六
【六】
一方こちらも同刻である。ヒバはスズがおのれを探しに出たことなど未だ露知らず、タキと向かい合うている。
タキはヒバの返事がないのを見ると、やがて静かに語りはじめた。
「おまえ、気づいてはおらなんだか。おれとおまえが立ち寄った村で、かならず災いの起こったことを。一つの村は焼け、一つの村は土砂に呑まれた。お前の村は大波にみな流された。おれはみな知っていたのだ」
「どういう意味じゃ。なぜおまえにそんなことが判ろうか。おまえ、先現の力でもあるのか」
さよう、とタキは呟いた。
「……おれにはタキというほかに、もうひとつ名がある。おのれで名乗ったのではない。父母にもろうたのでもない。だが、いつしか人はおれをその名で呼ぶようになった。――お前の眼には、そうは見えぬだろうが、おれはもう百年以上を生きている。おまえが言うたとおりだ。おれは歳をとらぬ。死もない。薄々感づいていたろうが、おまえ、おれを奇妙に思ったことはなかったか」
「奇妙に思わんはずがあるか。おまえときたらちぃとも食わぬ、眠らぬ、そのくせあの山道をおれより健脚ときて――」
「おれはもはや、人にあらぬ」
「……名とは」
「厄病神と」
ヒバはこらえかねてタキの肩を掴んだ。異様に細い肩であった。骸骨が布をまとうているようなその手触りに、思わずヒバは手を離した。掌に感触がはり付いていた。
青ざめてタキを見やったが、この男は平然と見返してくるばかりであった。
「なんじゃ、おまえ、その躰は……」
タキの眼がじっと暗くなる。眼だまのふちからとたんに深淵がのぞいたごとき昏さである。
そう以前からそうであったのだ、とヒバは思い出していた。この男が奇妙に見えるのはその風体のみにあらず、まるで真っ黒い何かとてつもなくまがまがしいものに、そっくり人の皮をかぶせたようである。それだからたまにこうして眼の玉をうごかすと、そのふちから、内側の真っ黒いものがのぞくのだ。ふとした拍子にのぞくのだ。たとえばそれはあの土砂の夜であったかもしれず、いく晩も続いた野宿の夜の、焚き火に照らされた横顔のどれかであったかもしれぬ。
「タキよ……」
ヒバはおのれでもいやに憔悴れていると聞こえる声でそう言うた。
「おれはおまえを不気味と思うていた。それは確かやが。だがおれは、いま、おまえの語る話が聞きたい。おまえにはわけのわからぬことがありすぎる。なぜおれの村が流れることを知っていた。なぜおれとおまえばかりが、あの波から助かった。なぜあの山崩れでおれとおまえは助かった。もう一つあったが、思い出したぞ、あの火事の夜。おまえだけじゃ、顔に煤ひとつつけておらなんだのは。どうしてみな無事でいた。おまえには先現の力だけでなく、それを避ける力もあると見える。どうしてお前ばかりが、そげん恩恵をもろうとるが。――なあ、タキよ、おまえは物の怪か。それとも神仏の類か」
そこで一旦息をきり、「厄病神とはどういうわけじゃ」
タキは、「その名の通りよ」と平らかな声音で言うたあと、骨ばった手でおのれを示すようにした。月下にその姿は実に畏ろしく見えた。
「にわかには信じられぬだろうが、おれは、おれのこの躰は、災厄を訪ね当てるのだ。戦、大波、火に山崩れ、疫病みに夜盗、あげればそれは数知れぬ。だがおれにはすべてが分かる。おれの姿を見る者は、かならず災いに見舞われる。おれは身におそろしい呪いをもっている。それがために、災いのあるところにしか生きていることがかなわぬのだ」
月がいっとき、雲に隠れる。海風にタキの髪が揺れた。
「おれは災いを食うて生きている」
闇の中でその言葉を聞き届けたとき、ヒバはしばし時間を要した。その意味を取りかねたのである。言葉は言葉として耳に這入ったが、頭のなかでそれらがまっとうな意味を結ばぬ間、ヒバはぽかんとして待った。
ふた呼吸ほどの沈黙ののち、ふたたび月が現れた。しだいに漏れ出でてくるその光に身を晒しながら、タキは繰り返した。
