八
【八】
ハチはスズの手を引いて、雑木の林を脇目もふらず進んでゆく。
裸足のスズを気遣うこともなく、大股でずかずかと歩いていく。スズはか細い息を切らせ、痛い足を閊え閊え、引きずられるようにして歩きつづけた。ハチがまるでハチでないようである。かつてあれほど優しかった男の面影が、いまは見えぬ。どこか熱に浮かされたようでもある。ただ前ばかり見ている。いちども振り返らぬ。
あまりの様子に怖うなって、「どこへ」とついに尋ねた。ハチは早口でささやいた。
「おまえはここにいたらいけん。早う逃げろ、早う。おれが連れていってくれる」
「どうして」
「あの男じゃ」
「あの男ってだれなの――」
ハチは少しばかり焦れたように、「おれの村がのうなっちまったときに、あいつだけが一人で助かりよったが。みな死んでしもうたのに、あいつはがらくたになっちまった村を見て、じっとり笑うたがやぞ。何か真っ黒いものを喰ろうとった。おれは見た。あいつはきっと厄病神じゃ。ようないことを運んで来よる。スズおまえは早う逃げろ、きっと今に、この村にも何かようないことが起こる。おれのふるさとのようになっちまう」
スズは手をふりほどこうとした。この様子はふつうでない。だがハチの力は強い。信じられぬほどに強い。躓くたびにスズが幾度も小さく悲鳴をあげるのに、ハチはまるで気にも留めぬようである。仕方なくスズは歩きつづけた。「あの男じゃ、あの男……」という呟きは依然途切れない。
あの男とは。スズははっと顔色を変えた。一つ思い当った。昼間ヒバと散歩に出た時、見かけたあの髪長の男を思い出したのである。ヒバには言わなんだが、あのときスズは身のすくむほど恐ろしいと思うていた。由はわからぬ。だが男の風体に、何かしら不気味なものを感じたためであった。何、かはわからぬ。だが咄嗟に何かがふつうと違うと思えたのである。ハチが言うのはあの男のことであろうか。
そう思うたとたん、ことさらにヒバが恋しゅうなった。
「ヒバが――ヒバがいないの、目を覚ましたら独りだったんよ、私」
「放っとけ。今は早う逃げるんじゃあ」
「知ってるの」
ハチは答えぬ。スズは「ヒバはどこ」と食い下がった。スズのかぼそい手を握るハチの手に、ぎゅうと力がはいった。尋常でない力であった。
「ヒバは大丈夫じゃ。おまえは早うここを離れろ。きっと何かようないことが起こるんじゃ。ちと体が苦しかろうが、我慢せえよ。おれがついとるが。心配いらん。早うおれに連いてこい。二人で逃げたら大丈夫じゃ」
「ヒバはどこ。私あの人がいないと何にも駄目なんよ。あんたが一番知ってる、ヒバがいないと――」
「おれがおるが。心配いらん」
まるで譫言ともきこえた。早う、早うと繰り返すばかりである。手を振り解こうにもスズにはその力がない。平生、長く独りで立っていることさえままならぬスズの躰は、小走りで歩かされることに、少しずつ苦しみはじめていた。嗚呼、と思うた。なにか剥がれ落ちていく。
いつかヒバは、躰の弱いことを気に病むスズに、おまえの心の蔵は人よりいくらか甘えん坊なのだ、だからおまえがかわいがってやらねばならん、と言うた。おれも可愛いと思うぞ、とも言うた。そのときスズは芯から嬉しいと思うたのだ。こんなか弱い身を疎まず、可愛いと言うてくれる夫の優しさが嬉しいと思うた。
だがいまその心の蔵が、スズに牙をむいている。おのれの躰がおのれの思うようにならぬ歯がゆさをスズは厭ほど知っている。夜の闇のためばかりでなく、目の前が昏うなってくる。この躰は、ヒバがおらぬと、とたんに役立たずに逆戻りすることを今更思い知らされた。
「ハチ。ねえ、私そんなに早く歩かれない。苦しい」
だがハチにはその切れ切れの声もとどかぬ。手も足も、躰も肺も心の蔵も、みな痛いのに。
「おれはあいつを知っておる。思い出した、思い出したぞ……」
ハチの独り言は延々とまだ続いていた。下からうかがうほかないスズの眼に、それはもはや狂気じみた貌と見えた。何故、何故、が巡り巡ってスズをとりかこむ。夫とは友人でなかったのか。日ごろあんなに、あにおとうとのように仲良しだのに、何故今、ハチは夫のことをまるで気にもかけぬふうなのか。村に何事か起るというなら、何故ヒバに報せてくれぬのか。何故ヒバの居場所を探してはくれぬのか。ああ、どうしたの、いったい何なの、村に何が起こるというの。何故なの、何故なの。
スズの手を握りしめるハチの指が汗ばんでいる。ふとそのことに気がついた。――なにか、気持ちが悪い、と思うた。
