げた稲村は、ゾッとするような無表情だった。闇に浮かぶ彼は、爬虫類の如き眼差しで俺を見つめていた。

 「あれれ? 藤間じゃないか。どうしたの? こんなところで」

 稲村は、にたりと気味が悪い笑顔を浮かべた。いつだって稲村は神経質そうに眉をひそめていた。あるいは皮肉気な言葉を紡いでいる印象しかない。

 あんな、狂人のような笑みを浮かべる奴じゃない。

 「稲村……」

 「ま、いっか。どうせ全員殺すんだから」

 「どうして、織田を殺したんだよ」

 確かに言い争っていたけれど、殺すまではないだろう。

 ぽつ、ぽつと刃から血が滴る音が鳴る。

 「死にたくないから。姫路に赦してもらわないと。みんなに償わせるんだ。そうすれば俺は助かる」

 「そんなことあるはずないだろうが!」

 赦されるという稲村の言葉は、そう言う意味だったのか。頭に血が上るのに任せ、俺は稲村を叱責する。

 「赦されることなんて永遠にありはしない。死んだ奴は戻ってこない!」

 「黙れ! 大体お前らなんかと一緒にいたから悪いんだ! お前らさえいなければ、お前らさえいなければ俺はこんな目に逢わずに済んだんだ!」

 ナイフを逆手に握り、稲村はユラユラと亡霊のように近づいてくる。俺は数歩後ずさる。

 「お前らのせいだ! お前らが悪い! 織田も倉森も寺井も、お前も! 全部お前らがやったから悪いんだ! 俺はただ巻き込まれただけなのに!」

 利己の塊の稲村は青筋を立てながら、頭を抱えた。

 「頼むから、俺のために死んでくれよ! 俺が赦されるために、俺が新しい人生を歩むために、あんたらが死ね! お前らをぶっ殺しさえすれば、俺はようやくやり直せる、赦される! だから死ね、死ね、死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死んでくれ!」

 叫んでいた彼は、突如電池が切れたかのように、うなだれ、両手をだらんと地面に垂らす。

 「それに、あの人もそう言ってくれた。あの人の言うことなら、絶対正しい。俺は救われるんだ」

 「あの人って……」

 「あの人は俺に道を示してくれた。皆を償わせれば、必然的に俺の罪も雪がれる」

 血走った眼を向けた稲村は、にやりと壊れた笑みを浮かべた。

 「さて、早いところ終わらせないとね。警察に見つかったら、それこそ厄介だからな」

 ナイフを俺に向けた稲村。やはり、弥生をこの廃ビルから脱出させたのは正解だったのだ。

 織田を殺したこいつは、もはや俺を殺すことに一切の躊躇をしないだろう。コツ、コツと足音を鳴らしながら、稲村はクルクルとナイフを弄び、距離を詰めてきていた。


 振り返り、俺は廊下を走りだし、階段を駆け下りた。

 後ろから稲村がついてきている。気配でわかる。

 六階を降り、一気に駆け抜ける。疲れとかは感じなかった。一瞬転びそうになりヒヤリとする。

 「畜生……!」

 デスクワークが多く、運動を怠った弊害だ、すぐに足が重くなってきた。心臓もバクバクし、その存在を主張している。しかし、捕まったら殺されるという恐怖感が、俺の体を突き動かしていた。高校でもここまで走ったことはなかったというほどの疾走。

 「待てよおい!」

 ゲタゲタ嗤う稲村。

 俺はポケットの中にあるナイフをまさぐる。もはや条件反射だった。

 しかし、汗でぬめった俺の手から、空しくナイフが地面をたたいた。

 取りに戻るという選択肢はなかった。

 最悪なことに、この廃ビルの廊下は直線だ。

 エレベータなんて稼働してない。階段を使うほかない。

 稲村を撒くということはほぼ不可能なのだ。

 どうすればいい!

