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商店街のチョコ屋の強がりな二代目店長は、年下ハーフの小悪魔ショコラティエにわがままのふりで甘やかされています  作者: ひとひら


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第2話 ココアのトリュフみたいに、小悪魔〜今日の一粒:ココアパウダーのトリュフ~


 

 ノエルがうちのお店にやってきて、三日が過ぎた。


 十一月最後の木曜日。


 午前八時半、開店前の商店街には、冬の冷たい空気が漂っていた。


 アーケードの屋根から差し込む朝の光は淡く、通りのタイルには夜の冷え込みがまだ残っている。近くのパン屋からは焼きたてのパンの香りが流れてきて、向かいの花屋では、店主のおじさんが白い息を吐きながら鉢植えを並べていた。


 そんな商店街の一角にある、チョコレート専門店『Chocolat Fleur de Forêt』。


 店内では、開店に向けた準備が始まっていた。


 ショーケースには、色とりどりのボンボンショコラ。壁際の棚には、焼き菓子を詰めた小箱が並んでいる。工房の奥では、チョコレートを温める機械が低い音を立て、甘くほろ苦い香りが少しずつ広がっていた。


 そして、その工房で。


 うちの新人は、今日も絶好調だった。


「店長~。僕、今日はミルクチョコの気分じゃないです」


「気分で材料を選ばないでください」


 私は仕込み台でチョコレートを刻みながら、きっぱり答えた。


「じゃあ、ビターの気分です」


「それも気分でしょう」


「えー。だめですか?」


 ノエルは私の隣にやってくると、作業台に両手をつき、こちらを覗き込んだ。


「ね、店長。いいでしょ?」


 こてん、と首を傾げる。


 ミルクティー色の髪がさらりと揺れ、ヘーゼル色の瞳が上目遣いに私を見つめた。


 ……ずるい。


 顔がいいのを自覚している人の仕草だ、これは。


「だ、だめです。レシピどおりに作ってください」


「今、ちょっと迷いましたよね?」


「迷ってません!」


「ほんとかなあ。店長、僕に甘いからなあ」


「誰がですか!」


「あ、照れた」


「照れてません!」


 ノエルは、いたずらが成功した子どものように笑った。


 悔しいけれど、こういうときの彼は妙にかわいい。


 ……いやいや、かわいさに騙されてはいけない。


 この三日間で、私は身をもって学んでいた。


 ノエルは、とにかく気まぐれだ。


 突然「今日はこれが食べたい」と言い出すし、休憩の時間になると、私の後ろをひょこひょことついてくる。試作のトリュフを見つければ、「味見も大切な仕事ですよね?」と、ちゃっかり一粒つまんでいく。


