第2話 ココアのトリュフみたいに、小悪魔〜今日の一粒:ココアパウダーのトリュフ~
ノエルがうちのお店にやってきて、三日が過ぎた。
十一月最後の木曜日。
午前八時半、開店前の商店街には、冬の冷たい空気が漂っていた。
アーケードの屋根から差し込む朝の光は淡く、通りのタイルには夜の冷え込みがまだ残っている。近くのパン屋からは焼きたてのパンの香りが流れてきて、向かいの花屋では、店主のおじさんが白い息を吐きながら鉢植えを並べていた。
そんな商店街の一角にある、チョコレート専門店『Chocolat Fleur de Forêt』。
店内では、開店に向けた準備が始まっていた。
ショーケースには、色とりどりのボンボンショコラ。壁際の棚には、焼き菓子を詰めた小箱が並んでいる。工房の奥では、チョコレートを温める機械が低い音を立て、甘くほろ苦い香りが少しずつ広がっていた。
そして、その工房で。
うちの新人は、今日も絶好調だった。
「店長~。僕、今日はミルクチョコの気分じゃないです」
「気分で材料を選ばないでください」
私は仕込み台でチョコレートを刻みながら、きっぱり答えた。
「じゃあ、ビターの気分です」
「それも気分でしょう」
「えー。だめですか?」
ノエルは私の隣にやってくると、作業台に両手をつき、こちらを覗き込んだ。
「ね、店長。いいでしょ?」
こてん、と首を傾げる。
ミルクティー色の髪がさらりと揺れ、ヘーゼル色の瞳が上目遣いに私を見つめた。
……ずるい。
顔がいいのを自覚している人の仕草だ、これは。
「だ、だめです。レシピどおりに作ってください」
「今、ちょっと迷いましたよね?」
「迷ってません!」
「ほんとかなあ。店長、僕に甘いからなあ」
「誰がですか!」
「あ、照れた」
「照れてません!」
ノエルは、いたずらが成功した子どものように笑った。
悔しいけれど、こういうときの彼は妙にかわいい。
……いやいや、かわいさに騙されてはいけない。
この三日間で、私は身をもって学んでいた。
ノエルは、とにかく気まぐれだ。
突然「今日はこれが食べたい」と言い出すし、休憩の時間になると、私の後ろをひょこひょことついてくる。試作のトリュフを見つければ、「味見も大切な仕事ですよね?」と、ちゃっかり一粒つまんでいく。
しかも、食べ終わったあとには決まってこう言うのだ。
「店長、これ、もう一粒食べてもいいですか?」
「だめです」
「えー。じゃあ、明日もここで働こうかなあ」
「トリュフ目当てで働かないでください!」
「あはは。ばれました?」
こんな調子である。
そのくせ、冗談めかして「飽きたらどうしようかな~」なんて言うものだから、いつ辞めると言い出すのか、気が気ではない。
せっかく来てくれた、大切な新人なのだ。
フランスの有名店で修行した腕前も、仕事に対する真面目さも、本物だと思う。
それなのに、本人はどこまで本気なのか、さっぱりわからない。
「……なんで、仕事だけは完璧なんだろう」
私は、誰にも聞こえないように呟いた。
ノエルが作るガナッシュは、驚くほどなめらかだ。口に含めば、舌の上でほどけるように溶けていく。
チョコレートの温度管理にも一切の妥協がなく、道具の扱いも、作業台の片づけ方も、無駄がない。
接客だって丁寧だった。
初めて来店したお客さんにも自然に笑いかけ、常連さんとはすぐに打ち解けてしまう。
ふざけているようで、仕事の手は止まらない。
そのうえ、昨日は商店街の八百屋のおばさんから、こんなことまで聞かされた。
『あの金髪の子、いい子ねえ。私の荷物、黙って運んでくれたのよ』
金髪じゃなくて、ミルクティー色なんだけど。
……じゃなくて。
『えっ、そうなんですか?』
『そうそう。重い箱をひょいって持ってくれてねえ。お礼を言ったら、かわいい顔で笑うんだもの。あれはモテるわよ』
最後の一言は、聞かなかったことにした。
ノエルは、そんなことを一言も話していない。