「おれは災いを食わねば生きてゆかれぬ。あれらはおれを呼ぶのだ。ここに糧がある、食えと、おれに言う。おれにそう言うて、人の死ぬのを見せて嘲笑う」
「あ――阿呆か。そんな人間がどこにおる」
「このような身になるまでは、おれもそう思うていた」
次いでタキはわずかに嘲笑うような吐息をもらした。
「おまえ、いつかおれに訊いたな。何を食うて生きているのかと、訊いたな」
ヒバは何も言えぬまま、この五年のあいだ頭の中で何かばらばらであったものが、しずかにつながりつつある音を聞いていた。
さらに同夜同刻。
海岸に立つ二人の姿をこの夜、見ていた者があった。ハチである。
いま、ハチはイト舟を出すために浜に出てきたのである。今宵はイトがあがりそうである。このときハチはそう読んでいた。おどろくべきことではなく、イト採りはみなこうした空と海との相をよむのに長ける。今朝がたヒバが思うたとおり、今宵は空がいっそう変わった風をふかせていたのである。通常は尻尾をひいて静かにながれるはずの雲が、今宵は月光さえ撒くように、おそるべき速さで流れている。雲は二層にわかれ、下の層はとまり、上の層は地上を透かすごとき速さでごうごうと流れていく。速い雲にさえぎられ、月の光はのぞいたり隠れたりいそがしい。めったにない空である。こういった空の宵には、何かが起こる。これが表とでるか裏と出るか、思案のしどころであるが、ハチはいちかばちか表とよんだ。見ればヒバの笹駆は船置き場にのこっていた。しめたあいつは今宵舟を出しとらん。そう思うたのである。
そうして海岸へ出てくると、波打ちぎわに人影が二ツ見えた。何かと思うて目を凝らせば、いっぽうはヒバであった。だがハチの海焼けた目には、矯めつ眇めつ凝らしてみても、もう一方の姿がようわからぬ。この村の者ではないように思われる。そのときふと雲間が切れ、男の長い髪が見えた。
ハチは仰天した。先日見かけた男であった。
のどを干上がらせ、さほど大きくもない目を見開いた。何故ヒバと二人でいるのかと不思議に思うたが、それよりも先に立つものがあった。先日ヒバに話をしたとき、なぜ「どこかで見たような気もする」と思うたのかを思い出したのである。十年、いや十五年も昔の記憶がどこぞから飛んで戻ってくる。この日このときを待っていたかのように鮮烈にもどってくる。ハチはぽかんと口をあけた。
――あの男じゃ、あの……
***
ハチの生まれ育った村はこのイヅルより南に徒歩にて下ること半月、名前のない離れ島である。ある夜に村を襲った大波で、十で父と母とふるさとを失くした。イトの村に生きる者のさだめである。竜神は時折そうしてイトの代償に、気まぐれに命をとるともいわれる。
もう十五年も昔のことである。おぼえていることは殆どない。だがハチにはどうやら記憶に残していることがひとつだけあった。否記憶にへばり付いていたというべきか。古い古い記憶である。平生はどこか見えぬ底に押し込めている。もう長いこと思い出したことはなかった。だが今、この青白い月の光とあの男の長い髪とが、ハチのなかの何かをせっついた。それは記憶を引きづり出す。
村が大波にやられた夜、村にはそれまでと一つだけちがうことがあった。「見知らぬ男」がいたのである。其奴は誰にとっても見知らぬ男であった。おそらく旅人であった。髪が長く、どこか茫洋とした眼付の不気味な風体である。ハチはしかとは顔を見なんだが、うしろ姿になびいていた黒髪だけはいやに目に残った。元来イトの村はよそ者を嫌うのが常であるが、なぜあのときばかり迎え入れてやったのか、その理由は知らぬ。だがそうしたのはハチの父だった。村が長のようなことをつとめていた。
その夜は――ハチにとっては後にきわめて幸いとなるが――、ハチがはじめてイト舟を出す夜であった。十というのはイト採りの初舟としてはやや遅い。だが何かにつけ暢気な息子を危ぶんで、父は十になるまでは決して舟をださせなかった。同じくして育った村の子供が七つや八つで駆け舟を漕ぎだしてゆくのを横目に見ながらの十年間である。ハチにはそれこそ一日千秋、待ちわびた夜であった。ところがその夜その男が来たために、村では滅多にない客人への歓迎の宴がもうけられた。父はいくらかの食事と酒とにつきあわねばならなくなり、ハチは舟を出す機会をとりあげられることとなる。独りで舟を出す許しはまだ得ていなかったからである。
