五
【五】
「ヒバか」
と名を呼んだのは男の方が先だった。
その声を聞きながらヒバは立ち尽くし、ただ男の顔を見詰めていたのだった。
昼間に見た時まさかと思うたその顔が、声が、今ここにあった。その顔は記憶の底にたしかに残るあの五年前の顔に相違ない。あの長い旅のあいだじゅう、隣にあり続けた顔に相違ない。
口を開く前に一度、喉を鳴らさねばならなかった。ヒバはこの男の名を知っている。今ここで呼ぶべき名を、そのただひとつの名を知っている。それがいま上がってくる。ヒバの体の奥深く、どこぞに眠っていたそれが力を得て、呼び起こされて上がってくる。五年の月日を飛び越えて、かつての日が浮上する。剥落した今のうえに過去がふたたび積み上がる。
「タキか……」
と、その男の名をヒバは呼んだ。
しばし並んで沖を眺めた。
互いに腹探るような、それでいて気にも留めぬ同士の石ころがただ隣り合っているような、不可侵の沈黙が横たわる。ざざ、ざざという波の音だけが単調に繰り返されるイトの海のほとりである。
やがてヒバが口を開いた。
「ほんとうにお前か、などとは問わん。連れてきてもろうて五年になるが、何かと目まぐるしゅうて、おまえのことを思い出すこともなかった。――いや、考えぬように努めてきた。おまえはわけのわからん男やったけ、たぶん今もそうじゃの……」
その意味をはかりかねたとは思われなんだが、タキは傍らで海に眼を遣ったまま返事をしなかった。むしろヒバの言うべきところの意味が通じたゆえの沈黙とも思われた。
ヒバは何か途方もなくやり場のない想いがしながら、ちらりと横目にタキをうかがった。もはや背は殆ど変わらず、かつて見上げた頭は、今は同じところにある。相変らずの無表情が、海が沖を見つめている。五年前に見たのとまるで同じ顔がそこに一ツばかり浮いている。変わっておらぬ。まるで無口で愛想のないところまで変わっておらぬ。だが――。
ヒバはもう一度喉を無理やり飲み下した。
元来人間の形質などは様々である。それはヒバとて承知している。生来ほがらかな者もおれば、生来無口な者もいる。実の年よりも若く見える者もおれば、その逆もまた然りである。だがヒバの言わんとしていることはそれではなかった。この男は何一つ変わっておらぬ。変わらねばならぬところまで、あまりにも当時のままである。
いま眼前に居る男は、時間というもののもたらす影を微塵も背負うていなかった。五年前に別れたときとひとつも変わらず、ヒバの薄れかけた記憶の中のすがたかたちをそのまま重ねたかのようである。当時すでに青年と見えた顔貌は、今もかつてのままだった。何ひとつ変わらず、老けもせず、髪の長さすら変わっておらぬように見える。目元のかたちも、肌の色具合さえも、まるで年月を重ねておらぬ。そのような人間が在るものか。
ヒバは両手ひろげておのれの身を示した。
「おれは十九になった。昼間に見たろうが、あれは、スズはおれの嫁じゃ。体が弱うて子は出来んが、睦まじうやっとるつもりがじゃ。見い、おれは、ずいぶん変わったろうが。今じゃ女ひとり養うとるぞ、のお、タキ……五年、というんは、それだけ長い時間のことじゃ……」
「そうか」
「だがお前は、何も変わらんのだな……」
薄々と勘付いてはいた。だが改めて目の前にまざまざそれを突き付けらるる思いがした。
「おまえはやはりヒトでないのだな、タキよ」
タキはそれについて肯とも否やとも言わなんだ。ただ数瞬の沈黙を置いて、静かにこう呟いた。
「おまえ、村を喪うたこと、今もつらいか」
問いを問いで返され、数瞬、返事を迷うた。
否と言えるはずはなく、だが人がいつまでも過去を引きずって生きられぬのは、この五年、骨身にしみて思い知ってきた。寄る辺を亡くし、みなし児として流れ着いた子供一人、見知らぬ土地で生き抜くのに、まず必要なのは強さであった。己の躰を己で支え、己が眼でものを視る強さであった。
