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雁が涯て  作者: 市川イチ
第二部
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 【四】



 それから二日ほど経ったころである。

 その日、スズは何日かぶりに床から起き上がり、それまでのようすから一転、朝から元気を出してヒバとともに立ち働いていた。こわれものの嫁が心配なヒバは、幾度となく無理するなと言い聞かせたが、具合のいいのがよほどうれしいらしいスズは、袖をまくって平気よと言うばかりである。はれやかな嫁の笑顔をひさしぶりに見た気分であった。

 そのうち、昼頃になってもいっこう顔色ひとつ悪くならぬので、ヒバはようやく安堵しはじめた。今宵の漁はすでにあきらめていたが、この様子ならば海へ出られるかもしれぬと思いなおし始めていた。なにしろ今朝、起きぬけに見た朝焼けの空は、それを見なれた者すらも思わずぽかんと口をあけるほど美しいさまに染め上り、ヒバの両眼を鮮烈につきぬけたのである。きょうという日の空ぐあいはここ一年ほどで見たこともないほどの空と思われた。この空が暮れればイト漁にはうってつけの宵となる。イトは宵にあがるものであるが、その多寡と良し悪しは黎明の空のぐあいで決まる。雨のひとつも降ると最高である。さらに見遣れば、山むこうにはわづかに雨気を帯びていた。これはよい。ヒバは思うた。その日に舟を出さぬことは、イト採りにとっては辛きことである。

 昼餉のときにヒバは、おまえがよければ今宵漁へでるが、ひとりでうちにいられそうかと問うてみた。スズはしばし思案したあと、なにやら思い決めたように一度口元をぐっとこらえ、わたしもいっしょに海辺へ出たいと言い出した。ヒバは目をまるくした。こんな日はきわめて希である。スズと出会うて五年になるが、おそらくはじめてのことである。だがイトの村に生まれ、生粋の海辺育ちであるのに家にひきこもって暮らし、海を間近で見ることのないスズを、ヒバは常々哀れと思うてきた。当人がそうしたいというのなら、是非その願いをかなえてやりたいと思うた。これを逃せばまたいつこのように元気なスズを見られるかわからぬという思いもあった。日々弱っていくスズには、おそらく同代のヒバほどには時間が残されていないことを、このころにはすでにヒバは悟っており、スズもまたそのことを知っている。互いに決して口にせぬ不文律である。

 とはいえ不安は山とあった。一度はだめだと言うてみたが、かわいらしい顔で二度三度とお強請りされてしまうとさすがに勝てぬ。スズがこのようにヒバになにごとか強請るのは、やはり滅多にないことである。そう何度も否やといえるはずもなく、ついにはヒバは渋々と折れた。散歩に出るのはいいが、舟には乗せてやれるか分からんぞ、とくどいほどに念を押すと、スズはおとなしく聞き分けた。少しでも頭がぐらぐらしたら、すぐにうちへ戻るわと約束をした。そうしてスズは実にひさしぶりに、夫ヒバと連れだって家を出たのである。

 二人の住み家は村の外れである。なだらかな坂道を降りれば直ぐに海辺である。このみじかい道のりをさえ、スズはめったなことでは歩くことがかなわない。若夫婦は、いま、きらめくように晴れた日の下を寄り添うようにして歩き出した。

 スズを気遣い気遣い、ヒバは歩を合わせて歩く。おれはこの女を何があっても守ってやらねばならんのだ、という思いがした。その手はいま、黒髪の揺れるか細い肩をつなぎとめる。何事かあってたまるものか。おれのこの手で守らねばならぬ。父母を失い、弟を失い、ふるさとと呼ぶべき村を失い、すっかり孤独になっちまったおれの、二度目の家族がこのかよわい女なのだ。それは、おれの、今となってはただひとつの、帰ってもよい場所なのだ。