 しかも、食べ終わったあとには決まってこう言うのだ。


「店長、これ、もう一粒食べてもいいですか?」


「だめです」


「えー。じゃあ、明日もここで働こうかなあ」


「トリュフ目当てで働かないでください!」


「あはは。ばれました?」


 こんな調子である。


 そのくせ、冗談めかして「飽きたらどうしようかな~」なんて言うものだから、いつ辞めると言い出すのか、気が気ではない。


 せっかく来てくれた、大切な新人なのだ。


 フランスの有名店で修行した腕前も、仕事に対する真面目さも、本物だと思う。


 それなのに、本人はどこまで本気なのか、さっぱりわからない。


「……なんで、仕事だけは完璧なんだろう」


 私は、誰にも聞こえないように呟いた。


 ノエルが作るガナッシュは、驚くほどなめらかだ。口に含めば、舌の上でほどけるように溶けていく。


 チョコレートの温度管理にも一切の妥協がなく、道具の扱いも、作業台の片づけ方も、無駄がない。


 接客だって丁寧だった。


 初めて来店したお客さんにも自然に笑いかけ、常連さんとはすぐに打ち解けてしまう。


 ふざけているようで、仕事の手は止まらない。


 そのうえ、昨日は商店街の八百屋のおばさんから、こんなことまで聞かされた。


『あの金髪の子、いい子ねえ。私の荷物、黙って運んでくれたのよ』


 金髪じゃなくて、ミルクティー色なんだけど。


 ……じゃなくて。


『えっ、そうなんですか?』


『そうそう。重い箱をひょいって持ってくれてねえ。お礼を言ったら、かわいい顔で笑うんだもの。あれはモテるわよ』


 最後の一言は、聞かなかったことにした。


 ノエルは、そんなことを一言も話していない。


 ふざけているのか、真面目なのか。


 人懐っこいだけなのか、それとも――。


「店長~。手、止まってますよ?」


「わっ!」


 いつの間にか、ノエルがすぐ隣から私の顔を覗き込んでいた。


「もしかして、僕のこと考えてました?」


「考えてません!」


「えー、残念。僕は店長のこと、けっこう考えてるのに」


「……っ!」


「あ、また赤くなった」


「なってません!」


「じゃあ、もうちょっと近くで確認してもいいですか?」


「だめです!」


「あはは。店長、ほんとにかわいい」


 彼は満足そうに笑うと、何事もなかったように作業台へ戻っていった。


 ……本当に、扱いにくい新人だ。


 私は小さく息を吐き、再び包丁を握った。


 カツ、カツ、とチョコレートを刻む音が工房に響く。


 窓の外では、商店街を通りかかった人たちが、少しずつ増え始めていた。


 いつもと同じ朝。


 父がいなくなってから、何度も繰り返してきた朝。


 それなのに、ノエルが来てから、工房の空気はずいぶん変わった。


 静かだった場所に、笑い声が増えた。


 一人で抱えていた仕事を、誰かと分け合えるようになった。


 父がいなくなってから、工房でこんなふうに誰かと笑うことは、ほとんどなかった。


 そのことに気づくと、胸の奥がほんの少しだけ温かくなった。


 ……でも、油断は禁物。


 この新人に振り回されていたら、仕事が進まなくなってしまう。


「ノエルくん。おしゃべりはそこまで。仕込みを進めますよ」


「はーい。店長って、意外と厳しいんですね」


「意外と、は余計です!」


「でも、そういうところも好きですよ」


「……っ、もう!」


 まただ。


 この子は、どうして息をするみたいに恥ずかしいことを言うんだろう。


 私は赤くなった顔を隠すように、チョコレートへ視線を落とした。


 その背後で、ノエルがくすくすと笑っていた。


     


 午後二時過ぎ。


 ランチの時間帯を過ぎた商店街は、昼どきの賑わいが少し落ち着いていた。


 店の前を通る人影もまばらになり、アーケードの奥から、ときおり自転車のベルが聞こえてくる。


 『Chocolat Fleur de Forêt』の店内には、焼き菓子の甘い香りが残っていた。


 ショーケースには、午前中に作ったボンボンショコラが整然と並んでいる。窓際の小さなテーブルでは、年配の女性が、贈り物にするチョコレートをゆっくりと選んでいた。


「こちらでしたら、ビターとキャラメルの詰め合わせがおすすめです」


 私は笑顔で説明しながら、お客さんの様子を見守った。


「まあ、素敵。じゃあ、それをいただこうかしら」


「ありがとうございます。お包みしますね」


 お客さんを見送ると、私はレジの前に立ち、午前中の売上を確認した。


 今日も、売上は決して多くない。


 けれど、少しずつでもお客さんに来てもらえている。それだけでも、ありがたいことだった。


 このお店を続けていくためには、毎日の積み重ねが大切だ。


 私は数字を確認しながら、明日の仕込みの量を頭の中で考えていた。


 そのときだった。


「……あれ?」


 レジの画面が、突然真っ暗になった。


 ついさっきまで表示されていた数字が、何も映らなくなっている。


「えっ、うそ。うそうそ。さっきまで動いてたのに……!」


 私は慌てて電源ボタンを押した。


 反応がない。


 もう一度押してみる。


 やっぱり、反応がない。


「ちょっと、待って……」


 電源コードを抜き、少し待ってから差し直す。


 画面が一瞬だけぱっと光ったものの、すぐにまた真っ暗になってしまった。


「あああ……!」


 頭の中が、一気に真っ白になった。


 私は、昔から機械が苦手だった。


 レジも、パソコンも、帳簿のソフトも。


 父はそういうものをあまり使わず、そろばんと手書きの帳面で店を切り盛りしていた。


 私も、できるだけ父のやり方を受け継いできたつもりだった。


 けれど今は、事務手続きの関係で、売上の履歴を電子データで提出しなければならない。


 もし、今日の記録が消えてしまったら?


 これまでの履歴まで消えていたら?