ふざけているのか、真面目なのか。
人懐っこいだけなのか、それとも――。
「店長~。手、止まってますよ?」
「わっ!」
いつの間にか、ノエルがすぐ隣から私の顔を覗き込んでいた。
「もしかして、僕のこと考えてました?」
「考えてません!」
「えー、残念。僕は店長のこと、けっこう考えてるのに」
「……っ!」
「あ、また赤くなった」
「なってません!」
「じゃあ、もうちょっと近くで確認してもいいですか?」
「だめです!」
「あはは。店長、ほんとにかわいい」
彼は満足そうに笑うと、何事もなかったように作業台へ戻っていった。
……本当に、扱いにくい新人だ。
私は小さく息を吐き、再び包丁を握った。
カツ、カツ、とチョコレートを刻む音が工房に響く。
窓の外では、商店街を通りかかった人たちが、少しずつ増え始めていた。
いつもと同じ朝。
父がいなくなってから、何度も繰り返してきた朝。
それなのに、ノエルが来てから、工房の空気はずいぶん変わった。
静かだった場所に、笑い声が増えた。
一人で抱えていた仕事を、誰かと分け合えるようになった。
父がいなくなってから、工房でこんなふうに誰かと笑うことは、ほとんどなかった。
そのことに気づくと、胸の奥がほんの少しだけ温かくなった。
……でも、油断は禁物。
この新人に振り回されていたら、仕事が進まなくなってしまう。
「ノエルくん。おしゃべりはそこまで。仕込みを進めますよ」
「はーい。店長って、意外と厳しいんですね」
「意外と、は余計です!」
「でも、そういうところも好きですよ」
「……っ、もう!」
まただ。
この子は、どうして息をするみたいに恥ずかしいことを言うんだろう。
私は赤くなった顔を隠すように、チョコレートへ視線を落とした。
その背後で、ノエルがくすくすと笑っていた。
午後二時過ぎ。
ランチの時間帯を過ぎた商店街は、昼どきの賑わいが少し落ち着いていた。
店の前を通る人影もまばらになり、アーケードの奥から、ときおり自転車のベルが聞こえてくる。
『Chocolat Fleur de Forêt』の店内には、焼き菓子の甘い香りが残っていた。
ショーケースには、午前中に作ったボンボンショコラが整然と並んでいる。窓際の小さなテーブルでは、年配の女性が、贈り物にするチョコレートをゆっくりと選んでいた。
「こちらでしたら、ビターとキャラメルの詰め合わせがおすすめです」
私は笑顔で説明しながら、お客さんの様子を見守った。
「まあ、素敵。じゃあ、それをいただこうかしら」
「ありがとうございます。お包みしますね」
お客さんを見送ると、私はレジの前に立ち、午前中の売上を確認した。
今日も、売上は決して多くない。
けれど、少しずつでもお客さんに来てもらえている。それだけでも、ありがたいことだった。
このお店を続けていくためには、毎日の積み重ねが大切だ。
私は数字を確認しながら、明日の仕込みの量を頭の中で考えていた。
そのときだった。
「……あれ?」
レジの画面が、突然真っ暗になった。
ついさっきまで表示されていた数字が、何も映らなくなっている。
「えっ、うそ。うそうそ。さっきまで動いてたのに……!」
私は慌てて電源ボタンを押した。
反応がない。
もう一度押してみる。
やっぱり、反応がない。
「ちょっと、待って……」
電源コードを抜き、少し待ってから差し直す。
画面が一瞬だけぱっと光ったものの、すぐにまた真っ暗になってしまった。
「あああ……!」
頭の中が、一気に真っ白になった。
私は、昔から機械が苦手だった。
レジも、パソコンも、帳簿のソフトも。
父はそういうものをあまり使わず、そろばんと手書きの帳面で店を切り盛りしていた。
私も、できるだけ父のやり方を受け継いできたつもりだった。
けれど今は、事務手続きの関係で、売上の履歴を電子データで提出しなければならない。
もし、今日の記録が消えてしまったら?
