九
【九】
息を切らせ、胸元に燃える心の蔵をにぎりしめ、スズはこけつまろびつ駆けていた。足はすでに擦り傷にまみれていたが、小石を踏むのも枝を踏むのも、今はどうでもよいと思えた。ようやく雑木林を抜けた。おのれの息づかいが、今、うるさいほどに耳の中にひびいていた。平生ならば立ってもいられぬはずの痛みをこらえ、ぐわんぐわんと迷響する頭をかかえ、そこにあった木によりかかるようにして身を立て直したとき、ふと眼前がひらけたのである。海岸に出たことを知った。夜の海は星海である。いま、雲ひとつない紺碧の夜空に、月があかるく輝いていた。今夜の月は随分と明るい。
その明かりに励まされるようにしてこうべをめぐらせたスズの眼に、探していたものがついに映った。夫ヒバの後ろ姿が、確かにそこの海岸にあった。近くはないが、もう遠くない、あといくらか駆ければ、その腕に飛び込むことができると思われるほどの距離だった。ヒバ、と声をあげようとしたそのときである。
何か重たい音を聞いた。地鳴りのようであり、巨大ないきものの腹の音のようであり、この途方もなく大きな大地の呼吸する音とも聞こえたその音は、どうやらおそるべき速さで近づいてくる。それにしてもずいぶんと、目の前が揺れる。
唐突にひらめいた。揺れているのは自分の躰ではない、この地面だ。これは地震なのだ。途方もなく大きな大地の揺れだ。ふたたび足を取られてスズは転んだ。そうなると二度とは立ち上がれぬ。手近の岩にしがみつくようにして耐えた。
揺れは、ほどなく収まった。
「うんとひどくなるか。人死にはあるか」
「半数。あるいは、いくらか少ない」
ヒバは眼をたぎらせて詰め寄ったが、にべもない返事であった。もはや猶予なしと知り、それを聞いて肚を決めた。迷うている暇も、躊躇うている暇もない。ヒバは身を翻した。
「せめてスズを逃がしたい。あいつはおれがついておらんと、独りでは歩くこともままならん」
このとき、ヒバはスズが家にいると信じている。まさか同じ空の下に出向いているとは知らぬ。それだから迷わずに足を向けた。今、頭の中には村を見捨てたと白状したこの男への怒りよりも、妻とよび続けてきた女への心配が優る。まずはおれは、スズの命を護らねばならぬ。それはもはや執念にちかかった。今ようやくこのときにおいて、ヒバはそれをはじめて知覚した。
おれがあいつと所帯をもったは、流れついたときに甲斐甲斐しく世話してもろうた礼でなどはない、断じてない、あいつこそがおれの居場所にほかならぬからだ。いちど喪ったものを、みんなあいつがおれに戻してくれたのだ。ならばおれはおれのためにあいつを庇護してきたか。いや、どうだ。だいたいおれは、この通り生まれも育ちも粗野きわまり、さほどに上等な感情を知らん。都びとのように口説いてやったこともない。あいつは何故おれなどに命を預けてくれたのか。おれはどれほどにあいつを好いておるのか。二言目にはスズ、スズというて暮らしてきたこの五年、あいつはいじらしいほどにこのおれを慕い、おれはあいつを護ってきた。それでおのれの尻を落ち着けてきたのではなかったか。
ヒバはぐっと爪の食いこむほどに手をにぎった。ならばおれは、やはりあいつが愛しいのだ。
海辺にある村の常で、裏手にはすぐ高台があるが、スズをそこまで逃がそうと思うたら、ふつうの娘がそうするよりもひまがかかる。どうかすると背負ってあがらねばならぬかもしれぬ。肌寒いのも気にかかった。身支度もさせてやらねばならぬ。
そのときである。足もとに異様な感触をおぼえ、ヒバは首を振り向けた。そして次瞬、そのまま眼を見開いた。
水が退く。ざざざと水の退いていく。さびしがる亡者の無数の手が引きずるごとく、砂を水をさらっていく。海が速やかに後退り、波打ち際を引き戻していく。ヒバの全身は総毛だった。それがなにを意味するか、海の者ならみな判る。おそろしい光景であった。月の光を照り返しながら、水際がぐんぐん引いていく。うまれたときからイトの者として生きてきたヒバには、海辺に生きる人間のもつ叡智がある。知恵がある。それはイト採りとして身に着けてきた、イト採りの知る真理である。イトの村は流れるものだ。すべてのものは不変でない。焼け、流れ、ときには土に埋もれることもある。だが人が残れば土地は死なぬ。つぎはもっとよい村ができる。ヒトはそうして生きていく。
ヒバは動けなかった。否、動かなかった。なにか途方もない夢を見ている心持ちであった。すぐそこにせまった大波と、眼前にいる男の完全な超越したまなざしと、そのあいだにおのれが立って、けっきょくのところ、足は一歩たりとも動かなかった。すべてが夢であるような気がし、そのいっぽうで、すべてが惨いまでに現実だった。そしてその一紙のはざまに、タキの静けさばかりがこのとき、あらゆるものを凌駕してそこにあった。
いま、この怒濤のとき、その一刹那にあって、ヒバはタキの顔を見詰めたのである。顔貌あおじろく、まなこ虚ろなその顔は、五年前に見たのとすこしも変わっておらぬ。わづかにも疲弊したようにすら見えぬ。だが今はその意味を知った。それこそが、かつておのれがこの顔のなかにふと見たような気持ちのした、あの不可思議な哀切の正体であったのだ。人の死と災いと、尽きぬ慟哭を喰らいながら、独り、不変の時を生きねばならぬ哀しみが。死ねぬ、生きられぬ、もはやヒトですらない、おぞましいいきものとして寄る辺なく放浪するばかりの、その哀しみが、この男の顔のなかにあるもののすべてであったのだ。