 考えれば考えるほど、不安が膨らんでいく。


「どうしよう……。今日の売上、記録が……」


 指先が冷たくなった。


 頭の中では、やらなければいけないことが次々に浮かんでは、絡まっていった。


 サポートセンターに電話しなきゃ。


 でも、番号はどこに置いたっけ。


 このままお客さんが来たら、どうやって会計すればいいの?


 現金で対応するにしても、お釣りの計算を間違えたら――。


 ひとつの問題を考えているはずなのに、頭の中では、関係のない不安まで次々に膨らんでいく。


 クリスマスの繁忙期を前に、こんなところでつまずいている場合じゃない。


 もっとしっかりしなきゃ。


 私が店長なんだから。


 私は自分を奮い立たせるように、電源コードを握り直した。


「大丈夫、大丈夫……」


 いつもの口癖を繰り返す。


 けれど、今日はその言葉が、少しも心に届かなかった。


「店長~?」


 工房のほうから、ノエルの声がした。


「どうしたんですか?」


「レジが動かなくて……! 今日の分の履歴が消えたかもしれなくて。えっと、サポートセンターに電話しなきゃ。でも番号はどこだっけ。それに、お客さんが来たら現金で……ああ、どうしよう!」


 自分でも何を言っているのかわからない。


 それでも、手だけは止められなかった。


 もう一度、電源を確認する。


「店長~」


「大丈夫、大丈夫。大丈夫だから。ちょっと待ってね、すぐ直すから」


「店長~?」


「えっと、まずは電源が……」


「……店長」


 その声に、私はぴたりと手を止めた。


 語尾が、伸びていなかった。


 いつもの甘えるような声ではない。


 短くて、低くて、静かな声だった。


 顔を上げると、ノエルがすぐ隣に立っていた。


 片手には、湯気の立つ白いマグカップ。


 甘く、ほろ苦い香りが、ふわりと鼻先をくすぐった。


「はい、これ」


「……え?」


「ココアです。ちゃんと、あったかいやつ」


 差し出されたカップを、私は反射的に受け取った。


「あの、今、それどころじゃ……」


「店長」


 ノエルは、私の顔を覗き込んだ。


「顔、真っ白ですよ」


「え……」


「手も冷たい」


 カップを持つ私の指先に、彼の視線が落ちる。


「たぶん、朝から何も飲んでないでしょう?」


 言われて、初めて気づいた。


 そういえば、朝から一度も水を飲んでいない。


 開店準備をして、仕込みをして、お客さんの対応をして。気がつけば、休憩する時間さえ惜しくなっていた。


「でも、レジが……」


「レジは僕が見ます」


「ノエルくん、機械に詳しいの?」


「いいえ。全然」


「……え?」


 あまりにもあっさり言われて、私は目を丸くした。


「じゃあ、どうするの?」


「サポートセンターに電話します」


「番号がわからないの!」


「知ってますよ」


「えっ?」


 ノエルはレジ横の引き出しを開け、右から二番目の引き出しから、黄ばんだメモを取り出した。


「ほら。前に店長が、ここに入れてましたよね?」


「……そんなところに入れてたんだ」


「はい。店長、忘れっぽいから」


「忘れっぽくありません!」


「ふふ。じゃあ、僕が覚えておきますね」


 彼はメモを持ったまま、私に向き直った。


「だから、店長は座っててください」


「でも……」


「でも、じゃありません」


 ノエルの声は、優しかった。


 それなのに、いつもの軽い調子とは違うせいか、妙に逆らいにくい。


 彼は私の手元に視線を落とした。


「ココア、冷めちゃいますよ」


「……あ」


「せっかく店長のために作ったのに」


 その一言に、胸の奥が小さく跳ねた。


 私のために?