これまでの履歴まで消えていたら?
考えれば考えるほど、不安が膨らんでいく。
「どうしよう……。今日の売上、記録が……」
指先が冷たくなった。
頭の中では、やらなければいけないことが次々に浮かんでは、絡まっていった。
サポートセンターに電話しなきゃ。
でも、番号はどこに置いたっけ。
このままお客さんが来たら、どうやって会計すればいいの?
現金で対応するにしても、お釣りの計算を間違えたら――。
ひとつの問題を考えているはずなのに、頭の中では、関係のない不安まで次々に膨らんでいく。
クリスマスの繁忙期を前に、こんなところでつまずいている場合じゃない。
もっとしっかりしなきゃ。
私が店長なんだから。
私は自分を奮い立たせるように、電源コードを握り直した。
「大丈夫、大丈夫……」
いつもの口癖を繰り返す。
けれど、今日はその言葉が、少しも心に届かなかった。
「店長~?」
工房のほうから、ノエルの声がした。
「どうしたんですか?」
「レジが動かなくて……! 今日の分の履歴が消えたかもしれなくて。えっと、サポートセンターに電話しなきゃ。でも番号はどこだっけ。それに、お客さんが来たら現金で……ああ、どうしよう!」
自分でも何を言っているのかわからない。
それでも、手だけは止められなかった。
もう一度、電源を確認する。
「店長~」
「大丈夫、大丈夫。大丈夫だから。ちょっと待ってね、すぐ直すから」
「店長~?」
「えっと、まずは電源が……」
「……店長」
その声に、私はぴたりと手を止めた。
語尾が、伸びていなかった。
いつもの甘えるような声ではない。
短くて、低くて、静かな声だった。
顔を上げると、ノエルがすぐ隣に立っていた。
片手には、湯気の立つ白いマグカップ。
甘く、ほろ苦い香りが、ふわりと鼻先をくすぐった。
「はい、これ」
「……え?」
「ココアです。ちゃんと、あったかいやつ」
差し出されたカップを、私は反射的に受け取った。
「あの、今、それどころじゃ……」
「店長」
ノエルは、私の顔を覗き込んだ。
「顔、真っ白ですよ」
「え……」
「手も冷たい」
カップを持つ私の指先に、彼の視線が落ちる。
「たぶん、朝から何も飲んでないでしょう?」
言われて、初めて気づいた。
そういえば、朝から一度も水を飲んでいない。
開店準備をして、仕込みをして、お客さんの対応をして。気がつけば、休憩する時間さえ惜しくなっていた。
「でも、レジが……」
「レジは僕が見ます」
「ノエルくん、機械に詳しいの?」
「いいえ。全然」
「……え?」
あまりにもあっさり言われて、私は目を丸くした。
「じゃあ、どうするの?」
「サポートセンターに電話します」
「番号がわからないの!」
「知ってますよ」
「えっ?」
ノエルはレジ横の引き出しを開け、右から二番目の引き出しから、黄ばんだメモを取り出した。
「ほら。前に店長が、ここに入れてましたよね?」
「……そんなところに入れてたんだ」
「はい。店長、忘れっぽいから」
「忘れっぽくありません!」
「ふふ。じゃあ、僕が覚えておきますね」
彼はメモを持ったまま、私に向き直った。
「だから、店長は座っててください」
「でも……」
「でも、じゃありません」
ノエルの声は、優しかった。
それなのに、いつもの軽い調子とは違うせいか、妙に逆らいにくい。
彼は私の手元に視線を落とした。
「ココア、冷めちゃいますよ」
「……あ」
「せっかく店長のために作ったのに」
その一言に、胸の奥が小さく跳ねた。
私のために?
