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雁が涯て  作者: 市川イチ
第二部
13/16


 【七】


 心許ないまま夜の中にとびだしたスズは、揺れる月光を頼りに歩いた。いつもどこか寒々としていると思える月が、今宵ばかりは優しいように思われた。それは彼女を勇気づけた。夫と連れ立たぬでは、夜にひとりで出歩くことなどいちどもなかったスズである。心の蔵がどきどきとして痛いほどである。呼吸がいま、浅く、荒い。いつもならこうしたとき、かならずヒバが側にいる。どうしたスズ、具合が悪うなったかと言うて、抱くようにして家へ連れ戻ってくれる。だがいま、スズは独りきりである。

 小走りのまま家から続きの道を駆け下りて幾らか往けば、ほんのまばらな雑木林に這入り込んだ。この林を抜ければ海岸である。スズは一瞬、立ち迷うた。果たしてどちらへ往けば正解であるのか。夫ヒバはいま、どこで何をしているか。海岸に出れば見通しはよいが、夜の海のおそろしさは、スズの足下を竦ませる。スズは夜の海の、何かまっくろい大きな塊のように見えるのがおそろしかった。それが、ざざ、ざざとうなりをあげて呼吸するさまは、ちっぽけなスズを恐怖させる。とても独りで砂浜へ出る勇気がもてぬ。嗚呼、ヒバが側に居れば、あたたかな夫さえ居てくれれば、たとい夜のイト採りの船に乗るとても、おそろしいとは思わぬのに。

 布団を這い出したときはたしかに決意したつもりであった。それがいま、煮立った湯の冷めるように急激に力を喪うて、代わりにぐううと恐ろしさがこみあげた。家へ戻ることもおそろしい。このままここにいることもおそろしい。月の光がいたずらに、そこかしこに影をつくる。見たことのない異形のものが、スズを取り囲んで哄笑をあげる。

 どうにも耐えきれなくなったスズがその場にかがみ込んだときである。頭上で「スズ」とよぶ声がした。その声に引っ張られるように、スズはゆっくりと、青ざめた面をあげた。


 ***


「おれが、まだおまえのようであったころ」

 話はそんなふうに始まった。ヒバはやるせない心持ちでそれを聞いた。タキは今こう言うていた。おれがおまえのようであったころ。おれが、まだおまえのような、ヒトであったころ。

 相も変わらず無表情の横顔が、そう言うている。

 ヒバはただ瞑目した。――どれほどの業を背負うたら、人はかような修羅となろうか。


「シギという女がいた。おれの嫁になるはずの女だった。器量はどうだったか知らんが、気立ての易しい、いい女だった。おれはシギとともに育った。あにいもうとのようにして育った。ここから見えもせぬ、遠い遠い、小さな、イト採りが村だ。大人も子供もそうたくさんはおらなんだ。年寄りも少しいた。赤子はいなかった。みな家族のようだった。気のいい連中ばかりの村だった。今はもう無いかもしれぬ。みな死んでしまったかもしれぬ。あるいは、まだ続いているかもしれぬ。わからん。おれはこの身になってから、一度も帰ったことがない。

 おれはその村で育った。おまえは信じられぬというだろうが、おれもかつてイト採りだった。ちょうど今のお前のように、若く、健やかで、なんと言えばいいのか分からぬ、だがおそらく身の内は善きもので満ちていた、そう、お前のように。毎日のようにイト舟を出し、イトを採って暮らしていた。どうということもない暮らしであったが、今にして思えば、あれをこそ幸福というたのだ。今のお前はまるで昔のおれを見るようだ。似ておらんが、よく似ている。

 おれもシギも親がなかった。おれたちが寄り添うて生きてきたのは、互いに生きるためというよりも、生かし合うためだったかもしれぬ。おれはシギを好いていた。シギもおれを好いていた。シギと二人、それまでそうしてきたように、助け合うて暮らしていこうと思うていた。そうすることができるのだと思うていた。おれたちはまるで疑うことを知らなかった。