 聞き返す前に、ノエルはふっと笑った。


「あ、そうだ」


 そして、いつものいたずらっぽい顔に戻る。


「僕、今日は休憩したい気分です~。店長も一緒に、ね?」


「……は?」


「ほら、こっち」


 ノエルは私の背中にそっと手を添え、工房の隅にある丸椅子まで誘導した。


 気づけば、私はそこに座らされていた。


「ちょ、ちょっと、ノエルくん!」


「休憩は二人でするものでしょう?」


「そんな決まり、ありません!」


「えー。僕一人で休んだら、店長に怒られちゃうじゃないですか」


「……私が店長なんだけど」


「じゃあ、怒る人がいないから、サボってもいいですね」


「どうしてそうなるの!?」


「あはは。店長、元気になってきた」


 彼は嬉しそうに目を細めた。


「よかった」


 その言葉だけが、いつもの調子とは少し違って聞こえた。


 私は、手の中のマグカップを見つめた。


 白い陶器越しに、じんわりと熱が伝わってくる。


 そっと口をつけると、濃厚なココアの甘みが広がった。舌の上でほろ苦さが溶け、温かさが喉を通って、冷えきっていた身体の奥へと染み込んでいく。


「……おいしい」


 思わず、声が漏れた。


「でしょ?」


 ノエルは満足そうに笑うと、レジの前にしゃがみ込んだ。


 メモを確認しながら、スマートフォンを耳に当てる。


「もしもし。あの、レジの画面が真っ暗になってしまって……。はい、そうです。電源は一度抜いて、差し直しました」


 さっきまで、材料の気分がどうとか言っていた人と同じとは思えない。


 声は落ち着いていて、説明もわかりやすい。


 サポートセンターの相手の話をきちんと聞き、必要な情報を一つずつ伝えている。


 私はカップを両手で包んだまま、その背中を眺めた。


 窓の外では、冷たい風に揺れた街路樹の枝が、ガラス越しにかすかに揺れていた。


 店の中は暖かい。


 甘い香りがして、ココアの湯気が頬をくすぐる。


 さっきまで胸をいっぱいにしていた焦りが、少しずつほどけていった。


 ……どうして、こんなに落ち着くんだろう。


「……ノエルくん」


 電話の声が途切れたタイミングで、私は呼びかけた。


「はい?」


「どうして、私が困ってるってわかったの?」


 ノエルは、スマートフォンを耳に当てたまま、ちらりとこちらを振り返った。


 ヘーゼル色の瞳が、一瞬だけ、まっすぐに私を捉える。


 いつものように笑ってごまかすのかと思った。


 けれど、その一瞬だけ、彼の表情はひどく真剣だった。


 まるで、私が自分でも気づいていないことまで、見抜いているみたいに。


 やがてノエルは、ふっと口元を緩めた。


「甘えるのは、僕の仕事なので」


「……え?」


「店長には、僕のぶんまで休んでもらわないと。バランスが取れないでしょう?」


「……意味がわからないんだけど」


「えー? 僕、こんなに一生懸命働いてるのに?」


「いつも一生懸命なのは認めますけど……」


「じゃあ、もっと褒めてください」


「どうしてそうなるの!」


「あはは。店長、やっといつもの調子に戻りましたね」


 彼はそう言って、また電話の相手に向き直った。


 ずるい。


 こんなときまで、私をからかうなんて。


 でも。


 胸の奥に、ぽっと小さな明かりが灯ったような気がした。


 ノエルは、私が困っていることに気づいてくれた。


 何もできずに焦っている私を、責めなかった。


 ただ、温かいココアを持ってきて、座っていていいと言ってくれた。


 それが、どうしようもなく嬉しかった。


 誰かに頼ってもいいのだと、言われた気がした。


 父がいなくなってから、私はずっと、しっかりしなければと思っていた。


 店長なのだから。


 父のお店を継いだのだから。


 自分が頑張らなければ、誰も代わりにはなってくれないのだから。


 だから、困っても、疲れても、平気なふりをしてきた。


 けれど今、目の前にいる彼は、そんな私の頑張りを否定することなく、ただ少し休むように促してくれた。


 その優しさが、胸に染みた。


 ……この人、ずるいな。


 いつもふざけてばかりなのに。


 こんなときだけ、どうしてこんなに優しいんだろう。


     