聞き返す前に、ノエルはふっと笑った。
「あ、そうだ」
そして、いつものいたずらっぽい顔に戻る。
「僕、今日は休憩したい気分です~。店長も一緒に、ね?」
「……は?」
「ほら、こっち」
ノエルは私の背中にそっと手を添え、工房の隅にある丸椅子まで誘導した。
気づけば、私はそこに座らされていた。
「ちょ、ちょっと、ノエルくん!」
「休憩は二人でするものでしょう?」
「そんな決まり、ありません!」
「えー。僕一人で休んだら、店長に怒られちゃうじゃないですか」
「……私が店長なんだけど」
「じゃあ、怒る人がいないから、サボってもいいですね」
「どうしてそうなるの!?」
「あはは。店長、元気になってきた」
彼は嬉しそうに目を細めた。
「よかった」
その言葉だけが、いつもの調子とは少し違って聞こえた。
私は、手の中のマグカップを見つめた。
白い陶器越しに、じんわりと熱が伝わってくる。
そっと口をつけると、濃厚なココアの甘みが広がった。舌の上でほろ苦さが溶け、温かさが喉を通って、冷えきっていた身体の奥へと染み込んでいく。
「……おいしい」
思わず、声が漏れた。
「でしょ?」
ノエルは満足そうに笑うと、レジの前にしゃがみ込んだ。
メモを確認しながら、スマートフォンを耳に当てる。
「もしもし。あの、レジの画面が真っ暗になってしまって……。はい、そうです。電源は一度抜いて、差し直しました」
さっきまで、材料の気分がどうとか言っていた人と同じとは思えない。
声は落ち着いていて、説明もわかりやすい。
サポートセンターの相手の話をきちんと聞き、必要な情報を一つずつ伝えている。
私はカップを両手で包んだまま、その背中を眺めた。
窓の外では、冷たい風に揺れた街路樹の枝が、ガラス越しにかすかに揺れていた。
店の中は暖かい。
甘い香りがして、ココアの湯気が頬をくすぐる。
さっきまで胸をいっぱいにしていた焦りが、少しずつほどけていった。
……どうして、こんなに落ち着くんだろう。
「……ノエルくん」
電話の声が途切れたタイミングで、私は呼びかけた。
「はい?」
「どうして、私が困ってるってわかったの?」
ノエルは、スマートフォンを耳に当てたまま、ちらりとこちらを振り返った。
ヘーゼル色の瞳が、一瞬だけ、まっすぐに私を捉える。
いつものように笑ってごまかすのかと思った。
けれど、その一瞬だけ、彼の表情はひどく真剣だった。
まるで、私が自分でも気づいていないことまで、見抜いているみたいに。
やがてノエルは、ふっと口元を緩めた。
「甘えるのは、僕の仕事なので」
「……え?」
「店長には、僕のぶんまで休んでもらわないと。バランスが取れないでしょう?」
「……意味がわからないんだけど」
「えー? 僕、こんなに一生懸命働いてるのに?」
「いつも一生懸命なのは認めますけど……」
「じゃあ、もっと褒めてください」
「どうしてそうなるの!」
「あはは。店長、やっといつもの調子に戻りましたね」
彼はそう言って、また電話の相手に向き直った。
ずるい。
こんなときまで、私をからかうなんて。
でも。
胸の奥に、ぽっと小さな明かりが灯ったような気がした。
ノエルは、私が困っていることに気づいてくれた。
何もできずに焦っている私を、責めなかった。
ただ、温かいココアを持ってきて、座っていていいと言ってくれた。
それが、どうしようもなく嬉しかった。
誰かに頼ってもいいのだと、言われた気がした。
父がいなくなってから、私はずっと、しっかりしなければと思っていた。
店長なのだから。
父のお店を継いだのだから。
自分が頑張らなければ、誰も代わりにはなってくれないのだから。
だから、困っても、疲れても、平気なふりをしてきた。
けれど今、目の前にいる彼は、そんな私の頑張りを否定することなく、ただ少し休むように促してくれた。
その優しさが、胸に染みた。
……この人、ずるいな。
いつもふざけてばかりなのに。
