終
【終】
夜はまだ明けぬ。だが夜が明ければ雁がゆく。地上の人のもの思いなど知らぬげに、そ知らぬげに、空高く、雁がゆく。その果てを誰か知らんや、否、誰も。
***
――ふと気がついたとき、上下四方、真っ黒いものがうごめいていた。
これは何だ。水か。いや水ではない。水ではないなどということがあろうか。だが水ではない。それは実に不可思議で、奇妙なことである。おれは大波に呑まれたのではないのか。ならば水でないはずがなかろうが。そうだ確かに大波がきた。浜辺にいた。逃げ遅れたのだ。はっとスズのことを想うたが、すでにおのれの手は空だった。しかと抱いていたはずの躰一つ、虚しくどこぞへすり抜けていったのか、眼にうつる限り見当たらぬ。
おそろしい思いで首を巡らせた。とうていヒバの知る言葉では言い表すことの出来ぬものがそこにあった。四方それにかこまれている。どちらが上でどちらが下か、まるでわからぬまま、どちらに足を向けて居るのかもわからぬまま、妙にしずかにたゆとうている。おのれの髪がふよふよとなびいている。その一寸先、身のまわりをつつむのは、なにか得体の知れぬ、真っ黒い、真っ黒いものである。何だということもできぬ。空気でなく、水でなく、土でなく、光でなく、闇でないものである。それはもはやヒトの知りえぬものである。あたたかくなく、冷たくなく、手触りもなく、だが何もないのではない。そこにある、真っ黒いものである。
その真っ黒い何かに包まれているがために、どうやら助かったのだと見える。すくなくともいまは死んでいない。奇妙なことに眼がつかえ、息がつづいた。空気のあるような感じはないが、息苦しいことはなかった。ただその真っ黒いなにかに包み込まれるようにして、渦巻く海の怒涛の中を、まるで胎の中の赤子がごとく、場違いなほどゆったりとさまようているのである。ヒバはこのとき、この奇妙な水の中で、いやに平穏に、呆然とした面をさげていた。
さらに奇妙なことはこのとき、声がでたことである。ヒバが思わず「どうなっとるが」と呟いたとき、すぐそばにもうひとり居ることに気がついた。真っ黒い何かにまじって、流れる黒い髪筋がある。ヒバは振り向いた。確かにその男と眼を合わせた。
おどろくヒバを、その男はしかと捕まえた。「おれから離れるな」というその声は、ごく静かであったのに、はっきりと耳に届いた。男はヒバの首根っこを抑まえるようにして、その不可思議な真っ黒いものの内側から、決して出さぬようにしているとも見えた。
男は片方の手でスズを抱いていた。それを見たときどれほど安堵したかしれぬ。ヒバは丁寧にスズを抱きうけた。左の腕が麻痺したように動かないことに、このとき初めて気が付いた。しかたなく右腕を伸ばし、嫁のきゃしゃな体を抱きとると、スズは気を失うているのか、くたりと眼を閉じていた。青白いまぶたにわづかな光をうけていた。
「大波のなかか」
とヒバは尋ねた。男は一頷し、「これが見えるか」と呟いた。
「この黒いものが見えるか。おまえは、これを見るのは二度目だな。これが、おれの背負っている業の姿だ」
「見てはおらんが。だがどことのう、知っておる」
「分かるか、ヒバよ。これがためにおれは死ねぬ。わざわいのさなかにあって、崩れ落ちる土砂のなかで、このように荒れ狂う海の中で、この真っ黒いものがおれから死を遠ざける。これは決しておれを赦さぬ」
「これは何ぞ」
タキはふと微苦笑ともみえる表情をした。「知らぬほうがいい」
そのときである。ヒバは気がついた。