――やがてはじかれたように、ヒバは叫んだ。
「波じゃ! 波が来る。みな逃げろ! 高台へ!」
家々の並ぶほうへむかって、腹の底から声をあげた。おのれでおのれを鼓舞するのに、やりようなどヒバは知らぬ。だがいまはそうせねばならぬ。腹から声を張り上げれば、それだけ恐れがうすれるような心持ちがした。いま、おのれが踏ん張って立たねば、恐れているものが背中からのしかかって、ほんとうに成り代わるように思われた。足元から波がざざざと退いてゆく。湿った磯の香が荒れ狂う。高台へ、高台へゆかねばならぬ。みなを逃がさねばならぬ。それらのことが瞬時のうちに、あたまのなかに渦巻いた。平生声の大きいのが、このとき役に立った。
揺れに怯えてかヒバの声を聞きとどけてかはわからぬが、すでに村人の幾人かは、ばらばらと家から這い出して来ていた。すっかり醒めた眼を光らせ、人の好い田舎者の顔に海辺の者のするどい知恵をみなぎらせ、迅速に一人また一人と高台へ上がる道へ消えていく。泣いている子どもを抱いた娘、老いた母を背負う息子、わらわらと駆けだしている。
揺れの後に水が引けば、大波が来る。あとどれほどの猶予があろうか。ちらとタキを振り向けば、このおぞましき修羅は平然と、表情もなく海辺に目をくれていた。ヒバはぎりりと奥歯を噛んだ。この男が災いを連れてきたのではない。だが腹がおちつかぬ。人死にの哀しみを喰ろうて生きるこの男が、今このときこの場にいるということが、途方もなくおぞましゅうて仕方ない。竜神にうとまれたイト採りの姿など見とうもない。
――ああ、されどおれは、この男にたいする一片の憐みを消せぬのだ。
タキは黙って海が沖を見詰めるばかりである。まるでいつかと同じである。五年前の夜、傾れかかる土砂と地鳴りとを背中にしながら、身じろぎもしなかったこの男の、あの眼、あの虚無をおもいだした。それとおなじものが今ここにある。
「この先は誰もおまえなど気に留めなかろう。ここで波を待つというなら勝手にせいが。おれは村の衆を救けねばならぬ。この村には返しても返しきれん恩がある」
そう言うてから、祈るような気持ちでつづけた。「スズは助かるか。おれはどうだ」
「判らぬ」
「不便なものよな」
皮肉だか本音だか、おのれですら分からぬような嘲りをのこして、ヒバは駆け出した。背を向けたそのとき、ひょっとしてこれがこの男との今生の別離になろうかと、わづかに考えたが、振り返るには至らない。タキの長い黒髪を眼の端にとらえた。それが最後である。
それだからタキがこの後、静かに海が沖に向かって歩きだしたことは、ヒバは知らぬ。
***
迷うている暇はなかった。水が凄まじい速さで退いていく。それが何の前ぶれであるか、海辺に育ったスズもまた知っている。だがこのとき、スズは何故かおそろしいと思わなかった。
わづかにも躊躇わなかった。海岸へ向かって、つかれはてた足を引きずることを止めなかった。高台へ避難してゆく村の人々の声に声をうしろに聞きながら、その声に安堵しながら、スズはよれよれと歩を進め、やがて星明かりの海岸に出た。そこでついに歩けなくなった。その場に膝を折り、くずおれながら、うまれてはじめてと思えるほどの大音声をあげ、ヒバ、と夫の名を呼ばわったとき、一念の呼び声が届いた。ヒバが駆けてくる。その顔が驚愕する。スズ、と名を呼ぶ声がする。
くるな、逃げろ、と夫が真っ青になって叫ぶのを、スズは半ば夢のような心地で聞いていた。もう立ち上がることもできそうにない。
***
砂地にくずおれるようにしてスズを腕に掻き抱きながら、ヒバは覚悟した。
もはや時がない。振りあおいだ海が沖に、星々を塗り潰さんばかり、天をも飲み込まんばかりの巨大な漆黒がうねり上がる。荒れ狂う水が諸手を挙げる。うなりをあげて襲いかかってくる化け物は、ついぞ見たこともないほどの大波だった。ああ、これか。ヒバはその一瞬、時がとまったかのごとく、おおきく眼を見開いた。こんなおそろしいものを喰ろうて、こんなものばかり喰ろうてお前は生きてきたというのか、タキよ。なんという修羅か。なんという業か。さぞ腹が痛かろうな、タキよ……
腕の中でスズが小さく息を呑んだ。沖に背を向けながら、ヒバは己の躰でスズの視界をさえぎった。何も見るな。おびえたがりの妻に、ほかにしてやれることが今はない。おれがこうしておまえを護っとるが、なんにも怖いことはない。安心せい、スズよ、と心のなかで語りかけた。恐怖はない。だが、今までのうちで一番、この女をいとしいと思うた。
だから眼の端に、浜辺に突っ立っているハチを見たと思うたのは気のせいだったかもしれぬ。その姿が水に呑まれるのを見届けたと思うたのは錯覚だったかもしれぬ。そのときには、自分とスズもまた呑まれていたはずである。だがハチが見えなくなる瞬間、たしかに眼が合った。何か言いたげな眼をしていた。へらりと笑うていたようにも見えた。
おまえ、どうしてここにいる、と、時があれば尋ねていたかもしれぬ。そう尋ねることの酷をヒバは知らぬ。――なんで逃げなかったと思うたとき、意識のいっさいがそこで途切れた。