 おれは藍のイト採りだった。それでもシギはおれについてくると言うてくれた。おまえもイト採りなら知っておろうが、藍のイトは報われぬ者のふたつ名だ。群青に最も近い色であるがゆえに、決して群青をとれぬさだめのイト採りだ。おれは群青を見たかった。イト採りとしての誉が欲しいと思うていた。一度でよいから群青のイトをこの手にあげることができたなら、シギにとび切り上等の布を仕立ててやろうと、そればかり思うていた。おれは――もう確かには覚えておらぬが、おそらく、二十一だったと思う。若かった。躍起になっていた。シギと祝言が決まってからも、おれはどこか浮足立っていたかもしれぬ。シギを幸せにしてやりたかった。

 何故そうならなかったのかと、おれは今もときどき考えることがある。もし人の運命というものが表裏存在するのならば、おれもシギも、どこかで間違うて迷い込んだのでないかと思うことがある。その何処かへ戻ってもう片方の道を歩めば、本来起こりうるはずだった未来へゆけるのでないかと、おれは今もそれを思う。おれとシギが生きるはずだった未来は、今もどこかでおれたちを待っているのでないかと思うことがある。そうでなければ、おれが今日まで生きてきたことの理由がつかぬ。おれはこうもおぞましい生き物になってまで、何故まだ生きておるのか、己で己がまるで分からぬのだ。だがおれは生きてきた。すくなくとも今日まで、見てのとおり存命してきた。人の禍を喰うて、疫病神と誹られながら、それでも生きてきた。おれとて、生まれたからには生きたいのさ。おれはそうすることで、己がまだ人間であると思いたいのかもしれぬ。生きたいと思わなくなればそれは化け物になっちまったということだ。ヒトは命にしがみつくものだろう。だからおれはおれが生きたいのだと思い込むのかもしれぬ。

 あれは月のあかるい晩だった。それがいけなかった。月の光は、なんでも見抜いて、晒してしまう。あれは善き者にとっては有り難く、だがそうでない者にとっては何よりも恐ろしい裁きの光だ。そう、裁きだ。おぼえておくがよい、月に見られた罪人は、二度と逃げおおせることがない。地が人がたとえ見逃しても、夜ごと昇る月がどこまでもどこまでも追うてくる。おまえの罪を知っているぞと声高に叫ぶ。だからたぶん、それがいけなかったのだ。

 シギがあの男をあやめた晩は、皓々と月が照らしていた。忘れもせぬ。この長い長い年月、ほとんどのことを忘れたが、あの明かりだけは忘れぬ。シギの赤い手を嘲笑うように輝いていた月の、青白い、冷たい光だ。

 男はクイといった。同じ村のイト採りだ。おれの長年の友だった。少しばかりとぼけているが、気のあけすけな、よい男だった。すくなくとも、おれにとっては善き友のひとりだった。おれは奴のことを、シギにもよく話して聞かせた。思えばおれがそうするとき、シギがほんのわづかに目を伏せて聞いていたのが何故だったか、おれは一度でも本心から推し量るべきだったのだ。だがおれは何も気づいていなかった。そしておれが何も気づいていないことを、シギはたしかに知っていた。

 シギはべつだん賢い女ではなかったと思う。だが女という生き物は、ある種の感情に対して、何よりも聡いものだ。女というのは、男などよりもはるかに、空気の色を見ることに長けるのであるらしい。とくに、それが奇妙な赤味を帯びていたときは、なおさらに。

 おそらくシギは、おれが友とよび信頼しているその男が、おのれに不埒な思いを抱いていることを、早くから知っていたのだろう。だがおれにそのことを話せずにいたのだろう。あるいはおれの知らぬところで何かがあったのかもしれぬ。いや、おそらくは、何かがあったのだ。おれに報せなかったのは、シギがおれを気遣うたからにほかならぬ。おれは信じがたいほど愚かだった。あんまりにも何も知らなかったのだ。ただ阿呆のように、愛する女と気のいい友人と、そのどちらもを、ほんとうにただの阿呆のように、脳天気に好いていただけだった。

 おれと祝言をあげることが決まった夜、シギはあの男を殺した。真夜中に包丁ひとつ持ち出して、海辺で刺し殺した。おれがふと目を覚まし、シギのいないことに気づいて、海辺へ探しに出たときは、もう何もかもが終わっていた。手と顔と、白い夜着を真っ赤に染めたシギがおれをふりむいたときのあの顔を、どう言い表すべきか。虚ろだった。まるで空洞のようだった。だが眼の奥に炯々と光るなにものかがあった。それが女の一念でなくてなんであったか。シギはおれとの将来を護るために、今を殺したのだ。物言わず足元に転がっていたのはあの男の死骸だった。眼を見開いていた。おれとその眼があった。何故殺されたのかわからないと言うているように、おれには見えた。