こんなときだけ、どうしてこんなに優しいんだろう。
それから十五分ほどして、レジは無事に復旧した。
「店長~。直りましたよ」
ノエルが、レジの画面を指さして笑った。
「本当に!?」
「はい。履歴も消えてません。よかったですね」
画面には、見慣れた売上の数字が表示されている。
私は、ほっと息を吐いた。
「よかった……。本当にありがとう、ノエルくん」
「いえいえ」
彼は軽く手を振ったあと、にっこりと笑った。
「じゃあ、お礼をください」
「……お礼?」
「トリュフがいいです」
「わかった。一粒ね」
「三粒がいいです」
「ずうずうしい!」
「だめですか?」
ノエルは、またあの上目遣いをした。
しかも、今度はわざとらしく、しゅんと眉を下げている。
「僕、店長のために頑張ったのになあ……」
「……二粒」
「やった!」
途端に、彼の顔がぱっと明るくなった。
……本当に、調子がいい。
私は苦笑しながら、売り場の奥にある小さな箱を取り出した。
中に入っているのは、ココアパウダーをまぶした丸いトリュフ。
この店で長く愛されている、定番商品のひとつだ。
濃厚なガナッシュを丸め、仕上げにココアパウダーをまぶす。表面には、粉雪のように柔らかな茶色の膜ができている。
ひと口かじれば、ほろ苦い粉の奥から、なめらかなチョコレートがゆっくりと溶け出す。
派手さはない。
でも、何度食べても飽きない。
父はいつも、「シンプルなものほど、ごまかしがきかないんだ」と言っていた。
私は、父の言葉を思い出しながら、小箱をノエルに差し出した。
「はい。約束の二粒」
「わあ。ありがとうございます、店長」
ノエルは小箱を受け取ると、トリュフを一粒つまんだ。
「いただきます」
口に入れた瞬間、彼は目を閉じた。
「……ああ」
短く、息を漏らす。
その表情から、いつものいたずらっぽさが消えていた。
まるで、懐かしいものに触れたような顔だった。
「……どう?」
私が尋ねると、ノエルはしばらく黙っていた。
それから、ぽつりと呟いた。
「……変わってない」
「え?」
彼は、はっと目を開けた。
「あっ、いえ。おいしいって意味です。すごく」
「今、変わってないって言ったよね?」
「言ってません」
「言ったよ!」
「店長、耳がいいですねえ」
「そういう問題じゃなくて!」
ノエルは困ったように笑いながら、残ったトリュフを小箱に戻した。
その耳が、ほんの少し赤くなっている。
……今のは、聞かれたくなかった言葉なのかもしれない。
そう思うと、これ以上問い詰めることができなかった。
代わりに、私は話題を変えた。
「……ところで、トリュフって、作るのは簡単そうに見えるけど、意外と難しいんだよね」
「そうですね。温度や配合で、口どけが全然変わりますから」
ノエルは、いつもの調子で頷いた。
そして、私の顔をじっと見つめる。
「でも、店長って、トリュフみたいですね」
「……え?」
「ココアパウダーがふわふわしていて、そばにいるとほっとするところとか」
「そ、それは……」
「でも、中身は、すごく頑固」
「頑固!?」
「うん。割ってみないと、わからないところが」
ノエルは、いたずらっぽく目を細めた。
「あ、今のはチョコの話ですよ?」
「……今のは、どう聞いても私の話だったでしょう!」
「半分は」
「やっぱり!」
からかわれた。
完全に、からかわれた。
なのに、不思議と腹は立たなかった。
むしろ、笑ってしまった。
ノエルは、私が笑ったのを見て、満足そうに頷いた。
「うん。やっぱり、店長は笑ってるほうがいいですね」
「……え?」
「ん? なんですか?」
「今、何か言った?」
「いいえ~?」
彼は、残りのトリュフを大切そうに小箱へしまった。
その横顔が、ほんの少しだけ寂しそうに見えたのは、気のせいだったのだろうか。
午後六時半。
閉店時間を過ぎた商店街には、人通りがほとんどなくなっていた。
アーケードの奥から吹き込む風が、店先の鉢植えを小さく揺らしている。通りに並ぶ店の明かりも、一軒、また一軒と消えていた。