 「ぎゃははははははははああああっはははははははははあはああはははははっはああ!」

 ひきつり笑いが、俺の耳元にこびりつく。悪魔だ、と思いながら、ガタガタ足が震えそうになるのを抑える。

 「死んでくれよぉぉ俺のために、俺のために死んでくれ! 死ね、死ね、ああああはははあははは!」

 もはや支離滅裂だった。もう、彼は正気ではないだろうと、焦る半面、どこか冷静な自分がそう考察していた。鳩尾が締め付けられるような、今にも肩に彼の手がかかる幻影に怯えながら、ただ走るしかない。背中の神経が過敏になる。体が熱い。

 階段に来る。降りるか上か。

 すぐさま階段を降り、再び激走を開始する。

 後ろから階段を降りる小刻みな足音がした。

 ついてきている。

 体力がきれる前に稲村を取り押さえるという選択肢もあった。

 けれど、丸腰の俺がナイフを持った彼を抑えることなんてできるはずなんてない。

 五階に降りた瞬間、何かにつまずいた。まずいと思った時にはすでに遅かった。

 頭から思い切り、俺は地面に転がった。腰と左腕をしたたかに打ち付け、俺は振り返った。

 ゾッとした。

 すぐ真後ろに、よだれを垂らしている稲村がいた。立ち上がってる余裕はなかった。

 「死ねええええええええええええええええええええ!」

 住宅街に響き渡るほどの絶叫とともに、奴が俺にナイフを振り下ろした。

 「うお!」

 転がりながら回避する。先ほど俺の足があったところに、深々と突き刺さるナイフ。刃の四分の一ほどがめり込むナイフ。

 「来るなああああああああああああ!」

 俺は稲村に足を延ばした。無我夢中の抵抗だった。それが稲村の足首に直撃する。

 稲村がバランスを崩す。

 必然的に、彼は外の手すりに手を掛けた。

 転倒を防ぐために、手に力を入れすぎたせいで、体が手すり側にゆらりと動く。

 足を滑らせ、体がぐらりと外へ傾く。稲村の眼鏡が外れ、手すりにかかる。視界が一気に悪くなり、さらにパニックになったのだろう。

 あっという間に彼の体が反転し、廃ビルの外に放り出された。

 ビルの、五階から。

 「――あ」

 拍子抜けといった程度の稲村の乾いた声とともに、彼の姿が消えた。

 数秒おいて、バス、とまるで干してあった地面が地面に叩きつけられたような音がした。

 

 しばらく動けなかった。

 目の前の事実が、あまりにも受け入れがたかったから。

 無音。

 呼吸が止まったかと思った。

 「お、ちた……?」

 地面には稲村の包丁が突き刺さっている。

 「殺したのか……俺が」

 けど、今のは仕方がないだろう。

 足の裏に残った、稲村を蹴り飛ばした感触。

 立ち上がり、俺は廃ビルから見下ろした。

 稲村が転がっているのが見えた。アスファルトの上に、仰向けになり、ピクリとも動いていない。

 「い……なむ……ら」

 遠目からでもわかる。血がじわじわと広がっている。

 皮肉にも、そこは姫路が事故死した場所でもあった。

 殺した。殺した。殺した。殺した。殺した。殺した。殺した。殺した。

 俺が。

 「ああああああああああああああああああ!」

 頭を抱えて、壁に背中を当てる。

 稲村の、呆けたような最後の顔が忘れられない。呼吸の速度が上がる。けれど、いくら吸っても肺が満たされることがない。

 なんで。どうしてこんなことになったんだ。

 何を間違えた。

 違う。全てが間違えている。何もかもがすべて裏目に出て、間に合わず、誰かが死ぬ選択肢しか選べない。もう、何もない。何が正解だいや、違う、何も正解じゃない。行き止まりだ。