元来イトの村はその危険から逃れられぬ。沿岸にある村のすべてがそうであるように、大波津波のくることを常におびえていなければならぬ。幼子供もみなそのことを知っている。そしていざ津波がおこれば村はあとかたもなく流される。その恐れと背中合わせ隣り合わせに毎日をおくるのがイトの村の常である。今日一日が無事だったからというて、ああ明日も無事なのだとは、誰も思わぬ。
ヒバはぽつりぽつりと、つむぐように、こう答えた。
「つらい、ということはない。もう昔のことじゃ。イトの村が流れることはようある。おれもおれなりに忙しゅうて、考えることも山ほどあったけ。だがのお、タキよ、おれが今もこうして生きていることが分からんといえば分からん」
夜ごと見るあの夢が脳裏をよぎった。
「……なあタキよ、おれはあの夜――おれの村が流れちまった夜、間違いのう、沖に舟を出しとったがじゃ」
タキの眼が細うなった。ヒバは喉にあがってくる唾をのみこんで続けた。
「おまえ、海が沖でおれを見つけたと言うた。だからきっとおれの記憶は間違うておらぬ。それが解せんといえば解せん。大波の沖にいたおれとおまえが、どうして命を拾ったが……」
「土砂の夜をおぼえているか」
忘れようはずもない。ヒバが思わず顔を向けると、タキもこちらを振り向いていた。両者、顔が目の前にあった。日に焼けたヒバの顔などとはまるで違う、ただ真っ白い顔がいま同じ月をあびている。さらばこの五年の月日、太陽すらこの男の肌を焼くことはなかったのか。
ヒバは微かに身震いをした。月の光は悪戯である。うそを暴き、うそをつく。なんでも均し、そののちは在るがまま晒す。なんでもないものをおそろしく見せ、不可思議なものについては、その本質を浮かび上がらせる。
ヒバは頷いた。
脳裏に五年前の一つの夜のことがありありとよみがえった。
***
土砂はまたたくまに村を呑み込み、畑と草木とを押しつぶし、町を根こそぎ押し流した。そしてそのすぐあとに静寂が残った。一瞬のうちにあらゆるものが黙って死んだ。
ヒバははじめから終わりまでをただ見ていた。そのあいだわづかにも動かなかった。足は地面にはりつき、指はぴくりともせぬ。少年は動かなかったのでなく動けなかったのである。瞬きをひとつしたかどうかさえ判らぬ。自分が何か言うたかどうかもおぼえておらぬ。
何が起きたか知る間はまるでなかった。眼前のタキは、依然、じっとヒバを見詰めている。その眼は何も語らぬ。あるいは読み取れぬほど多くのことを語っているとも見えたかもしれぬ。両者はいま、ぽつんと地に立っている。泥ひとつ、土呉ひとつつかぬ足でしかと地を踏んでいる。
土は、はじめから終りまで、タキとヒバとを避けて流れた。
ただ石になってしまったヒバと、すべてあらかじめ予知していたごとく、まるで動じぬていであったタキ、その両者の違いはあれど結果だけが今とり残されてここにあった。すべて終わり、いまが残った。荒れ狂う怒涛はみずからその流れを分かち、人間ふたりは激流のなかの巌がごとく、ただそこに立ちつづけていたのである。
ヒバがようやく最初の息をついたとき、見渡すかぎり一変していた。月光が冷え冷えと照らすなか、いちめん死に絶えた地の上に、タキの長い黒髪が幾筋か揺れていた。それまであったものがみな消え、代わりに、見たこともないものが眼前にあった。闇と夜空と大地のほかは何も見えぬ。何もかも土の下にうもれている。草木のしっぽすらうかがえぬ。
ヒバの村がかつて水に呑まれたように、いま、この町もまた土に呑まれ、逆いもせずに見えなくなって、その遺骸をむなしく空下に横たえていた。星は、静かにまたたいていた。