 それから十五分ほどして、レジは無事に復旧した。


「店長~。直りましたよ」


 ノエルが、レジの画面を指さして笑った。


「本当に!?」


「はい。履歴も消えてません。よかったですね」


 画面には、見慣れた売上の数字が表示されている。


 私は、ほっと息を吐いた。


「よかった……。本当にありがとう、ノエルくん」


「いえいえ」


 彼は軽く手を振ったあと、にっこりと笑った。


「じゃあ、お礼をください」


「……お礼?」


「トリュフがいいです」


「わかった。一粒ね」


「三粒がいいです」


「ずうずうしい!」


「だめですか?」


 ノエルは、またあの上目遣いをした。


 しかも、今度はわざとらしく、しゅんと眉を下げている。


「僕、店長のために頑張ったのになあ……」


「……二粒」


「やった!」


 途端に、彼の顔がぱっと明るくなった。


 ……本当に、調子がいい。


 私は苦笑しながら、売り場の奥にある小さな箱を取り出した。


 中に入っているのは、ココアパウダーをまぶした丸いトリュフ。


 この店で長く愛されている、定番商品のひとつだ。


 濃厚なガナッシュを丸め、仕上げにココアパウダーをまぶす。表面には、粉雪のように柔らかな茶色の膜ができている。


 ひと口かじれば、ほろ苦い粉の奥から、なめらかなチョコレートがゆっくりと溶け出す。


 派手さはない。


 でも、何度食べても飽きない。


 父はいつも、「シンプルなものほど、ごまかしがきかないんだ」と言っていた。


 私は、父の言葉を思い出しながら、小箱をノエルに差し出した。


「はい。約束の二粒」


「わあ。ありがとうございます、店長」


 ノエルは小箱を受け取ると、トリュフを一粒つまんだ。


「いただきます」


 口に入れた瞬間、彼は目を閉じた。


「……ああ」


 短く、息を漏らす。


 その表情から、いつものいたずらっぽさが消えていた。


 まるで、懐かしいものに触れたような顔だった。


「……どう?」


 私が尋ねると、ノエルはしばらく黙っていた。


 それから、ぽつりと呟いた。



「……変わってない」



「え?」


 彼は、はっと目を開けた。


「あっ、いえ。おいしいって意味です。すごく」


「今、変わってないって言ったよね?」


「言ってません」


「言ったよ!」


「店長、耳がいいですねえ」


「そういう問題じゃなくて!」


 ノエルは困ったように笑いながら、残ったトリュフを小箱に戻した。


 その耳が、ほんの少し赤くなっている。


 ……今のは、聞かれたくなかった言葉なのかもしれない。


 そう思うと、これ以上問い詰めることができなかった。


 代わりに、私は話題を変えた。


「……ところで、トリュフって、作るのは簡単そうに見えるけど、意外と難しいんだよね」


「そうですね。温度や配合で、口どけが全然変わりますから」


 ノエルは、いつもの調子で頷いた。


 そして、私の顔をじっと見つめる。


「でも、店長って、トリュフみたいですね」


「……え?」


「ココアパウダーがふわふわしていて、そばにいるとほっとするところとか」


「そ、それは……」


「でも、中身は、すごく頑固」


「頑固!?」


「うん。割ってみないと、わからないところが」


 ノエルは、いたずらっぽく目を細めた。


「あ、今のはチョコの話ですよ?」


「……今のは、どう聞いても私の話だったでしょう!」


「半分は」


「やっぱり!」


 からかわれた。


 完全に、からかわれた。


 なのに、不思議と腹は立たなかった。


 むしろ、笑ってしまった。


 ノエルは、私が笑ったのを見て、満足そうに頷いた。


「うん。やっぱり、店長は笑ってるほうがいいですね」


「……え?」


「ん? なんですか?」


「今、何か言った?」


「いいえ~?」


 彼は、残りのトリュフを大切そうに小箱へしまった。


 その横顔が、ほんの少しだけ寂しそうに見えたのは、気のせいだったのだろうか。


     