 「殺したのか」と、おれは間抜けなことを問うた。シギはだまってうなずいた。それ以上なにもおれは尋ねることができなかった。シギの身は無事だったのだと思うほかに、努めてそう思おうとするほかに、何もできぬ、愚かな男だった。おれたちはしばらくの間、そこで立ち尽くしていた。どれほどの間か、おぼえておらぬ。波の音ばかり聴いていた。

 ――だが、そのときだ、起こってはならぬことが起きた。決して起こるべきでなかったことが起きた。なにがあったか? 人がきたのだ。キリという娘だった。まだ年若の、おそらく十五ほどだったと思う。親もおらず、気性の荒いので村の人間とも打ち解けぬ、かたくなな娘だった。そのキリが、何を思うたか一人で、ふらふらと迷い込んできた。おれとシギは咄嗟に身を隠した。ただしくは、おれが岩場の陰にシギを引っ張り込んだ。そのときすでに、おれの頭の中にはおそろしい企みがあったかもしれぬ。それはまだ形をとらなかったが、確かになにか、真っ黒い塊のようなものとして、おれの頭に巣くい始めていた。

 キリはすぐに死骸に気づいた。用心深く近づいて、それが誰であるのか、確かめようとしているふうに見えた。そのときだ。奇跡が――やはり決して起こってはならぬ奇跡が、確かに起きたのだ。

 シギはおれに引っ張られるときに、包丁をその場に落としてきた。それをいま、キリが拾うたのだ。あの気丈な娘は、それがクイだということに気がついたようだった。小さく息を呑むような音を聞いたが、そのあとで近くに落ちていたシギの包丁を、キリのほそい手が拾い上げるのを、おれとシギは確かに見た。

 その一瞬の、雲一つ無い夜空の青白いばかりの月光と、それに照らされた青白い手と、血にまみれた包丁との、あの場面、忘れもせぬ。眼にはっきりと焼きついた。あの光景を見た瞬間に、おれもシギもたしかに狂うた。まったく無関係の小娘一人の手が、その呪わしい、おそろしいものを拾い上げたそのときだ。おれたちとそれをつなぐものが切れ、キリがすべて引き受けた証のように、おれたちには見えた。地獄で見る蜘蛛のイトさながらに。

 

 おれはシギに黙っていろと言った。なにもいうなと言った。小さい村のことだ。閉ざされたイトの村のことだ。お調べなど来ることはない。あの娘はかたくなで、村じゅうの嫌われものだ。おれとおまえは祝言が決まっている仲だ。心配はいらぬ。だから、おれとおまえが村の長に話したことがほんとうになる。

 キリが番牢で叫ぶ声を、決して聞いてはならぬとシギに言うた。耳をふさげ。みな忘れろ。あれはキリが殺したのだ。おまえは何もしておらぬ。それが証に、みろ、あの血まみれの包丁は、お前の手でなくキリの手のなかにあったではないか。キリは三日三晩、叫び続けた。その声を、おれはシギの代わりに聞き続けた。今も耳に残る声だ。あのとき、たったひとり、真実を知っていた娘の声だ。

 おれの村では、人殺しは流されるという決まりがあった。海のひどく荒れる晩に、沖遠く、赤く塗った小舟に縛りつけて流される。贄となって竜神に身をささげ、その罪の浄化と村の無事を祈願する。そんな莫迦な話があろうかと思うか、ヒバよ、だがおまえも知っておろう、イトの村とはそういう村だ。おもてはどうあれ、生贄なくしては成り立たぬ。キリはそうして殺された。飲まず食わずで途切れもせず叫び続けたために、弱り切っていたところを、大時化の晩に海へ送られて殺された。死骸は証かめなかったが、すくなくとも戻ってはこなかった。シギはおびえていたが、おれは内心、安堵していた。シギが殺されなかった。裁かれなかった。村の人間はだれもほんとうのことを知らぬ。おれはそれでいいと思うた。その頃からイトがとれなくなっていたことには、おれはまるで気づかなんだ。