瞬間あれほどの痛みを忘れ、ぞわ、と背中が逆立った。この手を振り解かねばならぬと感じた。それは女の本能である。この消え入りそうなか細い身体にまちがいなく宿っている、夫を持つ女としての本能である。それが今、長年身内とも兄とも思うてきた人好し顔の幼馴染でなく、ひとりの見知らぬ男を拒絶した。完膚なきまでに拒絶した。ぐっと奥歯をこらえ、夫の笑顔を、太陽じみたまっさらな笑顔を思い浮かべ、折れそうな心の支えとした。隙がくるのを信じ、待った。
さらに汗のにじんだハチの手が、ぬるりと滑る感触がした。いま、と躰の奥底でなにかが叫んだ。刹那、その声のままにスズは手を引き抜いた。それが上手いこと成ったのが奇跡なら、華奢な躰がその反動で転ぶことがなかったのは、もはや奇跡を超えた何事かである。だがそれでもよいと思うた。神も仏も奇跡でも何でも、いま、わたしに力をくれるものならなんでもかまわぬ。
代わりにハチがつんのめり、転んだ。いきおいのついていたハチの図体は、急に手が軽うなってとどまれず、前に二転ほどしたように見えた。だがそれを見届けるひまはなかった。その数瞬こそがいま、何か途方もないもののはたらきによってもたらされた、スズのためのわづかな時間と思えた。
スズははっと踵を返し、雑木林の中を一心に駆けだした。どこが痛いとか、苦しいとか、いまだけはすべてを忘れねばならぬ。躰よ、心の蔵よ、いまだけは言うことをきいて頂戴、と念じ祈るような心持ちであった。ただこの身を夫の元へとどけねばならぬ。
後方でハチの呼ぶ声がした。「逃げるな、早うおれと来い、スズよ! おれはおまえを好いておるが! ずっと好いておったが! 何故ヒバじゃ、何故おれでなくヒバなんぞにおまえをくれてやらにゃいけんかった!」
その声を聞かぬように、聞こえぬように、耳をふさいでスズは林を駆け下りた。一刻も早くこの目で夫の顔を見なければ、と思うた。
***
おのれの躰がどう動いたか、このときは知覚の外であった。
気づけばタキの胸倉を掴み上げていた。自分よりわづかに上背のあるタキにすがりつくようにして、今、ヒバはその空洞のような二つの眼にくらいついていた。タキは苦しげなそぶりすら見せなかった。
「頼む。違うと言うてくれ。おまえが今ここにいるわけを、そうではないと言うてくれ」
懇願であった。だがタキはこれまでで最も長い沈黙をもってそれを返した。ヒバは愕然と膝を折った。引きずられるようにしてタキもまた砂に膝をついた。そのとき流れたタキの黒髪の一筋を、何のためかはわからぬが、このときヒバは強く握った。うすく乾いた手触りであった。吐き出すように言葉をつむいだ。「ここにはおまえの喰うもんなんぞありゃあせん。そうであろうが」
ぎりりと手に力がこもった。
「おれはおまえを気の毒と思う。おそろしいとも思うが気の毒とも思うぞ、ほんとうじゃ。長い歳月、さぞ地獄を見たのであろうな。おれなんぞの同情でよけりゃあいくらでもくれてやる。だが後生じゃ。おれは今、おそろしいことを考えずにはいられんのだ。頼む、違う、とだけ言うてくれ。――おれは二度も故郷を喪いとうないぞ……」
タキはヒバの手をはずさせた。おれに触れてくれるなと言うているようにも思われた。同じくして強い拒絶を感じた。ヒバはもうわけがわからぬようになり、手を粗暴に振り払った。
「おれはおまえに感謝しておる。ほんとうじゃ。おまえがおらなんだら、おれは生き延びてはこられなかった。おまえはおれの恩人じゃ。おまえを憎みとうはない。頼む」
鼓動の一拍。否それよりももう少しばかり長かったろうか。微かな衣擦れの音とともにタキは立ち上がった。ヒバの手は今、やるせなく砂をつかんでいた。仰ぎみれば、タキはその顔貌をふたたび海にそそいでいる。何かを待っているようでもある。何かを。それはこの村に絶望をもたらし、この男にとっては唯一の糧となるなにものかである。
改めて眼前の男が恐ろしゅうなった。
ヒバは思うた。これはほんとうのことであろうか。おれは夢でも見ているのではないのか。あるいは先刻聞いた話がみな嘘ならばどれほどよかったか。かような作り話でもって、この田舎者を少しばかりからかってやったのだとでも言うてくれたら、おれはどれほど安堵したか知れぬ。シギなどという女はおらず、月夜の晩に殺された男もおらず、あらぬ罪をかぶって海に流された少女もおらず、果てない罪の償いにさまよい、災いを喰ろうて生きる修羅のごとき男もいない。それならばどれほどよかったか。だがこの恐ろしさときたらどうだ。体の隅々、毛穴の一つ一つまでが、この男にたいして畏怖をさけんでいる。