 全てがバッドエンドに続いている。

 次々と死神は俺たちをあざ笑うかのように死に誘い、俺すらも殺人犯になってしまった。

 「いや、違う。俺は、悪くない」

 そうだ。もともと奴が襲ってきたせいだ。俺は悪くない。悪くない。悪くない。悪くないんだ。あいつが悪い。あいつがすべて悪いのだ。

 喉から何かがせりあがってくる。

 止める暇もなく、俺はその場で嘔吐した。喉がひりひりし、飛び散った吐瀉物が壁や自分の足にこびりつく。涙が溢れ、視界がグニャリと歪んだ。

 「はぁ、はぁ、はぁ……」

 一通り吐き終わり、胃液しか垂れなくなったところで、俺はようやく気力を持ち直す。

 「早く、下りないと。警察にも……」

 「誰だ!」

 鋭い声に、俺は振り返る。

 「……守恵」

 「天澤……」

 そこにいたのは、先ほど俺が連絡した天澤だった。階段を登ってきたらしい。

 「やめてくれよ、本当に、びっくりした」

 絶叫したせいだろう、声がややかすれていた。

 「何かあったのか? 突然こんなところに呼び出しやがって。というか、何で息が切れてるの?」

 天澤は手すりから下を見下ろしながら訪ねる。稲村が死亡した事実を、彼は知っているようだった。その妙に落ち着き払っている姿は異様だったけれど、パニックになった俺の気はおかげで和らいだ。

 「……やってやれないんだよ、ったく」

 気が抜けたついでに、俺は地面にへたり込んだ。

 頭の汗をぬぐいながら、俺は天澤に尋ねる。

 「何が起こったんだ? なんであの男性が死んでいる?」

 「もう一人、織田が室内で死んでる」

 「……なんが何だかさっぱりだな。状況を説明してくれないか」

 「それなら平塚とあったんじゃないのか? 聞いていないのか?」

 「え?」

 彼は首をひねる。

 もう、この段階で嫌な予感はしていた。

 「女性が、入り口にいなかったか?」

 「いなかったけど」

 それからの記憶は飛んでいた。

 気づけば、ビルの外に飛び出していた。

 一階まで駆け下り、エントランスに出る。

 弥生がいるとしたらここらの周辺以外ありえない。彼女が一人でフラフラするなんてことするはずがない。

 けれど、誰もいない。

 「平塚!」

 俺の言葉に対し、返答はなかった。

 不気味な月明かりが不気味に天にそびえるだけ。

 ……どこにいるんだよ、平塚。

 基本人影がない場所だ、エントランスから左に、稲村の死体が転がっているのが見えた。

 まさか、稲村の飛び降りを見、逃走を図ったのか。

 「くっそ! 勝手にうろちょろすんじゃねーよ」

 悪態が漏れる。スマホから連絡を取ろうとする。指先が真っ白になっているのに気づく。

 『平塚。どこにいるんだ?』

 既読はつかない。

 電話するもつながらない。

 不審だ。

 「どうかしたのかよ、藤間」

 降りてきた天澤が尋ねる。彼もこの状況がいようであることにうすうす感じているようで、顔色が悪くなっていた。

 「平塚が消えた」

 そう表現するしかなかった。

 「……実は」

 俺は事の顛末を天澤に話した。突然織田の救援要請を受けたこと、ここのビルに入ったこと、彼女が死に、稲村が錯乱し、そして彼自身も俺が殺してしまったこと。

 待たせていたはずの弥生が姿を消しており、連絡がつながらないこと。

 「稲村の件は過剰防衛だから、何とも言えないだろうけど、確かに異様だ」

 ひげを撫でながら、彼は眉をひそめる。

 「どうすればいいんだよ、ったくよぉ!」

 苛立ちに任せるがまま、壁を蹴り飛ばす。

 「焦れば状況はさらに悪くなる。まだ遠くには行っていないはずだよな。二手に分かれて散策しよう」

 「……そうだな」

 「何かあったら連絡を取り合おう。いいか、何かがあったら絶対に一人で突っ走るなよ。俺とお前なら、まず間違いなく相手の狙いはお前なんだからな」

 気をつけろよ、と天澤は俺に背を向け走りだそうとして、立ち止まる。

 「どうした?」

 「一応持っておけ。突き刺さっていたナイフだ」

 渡されたのは、先端がひしゃげたナイフだった。稲村が最期に振りかざしたナイフだった。握りしめると、ずっしりとした重みが腕に負荷をかける。

 「天澤もな」

 そう叫ぶが早いか、俺は彼と反対の方向へ走り始めた。

 時刻は十二時を超えようとしていた。

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