 スズは幸い気分よく歩き続け、ときどきは弱々しい声で歌も歌った。いざ海辺へ出ると、潮風が存外つよく吹いていたので、ヒバはスズの身を案じたが、スズのほうでは障った様子は見られなかった。このときのスズは実に楽しげであった。久々に間近に海を見てはしゃぐ妻を横目にしながら、ヒバはしばし考えた。さてこの様子であれば、もしスズがそうしたいというのなら、少しばかり舟に乗せてやれるかもしれぬと思われた。さいわい今夜はイトのあがりそうな具合である。このまま夕が暮れまで待って、スズがまだ元気でいられるようであれば、小舟を駆って沖へ出ようか……

 なに、不埒な男がうろついているとハチは言うたが、あやつは何につけそそっかしいのだし、スズをひとりで歩かせるわけでなし、おれがついておるのだ、心配なかろう。村の衆には荒くれもおる。なによりヒバの若い体には、長年のあいだ夜海に独りで舟を出してきたために身についた夜目と、みなぎる力とがやどっている。身はひょろりとしているが、腕の力も脚の力も、ヒバはだれにも負けぬほど強くなった。

 スズが一日元気でいることはめったにない。ヒバはこの機にどうにかして平生からのねがいを叶えてやりたいと思うた。スズはヒバのとってくるイトを誰よりも早く見たがってくれるが、海から上がったばかりのイトを見せてやりたいのは、ヒバの願いでもあった。掬い上げたヒバの両手のなかで息づくようなイト玉の、あのささやき声に似たひっそりとした輝きを、是非とも見せてやりたいと思うた。

 スズが怖がらぬようなら、そうしよう、スズを舟に乗せて、イトの海を見せてやろう――と、ヒバがそこまで思い固めたときだった。ひらひら蝶の舞うごとく、楽しげに先行していたスズが小駆けにもどってきて、さっとヒバの腕にしがみついた。どうしたのかと目で問うて見下ろせば、スズは心持ち青ざめて、というよりもいくらか怪訝な面持ちで、半月がたの海岸線の、波打ち際のずっと向こうを見遣っていた。

「見たことのない人がいる」

 スズはそう言うて、かぼそい指をそっと上げた。

 その爪の先が指ししめすほうにつられるように、ヒバも先に目をやった。そうして確かに、そこに村人ではない誰かが立っているのを認めた。


 まだ昼日中の青空の下、いやに長い黒髪を海風になぶらせるまま、誰かがぼうと立っている。スズはなにやらおびえているようであった。生来気弱な女であるから、見慣れぬ男を見たというだけでも、スズはたいへん怖がる。ましてや、いま向こうに見えている男は、イヅルの村の男たちなどとはまるで違う風体である。ヒバはスズの頭をなでた。子供の時分から、そうする安堵するのは変わらない。

 こちらに背を向けているので、顔は見えぬ。だがたしかに異様な風体であった。イト採りとは見えぬ。ましてこの村の者でもない。イト採りは、海が沖に出るもののならいとして髪を長く伸ばしはするが、決してあのように、縛らずに流すことはない。腕の出ないような衣をまとうこともない。ときにはみずから海に潜ってイト玉を探すイト採りは、つねに身軽でいることを好む。ヒバは眼を鋭くした。遠眼のきくヒバの眼は、陽の光にさらされて海岸線にしかと浮き上がった男の輪郭をたしかにとらえた。

 逡巡はひとときであった。スズをおびえさせぬよう、おだやかに歩をすすめた。先日ハチから何やら聞いていたと思しきスズは、ヒバの腕のなかにちいさくなって包まれながらも、目で男のすがたを追うていた。

 男とすれ違うとき、スズはぎゅっと身を固めた。ヒバはスズをあやしながら、ほんの一瞬、眼をその背に流した。ともすれば目が合うかと思うたが、視線は終に交じらなんだ。男はこの若夫婦に気づいてもおらぬふうで、ぼうと海が沖を眺めているのみである。その長い髪のひとすじが、今、二人の後を追うように流れた。そのことには気づかなかった。だがこのとき、腕の中のスズにさえ気取られぬほどかすかに、ヒバは掌を握りしめていた。遠い海鳴りの、そのどこかに今、かつて聴いたべつの音が混じっていた。