波は虚しく打ち寄せる。月の光はもはや気まぐれをやめ、まわりに雲のかけらもなく、中天に煌々とかがやいていた。それがまた何かしらの合図ともみえ、さらにヒバを戦慄させる。
タキがようやく口を開いたは、ヒバがそうして凍り付いたころであった。
「お前の顔は、二度と見とうないと思うていた――」
ヒバは望みなしと知ってまぶたを降ろした。
「みな喪うて生きてこられたは、この村がおれを受け容れたからじゃ。これではおれは、あのとき父母とともに死んでいたほうがよほどましではなかったか。なぜおまえはおれなど救けた。こうなることは先見せんかったのか。おれはおまえに感謝していると言うたが、これではあんまり惨いとは思わぬか。今救けてもどうせ五年の後には同じ目に遭うて死によるわと見捨ててもろうたほうが、後腐れのう死ねたものを」
「なあ、ヒバよ」
さえぎるようにタキはおのれの声を重ねた。
「おれはおまえを救けてなどおらんのだ」
ヒバがふたたび眼をあけると、タキはこちらを見下ろしていた。「おまえがおれを救けたというべきなのだ」と、続けて呟いた。意味がわからぬと目で言い返したヒバに、タキは話し始めた。
「お前の村を流したのは、それは途方もない大波であったのだ。これほどの長きを生きてきたおれにも見た覚えのないほどだった。おれは大波がくると知ったとき、そしてそれがとてつもない勘定でやってくると知ったとき、なぜかはわからぬが、死ねるのではないかと思うた。おのれが死ねぬ躰であることをいやというほど思い知りながら、何故だか、あのときばかりは死ねるかもしれぬと思うたのだ。そのようなことを考えたのは初めてであった。あてどない旅を茫洋とただ続けながら、ほんとうに死を想うたのはそのときが最初で最後であった。
おれがイト採りであったことは話したろう。だがキリが死んだ頃を境に、おれはイトを採ることができぬようになった。おまえも知っておろうが、イト採りは海に隠し事ができぬ。おそらくおれとシギの罪は竜神にとどいたのだ。それがゆえの罰であったのだ。だがおれは、あのとき、ただ一点針のさすように、おのれがイト採りであることを思い出した。宿業を背負うたがゆえに忘れるようつとめていた、おれの何者たるかを思い出した。イト採りが海で散ることを、誰も死ぬとは言わぬ、還ると呼ぶ。おれはかつてあれほどに焦がれ、親しんだ海でなら、ひょっとして死ねるのではないかと思うたのだ。おれにこのおぞましき呪いをかけたのがもし竜神であるならば、おれを解き放つのもまた其にほかならぬ。還れる時がきたのだと思うた。それだから海が沖にいた。月を眺めて浮いていた。
あのとき、おれの目に、まぶたの裏に、来たるべき大波のすがたがどう見えたか。夜の闇に黒々とうねり上がる大波の、なんとおそろしく、まがまがしいことか。だが、おれはその大波に神の姿を見ていたのだ。それほどに巨大な波だった。あたかも海が砕け散るかのような大波だ。おれは愚かにも、ああこの波ならばおれを殺してくれるのではないかと思うた。これほどに大きな波ならば、おれをこの呪いごと呑み込んで、どこぞへ消し潰してくれるのではないかと思うた。ようやくシギのもとへ往けるのだと思うた。
そのときだ。近くを漂う小舟のあるのに気がついた。そのときのおれのおどろきがどれほどであったか、おまえはわからぬであろうな。それは、赤うこそなかったが、おれの目にはキリの舟にほかならなかったのだ。あの娘を乗せて殺した罪人舟が、こんなところまで追いかけてきたのだと思えた。おれは恐れたが、奇妙な安堵もまたあった。ああそれでよい。おれを連れてゆくがよい。そう思うた。
おれは恐る恐る覗きこんだ。子どもが眠っていた。これからくる災厄など知らぬげに安らかに寝息を立てていた。おどろきは落胆にかわった。そしてすぐに絶望となった。おれの絶望は、とても言葉にできるものではない。竜神かキリの魂か、あるいはハチの亡霊か知らぬ。そのとき、確かにそれらはおれをあざ笑うていた。おれは死ぬ機会が失われたことを悟った。
あのときおまえの舟など見つけなんだら、もしかしておれは死ぬことができたのかもしれぬ、と思う。幻想かもしれぬ。だが思う。おまえはおれに救けられたと言うが、おれはあのとき、おのれの死にすら裏切られただけのことだ。……それだからヒバよ、おまえの顔を、二度は見とうなかったのだ」
ヒバの顔には、もはやどうにもならぬ泣き笑いが浮いた。声の震えを抑えもせずにうめいた。
「修羅者めが……」
「おれを怨むか」
「ああ、怨む」
眼の奥がちかちかと痛む。
「村を見殺しにしてくれよったか」
タキは微動だにしなかった。そのときである。
どう、と大きく、地面が揺れた。