 午後六時半。


 閉店時間を過ぎた商店街には、人通りがほとんどなくなっていた。


 アーケードの奥から吹き込む風が、店先の鉢植えを小さく揺らしている。通りに並ぶ店の明かりも、一軒、また一軒と消えていた。


 私はレジの集計を終え、店の鍵を閉めた。


「……今日も、なんとか終わった」


 小さく息を吐く。


 昼間はレジが壊れてどうなることかと思ったけれど、売上の履歴も無事だったし、お客さんにも迷惑をかけずに済んだ。


 ノエルには、感謝してもしきれない。


 ……まあ、トリュフを二粒も持っていかれたけれど。


「明日は一粒にしよう」


 そう決めて、私は店内の照明を落とした。


 ノエルは、少し前に帰っていた。


「店長~、お先に失礼します。また明日ね」


 いつもどおり軽い調子で手を振って、さっさと帰ってしまったのだ。


 最後まで、つかみどころのない人だった。


 私は一階の工房を確認してから、二階の自室へ上がるつもりだった。


 階段へ向かいかけて、ふと、工房の奥が気になった。


 電気をつける。


 作業台の上には、洗い終わったトレーがきちんと並んでいた。シンクには汚れた道具ひとつ残っていない。


 床も、隅までぴかぴかに拭き上げられている。


「……あれ?」


 私は首を傾げた。


 今日、ここまで掃除をした覚えはない。


 閉店後はレジの集計に追われていたし、工房に戻ったのは戸締まりの確認をするためだけだった。


 ノエルは、私より先に帰ったはずだ。


 それなのに。


 冷凍庫を開けてみると、中の材料もきれいに整理されていた。


 チョコレートの種類ごとに並べられ、容器の向きまで揃っている。


 ただひとつ、奥に置かれた小さな密閉容器だけは、手つかずのままだった。


 私は、その容器をそっと見つめた。


 中に入っているのは、父が最後に作ったチョコレート。


 もう一年近く、食べることも、捨てることもできずにいる。


 大切なものだから。


 父がいなくなったあとも、私の手元に残った、たったひとつの味だから。


「……誰が、やったんだろう」


 呟いてから、すぐに答えが浮かんだ。


 きっと、ノエルだ。


 あの子なら、何も言わずに掃除をして、何もなかったような顔で帰っていきそうだ。


 でも、どうして?


 どうして、そこまでしてくれるのだろう。


 私は、まだ彼のことをほとんど知らない。


 どこで生まれて、どんな暮らしをして、どうしてフランスから帰ってきたのか。


 どうして、この小さなお店を選んだのか。


 何も知らない。


 それなのに、彼は少しずつ、私の日常に入り込んできている。


 朝、工房に響く声。


 隣から覗き込んでくる、いたずらっぽい瞳。


 何気なく差し出される、温かい飲み物。


 そして、誰も見ていないところで、きれいに片づけられた作業台。


 私は、密閉容器に触れないように、そっと冷凍庫の扉を閉めた。


 工房の窓から、街灯の淡い光が差し込んでいる。


 作業台の隅には、ココアパウダーがほんの少し残っていた。茶色い粉が、白い台の上に薄く広がっている。


 それを見ていたら、昼間のノエルの声が、ふいに蘇った。


『甘えるのは、僕の仕事なので』


 私は、思わず小さく笑った。


「……甘えてるのは、どっちなんだろうね」


 いつも私を困らせて、からかって、甘えてくるくせに。


 本当に困ったときには、何も言わずに助けてくれる。


 ずるい。


 そんなことをされたら、少しずつ、頼りたくなってしまうじゃない。


 私はずっと、一人で頑張らなきゃいけないと思っていた。


 けれど、誰かに頼ることは、弱いことじゃないのかもしれない。


 少なくとも、ノエルはそう思わせてくれた。


 私は工房の電気を消し、階段を上り始めた。


 途中で足を止め、暗くなった一階を振り返る。


 もう誰もいないはずなのに、さっきまでそこにノエルがいたような気がした。


 ミルクティー色の髪。


 いたずらっぽい笑顔。


 私のことを「店長」と呼ぶ、甘くて軽い声。


「……考えすぎだよね」


 そう呟いて、私は二階へ上がった。


 明日は、少しだけ早く起きよう。


 ノエルが来る前に、ちゃんと朝ごはんを食べて、温かい飲み物も飲んでおこう。


 それから――。


「……トリュフは、一粒だけだからね」


 誰もいない階段でそう宣言して、私はひとりで笑った。


 明日もきっと、彼は「もう一粒」とおねだりしてくるだろう。


 きっと、またからかわれる。


 きっと、また振り回される。


 それでも。


 明日の朝、あの声が工房に響くのを想像すると、ほんの少しだけ心が弾んだ。


 その夜、私は久しぶりにぐっすりと眠れた。


 まるで、明日が来るのを少しだけ楽しみにしているみたいに。


(つづく) 









お読みいただき、ありがとうございます!


いつもはお調子者のノエルがこぼした「変わってない」という一言と、誰もいない工房に残された静かな優しさ。

少しずつほぐれていく心愛の心と、二人の距離感の変化から目が離せません。


甘くて少し切ない恋の予感漂うふたりの物語、ぜひ次回の展開も楽しみにお待ちください!


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