 ***


 夕餉のあとスズはまた起きていられぬようになり、早々に床についた。昼間つかれさせたのがいけなかったかとヒバは肝を冷やしたが、顔色はそれほど悪くなく、何度か短い眠りを繰り返し、夜更けごろには目を開けていられるようになった。これでは舟には乗せてやれんなあ、というと、枕に頭をつけたまま恥じ入ったようにほほえんで、そうねえ、とスズは答えた。小窓から差し込む月明かりに顔を向け、

「イト漁にでないの」

「阿呆。おまえを置いてか」

「昼間はその気だったじゃないの」

「おまえの具合が悪うなかったからじゃ」

 それをきいてスズはさびしそうであった。その表情を察したヒバが、「今宵はうちにおるが。安心して寝ろ」というと、首を振った。そのうち、長いまつげの隙間からぽろりと涙がこぼれおちた。あわてたヒバが、どうした、今宵はどこへも行かん、何を泣くことがある、というてよく訊けば、それがいやだと言うてスズは泣くのであった。

「わたしがこんなだからみんないけないのね、あんたはイト漁がうんと好きなのに、かんにんしてね――」

 ヒバはスズの頬を伝い落ちる涙をけんめいにぬぐい取った。「おれはみんな承知でおまえと一緒になったやが。阿呆なことを今さら言うて」

 スズはほろほろと泣くばかりである。とぎれとぎれの嗚咽のあいだに、漁に行って、行ってと繰り返す声がまじる。ヒバはなんともやりきれぬ思いでそれを聞いたが、やがてわずかな体力を果たして泣き疲れたころ寝息に変わった。その眠りがやすらかであるのか判じつかぬ、頬に涙のあとの残る寝顔であった。

 スズの体を治してやることができたらどれほどよいか、この長年、そればかりを思うてきた。当のスズに気遣いをかけぬよう、この肚だけで思い決めてきたつもりであった。それが出来ていると思うていた。そのおのれの浅慮を今、このか弱い妻女のかすかな涙に思い知らされたのである。

「――おれはイトを捨てて生きられるか。あるいは……」

 月光にさらされてなお青じろいスズの肌を見下ろしながら、気づけばそう独り言を言っていた。ヒバが腰を上げるのはこれより一刻の後である。


 ふらりと海辺に出た。忽ち海風が顔にあたった。慣れ親しんだ磯の香と、夜半の雲間を照らして煌々とかがやく月があり、その光をうけて海は凪いでいた。おだやかな波の音は胸を締め付けるほどになつかしい。

 浜に出てきたはよいが、いま、沖が妙に遠う感じられた。おのれの笹駆を降ろす決心もつかぬまま、ヒバはしばし海岸線を流れ歩いた。ほかのイト採りどもはどういうわけかひとりも見当たらなかった。しずかな海辺に眼をめぐらせたそのときである。

 まったくおなじ場所、おなじ様子、星明かりの海岸に、昼間のあの男がたたずんでいた。海と砂とのさかいめに、やはり海が沖に顔を向け、長い髪を海風になびかせて、独りぽつねんと立っている。ヒバはゆっくりと歩み寄った。昼間のあの一瞬の邂逅に見たものを今また見ていた。ただそれは、言うなれば、呼び覚まされたためであった。心の蔵が、いま、ざわざわとうごめいていた。

 男が振り返る。ずっとそのときを待っていたというように、振り返る。ヒバはそれを見る。記憶の底、腹の底から、呼び覚まされて上がってきた何がしかの感情がある。その情に引きずられるように、このときヒバは眼を見開いて男の顔を見つめたのである。






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