この真っ黒いもののそこかしこに、泛いては消え、泛いては消え、亡者の顔がゆらめいていた。おとなもいれば子供もいた。老人もいた。女もいた。畜生どもも見えたかもしれぬ。みな嘆いていた。どれもこれも、ものがなしくおどろしい欷歔の声をあげている。さらによく目を凝らせば、それらは手とも足とも見えぬ何かをもち、いびつな人型を成していた。切り離すことのできぬような影絵の群れでありながら、それが人であることをヒバはこのとき、否応にも見て取った。亡霊、魂、呼び名は知らぬ、だがおそらくはかつて人であったもの、命をもっていたもの、それが重なり、絡み合い、まじりあわぬまでも一つにかたまって、この真っ黒いものを形成しているのだった。そして恐ろしいことには、それら一つ一つの伸ばす得体のしれない先端が、みなタキを搦め取らんばかりにしがみついている。この海の果てしなき深淵へ引きずり込もうとするがごとく、この男の体をとらえる手、手、手、声、声、声。かつてこの男に食われた禍を成した者どもが、途切れぬ悲嘆の声をあげながら、何かしら一点の救いを求めるようにして縋り付いている。タキはもはや首から下をみな覆い尽くされていた。どこぞ背から伸びた手の一つが首を侵食しつつあった。
かような身になり果てたは竜神の罰と、男は言うた。罪をおかしたイト採りのなれの果てと言うた。
「おまえ、食われてしまうぞ……」
思わずそう呟いていた。まさにそのように見えた。随分と間抜けた言であったかもしれぬ。だがこの刹那のとき、この男は余りにも穏やかな面持ちでいたのである。
「ああ、そうかもしれん」
「なあ、タキよ、おまえはたった今スズを救けてくれたな。おれが手放しちまったスズを護ってくれよったな。善行ではないか。おまえの宿業とやらは、どうあってもおまえを赦さんのか」
タキの首に纏わる細々とした手の一ツを見詰めながら、必死に言い募った。それは子どもの手であるのかもしれぬ。随分と細い。首を這い上がり、唇、鼻、耳と、蔦のごとく這い上がっていく。タキは眉ひとつ動かさぬ。
「おまえもおれが憎かろうが」
「肯とも否ともじゃ。お前のその姿を見ておれは何と言ったらいい……」
そのときであった。ふと頭上に光さし、あおぎ見れば四方を取り囲む水のうねりは、緩やかさを取り戻しつつあった。大波は一時である。差し込んだのはおそらく月の光である。今宵、中天にかがやいている月である。それは実に奇妙であった。水のなかから水面をとおして、今、透かすような月光をあびている。
つとタキの手が離れた。ヒバはその顔を見ようとしたが、男はそうするなと言った。顔を仰向けたままで声を聞いた。
「波はもはや収まろう。そうしたら陸へもどれ」
「阿呆が。お前ひとりいつまでも浮かべておいてやるほど、海は優しゅうないぞ……」
知ってる、と、タキは笑った。
「おまえは、どうあっても救われんのか。あるいはこの海で今度こそ死のうとでもいうのか、タキよ」
「さて判らぬ。死などではない。死は来ない。それは確かだ。だが」
「なあタキよ。辛かろう。うんと辛かろう。先ずはおれがおまえを赦すが。今決めたぞ。おれはおまえを赦してやる。竜神もいづれおまえを赦すや知れん。そのときを、イヅルで待つというのはどうじゃ……」
左腕が動かぬのを、たいへんもどかしいと思うた。右の腕は強くスズを抱いている。だがこの左手が動けば、この阿呆の首根っこを、ちょうど先刻こいつがおれにしたように、捕まえてやれるのにと思うた。だがそれがかなわぬ。いったいどうして痛めたものか、嗚呼このようなときばかり、平生の大雑把な造りが何の役にも立たぬ。
「なあに……」と、タキは柔らかな声で言うのだった。
「おれはずっと、海へ還りたいと思うていたのだ」
ふっとなにかが離れてゆく気配があった。もはやたまらずに振り向いた。今このとき、どうして顔を見てやらずにいられたものか。