耳のきんとするような静寂のなか、ヒバはようやく声が出た。「なんで」と呟いた。四方すべて土である。頭のてっぺんだけが空である。声は出たが、何を問えばや、何を言えばや、この四方すべて土である、前も後ろも右も左も。
無数の何故が頭の中を巡り巡った。見ろこの有様を、みな流れてしもうたのに、みな埋まってしもうたのに、なぜおれとおまえだけが、今こうして向かい合って、まだこうして立っているのか。
ヒバは膝を折った。まともに立ってはおれぬと思うた。そのうえに星と月光をさえぎって、髪の長い男の影が落ちる。タキが歩み寄ってきたのである。物言わぬタキの気配がいま、頭上にある。
数瞬ほどもかかってヒバはおもてを上げた。
「おれを、気味が悪いと思うか」
感情のない声である。虚空に渡したイトがごとき抑揚のない声色である。
気味が悪いかと問うてきたのは、ヒバの声にならぬ疑問に対する答えにほかならぬ。もはや疑いはなかった。ヒバはそれをさとっていた。
この男は己を避けて土砂が流れると知っていたのである。濁流の真ん中にあろうとも、うなりをあげて傾れかかる土砂の前にあろうとも、己が決して沈まぬことを知っていたのである。それみたことかと言わんばかりの眼をして、この不審の男はいま、そんなふうにヒバに問いかけてきたのである。
ヒバはただ見上げた。言葉は出なかった。今さらのように四肢に震えがきた。なにを恐怖しているのかおのれ自身も判らぬまま、タキの問いにも答えることができぬまま、タキの顔を凝視するほかなかった。
タキはやがて静かに顔をそむけた。歩き去りながら「イヅルは近い」とだけ言った。それで旅は終いだというその声に、ヒバはただうなずいた。
それから二人は黙って歩き通し、二日目の夕暮れに海岸の小さな村に辿り着いた。山の上から見下ろしながら、タキはついに村には入ろうとせなんだ。ヒバの背を押し、行け、と言うたきり、きびすを返してどこぞへ去っていった。それが別れであった。
***
「あのときどれほど訊きたいと思うたかわからん」
ヒバは言った。「だが訊いてはならぬ、とも思うた。おれはたぶん、おまえを恐ろしいと思うていたのだ……」
「おれが何者か、とは訊かぬのか」
「訊いてよいのか」
タキはまた海に目線をもどした。
「訊かれとうはない。だがおまえが訊ねたいと思うなら、そうしろ」
「……おまえはおれの恩人じゃ。仇を返す真似はしとうない」
ヒバがわづかに口籠ると、タキは微苦笑をしてみせた。
「ヒバよ」
「なんじゃ」
「おまえは強うなったな」
ヒバはきゅうに口中に甘ったるい菓子でも押し込まれたように、居心地が悪うなった。
「なにを当り前な。おまえは弱うなったのか」
「いいや」
タキは白掌を月に透かした。「見ての通り変わらんよ」
「おれは変わらん。いつからこのようだったかも忘れてしもうた。おぼえていることができなくなった、と言うほうがおそらく正しい。おまえは五年を長いと思うのだろうが、おれは五年という月日がどれだけ長いか、もはやわからぬのだ。まるで昨日のことのようとしか思われぬ。昨日おれより背丈の小さかった子供が、今日、おなじ高さでおれを見る。おれは今、これでもおどろいているところだ」
ふとヒバの脳裏に、金糸の張るように閃くものがあった。
「おまえ、死なんのか」
タキは骨のような手を静かに降した。ヒバは重ねて問うた。「おまえ、死なんのか。歳もとらぬのか」
否やという言葉はついに聞かれなかった。
――同夜同刻――
スズは布団に半身を起こし、己が身を抱くようにして歯をふるわせていた。眼を覚ましたのは偶々である。平生眠りはとても浅い。隣で眠るはずの夫がおらぬのに気がついたとき、すでにどれほどの時が過ぎていたのか。