 それからずいぶん経ったころだ。あるとき、おれは奇妙なことに気がついた。おれ自身がおかしくなっていた。おれは、いつしか何も食えんようになっていたのだ。シギのつくる飯も、水端でとる魚も木の実も、おれのからだは何も受け付けぬようになっていた。飢餓はあった。だが飢えても飢えても、食いものはおろか、水さえのどを通らぬのだ。地獄のごとき苦しみがはじまった。シギはそんなおれを不思議がった。おれは何でもないと言い続けたが、ものを食えぬばかりに、みるみるやせ衰えていった。体中が痛くてたまらぬようになった。鏡を見れば、おのれの顔とも思えぬ、おそろしい修羅がうつった。

 指一本動かすのも難儀するようになったころ、おれはついにシギに本当のことを言うた、なにも食えぬようになったと白状した。シギはおびえた。可哀想なほどにおびえた。迷わずにこれは天罰だと言うた。己の罪をおれが被ったのだというて、おびえ暮らすようになった。キリの恨めしげな幻影になやまされ、おれへの罪悪感におびえて暮らすようになった。

 シギが水に身を投げて死んだのはその年の春だ。飯の食えぬおれと、どちらがどうだか見分けのつかぬほどに窶れ衰えて死んだ。シギの弔いの日、おれはひとつの声を聞いた。あれが神の声だったのかどうか、おれは知らぬ。否や、神などいるものか。だがおまえは呪われたと、その声は言うた。たしかに言うた。

 脳天を何かで打ち下ろされるような心持ちがした。


 その言葉の意味がわかったのはそれからすぐあとのことだ。おれは間もなく村をでて、どこぞともなく放浪するようになった。あいかわらずものは食えず、水も飲めぬ体のままだったが、何故か死ぬことはなかった。何かに無理矢理生かされているような、イトで四肢を吊られているような、不自然な命をおれは持つようになっていた。

 おれの行く先々で、不思議と災厄のすがたを見かけた。火事、大水、疫病に山崩れ、数え切れぬほどの村が死ぬのをこの目で見てきた。そうするうちに、おぞましいことに気がついた。間近に災厄を見たときだけ、あるいはその最中に身を置いたときだけ、おれの飢えは満たされたのだ。果てしない飢餓が一時ばかりいやされた。おれは我知らず、その禍に呼ばれて足を向けるのだ。それがもはや本能でなくてなんであろうか。ヒトが、動物が、無意識のうちに食い物のある場所を探り当てるように、おれのこの躰は、禍のありかを貪欲に探し当てるのだ。それを喰らって、いっときの飢えを満たすために、おれは人が災厄に遭うのを見ねばならぬ。人が死ぬのを見て、ようやく腹がふくれることの、途方もないおぞましさよ。だがおれの体は生きようとし続けた。おれは生き続けてきた。おれが災いを起こすのではない、あれが勝手におれを呼ぶのだ、と居直ったことも数知れぬ。そうせねば生きてこられなかった。

 災厄どもは、おれの目に、黒い大きな塊として見えている。ヒトの形をしていることもあり、言うも恐ろしい、不気味な形をなしていることもある。おれはあのおぞましい、黒い、巨大な影を追い続けねばならぬ。奴のもたらす災いを食わねば、おれは生きていられぬ。おまえたちが飯を食わずに生きられぬように、かつてのおれが、そうであったように。死ぬまであれを追わねばならぬ。あるいは、誰かがおれを殺してくれるときがくるまで。あの真っ黒いものは、おれの心までも侵し始めた。おれはもう時間を数えることもままならぬ。

 おまえはいつか、おれに訊いたな。おまえはヒトなのかと訊いた。もはやおれにも分からぬ。おれはヒトか、そうでないものなのか。あのキリという娘がおれを赦すことはきっとない。永遠にない。おれの魂が擦り切れてくれるのを、おれは心の底から待っているところだ」

 しばしの間、言葉もなかった。

 だが数瞬ののち、ヒバの心に去来した一つの恐ろしい考えがあった。心の臓をぎゅっと直につかまれる思いがした。背筋に冷たいものが走った。思わず眼前の男の顔をまじまじとのぞきこんだ。

 ――禍の起こる処に、おまえは呼ばれるというたな、タキよ?






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