タキは身に纏わる真っ黒いものをひきつれて、静かに離れてゆこうとしていた。そのうちの幾つかがヒバとスズにものびて来つつあったのを、ヒバは必死で蹴りつけた。スズの足に幾本か纏わっていた。それはタキがひきはがした。
スズが薄らと眼をあけた。ヒバは安堵し、おれに掴まってくれと言うた。おれは左腕が動かん、と言うと、スズはだまって言われたとおりにヒバの首にしがみついた。何が起きているのか判ろうはずもなかったが、この妻女は声ひとつ挙げず、まちがいなくヒバを信じたのであった。
ヒバは、なりふりかまわず手を伸ばした。離れてゆくタキをつなぎ止めねばならぬと思うた。断じて述べるが、それはあの得体の知れぬもののもたらす負の恩恵を求めたのではなかった。むしろ奇妙なことである、その反対といえた。このとき、ヒバはタキを救わねばと思うたのである。独りで往かせてはならぬと思うたのである。手を掴んで引き戻してやることができれば、何かしらこの男のためにしてやれると思うたのである。事実、周囲を取り囲んでいた黒い何かは僅かづつその範囲を狭め、二人ははっきりと水中にいたが、タキが先ほど言うたとおり、波はもはや暴れてはいなかった。
あと少しで触れ合うと思うた。だがタキの手が、はっきりと、その指先を拒絶した。泣き出しそうな思いで奴の顔を見ると、その男は、非業に生きたその男は今、まるで眠りに落ちる前の赤子のように、ただ穏やかな眼をしてほほえんでいるのだった。
もはや何も言えることはなく、何も出来ることはなかった。手は虚しく空と水だけを掴んだ。そのとき、最後の一暴れとばかりに波が大きくうねり、両者の間を完全に断ち切った。離れゆくその男の姿を最後に見たとき、タキはもはやこちらを見てはおらず、一切を放棄して水間にただよい、ただ木の葉のごとく漂流していた。間もなく、全身を覆い尽くしていたあの黒いものに取り込まれるようにして、やがてどこぞへ見えなくなった。
それからしばらく波間を漂うた。
痺れて動かなんだ左手の感覚がようやっと戻ったころ、ふと掌をひらいてみると、いったいどうして掴んだものか、イト玉があった。月の光を受けてひっそりと息づいたその色をヒバは見た。ほんの一瞬、掌に血がにじむほどそれを握り締めた。
首にしがみついているスズが、弱々しい声をあげた。ヒバは両手でしかとその躰をささえてやった。大丈夫か、というと、うん、と微かな返事があった。陸へ泳ぎつくまでの間、二人は互いのわづかな熱をたよりに、寄り添いつづけた。
***
以降、イヅルの村には奇妙な噂の根付くこととなる。その後十年、数十年、数百年、噂は絶えず口伝された。途方もない大波に呑まれ、海が沖から生きて戻った若夫婦の話である。イト採りの夫はその暴れ海のはるか沖から群青のイトをあげたというて、のち都に名を売った。ヒバというそのイト採りのあげるイト玉は、当人のあけすけな気性とどこか裏腹に、実に深い哀切じみた色をもった。その由を訊かれてヒバはこう答えたそうである。おれは一人、うんと哀れなイト採りを知っている、その男は今やこの海とひとつになって、おれの採るイトにその男のわづかな御魂をのせるのだ。夫婦はやがて一粒種をもうけ、その後永く天寿を全うした。
噂はもう一つあった。イトの村は大波と隣り合わせのものである。今日流れなかったとて、明日もそうであるとは誰にも言えぬ。だがこの沖合の村、イヅルという名の村は、その後ぴたりと大波の来ぬ村となった。この村の界隈の海だけは、いつでも母親のかいなのように凪いでいた。よきイトがあがった。子が生まれた。村は栄えた。人が集まり、やがて大きな村となった。
完