うすい夜着を染み通し、夜の肌寒さが肩に堪えた。隣に夫の姿はない。敷布に手を触れてみればひやりとした。ずいぶん前に出ていったのか。なぜ一人で出ていったのか。
夫はなぜ居らぬのか。スズの心に恐怖がじんわり浸みてきた。スズはヒバのいないことに慣れておらぬ。どんなときでも眼の端にかならず夫の姿を見ているからである。姿が見えぬと、すがるものもなく高架に取り残されたごとき思いがする。それだからスズは困惑していた。いつも隣に床をのべ、手を握り合うようにして眠ってきたのに、どうしていま、家の中がこうも寂しく冷え切っておるのか。夫のあの暖かい手がここにない。太陽のごとき笑顔もない。
スズはおびえた。何か違っていた。昨日までなかったものがいまこの村にある。そういった予感がする。なにかわからぬ、だがなにかがヒバをおのれの元から連れ去ってしまう予感がする。スズは変化がおそろしい。生来身も心も弱弱しく出来ているスズは、ヒバと連れ添い、庇護を得て、ことさらに弱うなってしまった。もはやヒバの庇護がなくてはいられぬこの弱さが、あるいは鋼よりも強う夫を縛りつけているのかもしれぬと思うことがある。決して口には出せぬ。
スズは自分の知らぬものがすべて恐ろしい。ヒバにすがりつくようにしておらねば、心はいともたやすく不安でつぶれる。ヒバはスズのそんな頼りなげな気性を愛し、おのれの腕に匿ってきたが、スズはそれでも夫ヒバに何かしら変化をもたらすものがおそろしい。スズにはそれができぬからである。ひらかれた気性の夫と違い、スズは変容することを知らぬ。見知らぬものに相対するすべを持たぬ。
夫はイト採りである。それも黄のイト採りである。奇縁をつかむ格の者といわれるとおり、スズは夫の過去をよう知らぬ。五年も前にどこぞから来て住み着いた。何故ときけば、故郷が大波にやられたと聞いた。イトの村にはままあることである。それがために幾日もの旅を経て、この村にたどり着いたと答えた。そのときまだ十四であったという。なんと、なんと強いことか。
スズはヒバのその強さをさえ、彼がおのれの元から離れていく何かしらの符丁のように思えて空恐ろしくなることがある。スズは夫がおらねば呼吸することもままならぬのに、ヒバはスズがおらずとも生きていかれるように思えてしかたがない。夫は見知らぬものを恐れぬ。なにも恐れぬ。畏れるのはイトをもたらす竜神それのみである。
真夜中の海に漕ぎ出そうとも、たとい月明かりがささずとも、夫の力強い腕はわづかも怯むことがない。だがスズは然に非ず。恐れる。みな恐れる。みな怖い。ヒバとただ静かに暮らしていければそれでよい。その暮しに見知らぬ何かの介入してくることが恐ろしい。その何かに、すがりついた袖までも引きはがされてゆく心持ちがし、恐ろしいのである。弱い女の性といえるかもしれぬ。哀しい性である。
体が弱く、子も成せぬ。夫はそれでもよいというが、スズはそれを申し訳ないと思う。あの朗らかな気性の夫が、子をのぞまぬはずがない。村の子供らと他愛のない遊びに興じておるときの、屈託ない笑顔を見るにつけ、スズの心は静かに痛む。
それだから怖いのである。スズは夫のいないことが何よりも怖い。この夜もそうであった。ヒバがおらぬとスズはどうしてよいかわからなくなる。とにもかくにも夫の姿を見つけねば、眠ることも、このまま起きていることもできぬ。ただ凍り付くのみである。
スズは一息吐いて、おのれのか弱い躰に活をいれ、そっと床から抜け出した。身体は震えてしかたがない。それでも火皿に火をいれた。
ジジと揺れるたよりない灯り一ツを手に土間へ下りた。履き物がどういうわけか見つからぬ。それだから裸足のままで外へ出た。夜空には満点の星が、煌々と照らす月が、今はそればかりが味方のごとく、彼女の往く道を照らしていた。
スズは歩きだした。夫を捜さねばならぬ。