ハチは不貞腐れた。外は満月、風はよし、昼間には通り雨もあった。まるで天の神様がハチのためにしてくれたようなイトの夜であった。それをみすみす逃さねばならぬとは、なんたる屈辱であることか。そのおもしろくなさを抱えきれなくなった少年は、ひとり高台にのぼった。母に叱られた時によう独りで上がる高台であった。煮えた腹を冷やすには、ここがいちばん具合がよい。
どれほどか経った頃、何やら途方もない音で目を覚ました。すでに夜は明けていた。音は海から聞こえてくる。咄嗟に眼下をのぞきこんだ。そう遠くない沖に、白い線のようなものが見えた。それがなんであるか理解ったとき、ハチの思考はとまった。おそろしい速さで迫ってきた。やがて海辺に達すると、村は跡形もなく呑み込まれ、えぐり取られた。一度ばかりではなかった。押し寄せ引き戻し、ぐるぐる渦巻きながら、ごうごうごうとうなりながら、波はそこにあるだけみな壊していった。
長いこと、実に長いこと、言葉もなく座り込んでいた。
それから崖下に降りるまで、どれほどの時があったのか、ハチはおぼえておらぬ。だがかなり長い時間をそうしていたはずであった夕暮れが近くなったころであったかもしれぬ。空がうっすらと赤かったようにも思われる。
このとき崖下に降りようとなぜ思うたかといえば、実に場違いな、腹が減ったという気持であった。昨晩の夕飯を食うておらぬ。村の跡形もなく流れたのを、その一部始終を目の当たりにした後でなお、うちへ行けば何か食い物がある、と思うたのである。父母がいると何故か思うたのである。人間の心の作用のためかもしれぬ。
みな死んでいた。みな壊れていた。沖にひきづられていった者もあるやもしれぬ。家族の顔を探したが、みつからなんだ。残骸の間をふらふらと歩くハチの目に、ふと飛び込んできた人影があった。――誰か生きとる! ハチは駆け寄ろうとしたが、次瞬、足が手が、ぴたりと止まった。
そこにいたのはあの男であった。長い髪を風になびかせながら、ぼうと村の残骸を眺めていた。髪も袂も実に軽やかに揺れていた。この男は水に濡れてすらいなかった。
俺とおなじように高台にいたのであろうか。否。この男のための酒宴をしておったのだ。それがためにおれは拗ねて、ひとりで高台に上がったのだ。こいつは間違いなく、村の真ん中も真ん中、おれの家にいたはずなのだ。
家は流れ、人も流れた。この有様を見よと思いつつ、ハチは分かりかねていた。こいつばかりが何故、何もなかったごとく、ここにこうして立っていられるのか。髪の一筋も濡れておらぬ。そんなはずがあろうか。
何かしら話しかけようとした、そのときである。ハチはふたたび閊えることとなる。
男はこちらを向いてはいなかった。横顔である。さきほどからハチに気づいてもいないふうで、ただ足元の瓦礫を見詰めているのである。その顔が――、口角が、ハチの見つめる前でふいに吊り上がった。
ハチはおそろしくなって踵を返した。死んだ村を見下ろすその男が笑うて見えたのがおそろしかったのと、もうひとつである。男のつり上がった口元に、何か真っ黒いものが吸いこまれるのが見えた気がしたからである。
***
ハチは恐ろしゅうなったときの癖で、下の口唇をつよく噛んだ。
あのときおれはまだ十になったばかりじゃった、おれだけが助かった。父も母も妹も友達もみな死んだ。まさか、まさか――、という思いがかけめぐった。ヒバの背中をにらみつけた。そいつは誰ぞ、ヒバ、おまえの横にいるのは誰ぞ。あいつか。おれの村にいた、あの男なのか。否ほかにあのような男がいるはずがあろうか。ああしかし何故おれは、何日か前にこの男を見かけたときに気づかなんだ?
ハチは考え、ふとその疑問の答を見つけた気がした。同時に寒気がした。なぜおれは気付かなかったのか。有り得ぬと無意識のうちに思うたからである。十五年も前に見た顔と、今になって同じまま変わらぬまま出くわすことなどありえぬと思いこんでいたから、無意識のうちに別人と思うたのである。皺ひとつ増えておらぬとはどういうわけじゃ。なにか得体のしれない焦燥を覚えた。男の顔を証めたいと思ったのである。嫌な予感がする。そいつが村に来た夜に、おれの村に何があったか?
イヅルはもう何十年も大波とは縁がない。竜神様のご加護だとみんな言うておる。だが竜神は気まぐれである。どれほど長く祟らずにいようとも、祟るときにはかならず祟る。ハチは逸った。海辺にある村は、けっして、けっして、大波からは逃れられん。みんな考えんようにしておるが、かならずその日はくる、かならず。さだめは先延ばしには出来ても、けっして無くなるもんではない。
ヒバにそれを教えねばと思うた。長年ヒバを弟のように思うてきた。イト採りにおいてはきらびやかなまでの才をもち、屈託ないあの弟を、村にきたときから面倒見てきたのはハチである。そうだ思い出した、そいつは厄病神なのだヒバよ、きっと何かようないことをこの村に運んできよったが、おれの村を流したように。
当然ハチは、ヒバが何故いまその男と隣り合っているかを知らぬ。ふとスズのことが気にかかった。それにしてもあれほど用心せいと言うたのに。そうだスズ、スズをどうしたんじゃ、ひとりでほうってきよったか、阿呆め。
そう思うた刹那、ぴりりと音がするように、心がわづかにささくれ立った。長年隠し続けていたひとつの棘が今、この切羽詰まった局面で、おもてに出てきつつあった。それは内側からハチの心をひっかくのである。
――この男がかつてヒバとおなじように、故郷の村を波で喪い、このイヅルの村に流れついてきたことはすでに述べたとおりである。ただしその時分、十と幼く、まだ自力で舟を出したことさえなかったハチは、イト採りとしては住みつく許しをえられなかった。ようやくたどり着いた人里である。ここで追い出されては野たれ死ぬほかに道がない。ハチは懸命に村が長に頼んだが、色よい返事をもらえぬまま何日か過ぎた。そのハチを結果的に救うたのが、まだ幼子のスズであった。当時まだ襁褓がとれて間もないほどのスズは、その時分から少しでも風に当たると熱を出すほど、たいへんに体が弱かった。スズの父はすでに亡く、母もまた病がちな女であったので、ハチは何かと母娘の世話を焼いた。いつまでいられるか分からんが、という顔には少年期独特のほがらかなはにかみがあった。夜昼なく面倒を見てやるうちに、スズはしだいにハチに懐いていった。スズの母は間もなく亡くなったが、そうなるとスズはいよいよもって独りきりである。体が弱いだけでなく、尋常でない怯えたがりのスズは、だれでもめんどうをみてやれるわけでなかったから、ハチをどこかへやってしまわないで、という幼娘の願いには村のだれもが眉をさげ、結局その泣き顔にほだされぬわけにはいかなかった。
それ以後、ハチとスズとは兄妹のようにして育った。村で暮らすうち、もともとがイト採りの息子である、イト漁の腕前も身につけた。誰からともなく祝言の話をするようにもなっていたころである。いつかの自分そのままに、イト採りの少年が一人、村に流れついてきた。
年頃となり、世話を焼かれるばかりの己にふがいなさを感じ始めていたスズは、ヒバというその少年の手当てを買って出てその回復を見守った。いくらか無理を重ねたが、もともと頑健にできているヒバはスズの看護でみごとに元気をとりもどした。それはある意味において、ハチに対する一種の別離である。スズにそのつもりがあろうとなかろうと、それは弱々しくはあるが独り立ちの意思にほかならなかった。結局のところスズにとって、ハチはあくまで兄であった。ハチのほうで、いつしかスズが妹でなくなっていたことに気がついたとき、すでに祝言の夜は迫っていたのである。
それにつけても解せぬ。ヒバのやつはいったい、何を話しこんでおるのか。まさか顔見知りなどというまいな。
声をかけるか否か、二人に姿を見せるか否か逡巡していたときである。海から風がびゅうと吹いたので、とっさにハチは顔をそむけた。そうして首を振り向けた先の雑木林に、何か白いものがちらちらと見えた。