私はレジの集計を終え、店の鍵を閉めた。
「……今日も、なんとか終わった」
小さく息を吐く。
昼間はレジが壊れてどうなることかと思ったけれど、売上の履歴も無事だったし、お客さんにも迷惑をかけずに済んだ。
ノエルには、感謝してもしきれない。
……まあ、トリュフを二粒も持っていかれたけれど。
「明日は一粒にしよう」
そう決めて、私は店内の照明を落とした。
ノエルは、少し前に帰っていた。
「店長~、お先に失礼します。また明日ね」
いつもどおり軽い調子で手を振って、さっさと帰ってしまったのだ。
最後まで、つかみどころのない人だった。
私は一階の工房を確認してから、二階の自室へ上がるつもりだった。
階段へ向かいかけて、ふと、工房の奥が気になった。
電気をつける。
作業台の上には、洗い終わったトレーがきちんと並んでいた。シンクには汚れた道具ひとつ残っていない。
床も、隅までぴかぴかに拭き上げられている。
「……あれ?」
私は首を傾げた。
今日、ここまで掃除をした覚えはない。
閉店後はレジの集計に追われていたし、工房に戻ったのは戸締まりの確認をするためだけだった。
ノエルは、私より先に帰ったはずだ。
それなのに。
冷凍庫を開けてみると、中の材料もきれいに整理されていた。
チョコレートの種類ごとに並べられ、容器の向きまで揃っている。
ただひとつ、奥に置かれた小さな密閉容器だけは、手つかずのままだった。
私は、その容器をそっと見つめた。
中に入っているのは、父が最後に作ったチョコレート。
もう一年近く、食べることも、捨てることもできずにいる。
大切なものだから。
父がいなくなったあとも、私の手元に残った、たったひとつの味だから。
「……誰が、やったんだろう」
呟いてから、すぐに答えが浮かんだ。
きっと、ノエルだ。
あの子なら、何も言わずに掃除をして、何もなかったような顔で帰っていきそうだ。
でも、どうして?
どうして、そこまでしてくれるのだろう。
私は、まだ彼のことをほとんど知らない。
どこで生まれて、どんな暮らしをして、どうしてフランスから帰ってきたのか。
どうして、この小さなお店を選んだのか。
何も知らない。
それなのに、彼は少しずつ、私の日常に入り込んできている。
朝、工房に響く声。
隣から覗き込んでくる、いたずらっぽい瞳。
何気なく差し出される、温かい飲み物。
そして、誰も見ていないところで、きれいに片づけられた作業台。
私は、密閉容器に触れないように、そっと冷凍庫の扉を閉めた。
工房の窓から、街灯の淡い光が差し込んでいる。
作業台の隅には、ココアパウダーがほんの少し残っていた。茶色い粉が、白い台の上に薄く広がっている。
それを見ていたら、昼間のノエルの声が、ふいに蘇った。
『甘えるのは、僕の仕事なので』
私は、思わず小さく笑った。
「……甘えてるのは、どっちなんだろうね」
いつも私を困らせて、からかって、甘えてくるくせに。
本当に困ったときには、何も言わずに助けてくれる。
ずるい。
そんなことをされたら、少しずつ、頼りたくなってしまうじゃない。
私はずっと、一人で頑張らなきゃいけないと思っていた。
けれど、誰かに頼ることは、弱いことじゃないのかもしれない。
少なくとも、ノエルはそう思わせてくれた。
私は工房の電気を消し、階段を上り始めた。
途中で足を止め、暗くなった一階を振り返る。
もう誰もいないはずなのに、さっきまでそこにノエルがいたような気がした。
ミルクティー色の髪。
いたずらっぽい笑顔。
私のことを「店長」と呼ぶ、甘くて軽い声。
「……考えすぎだよね」
そう呟いて、私は二階へ上がった。
明日は、少しだけ早く起きよう。
ノエルが来る前に、ちゃんと朝ごはんを食べて、温かい飲み物も飲んでおこう。
それから――。
「……トリュフは、一粒だけだからね」
誰もいない階段でそう宣言して、私はひとりで笑った。
明日もきっと、彼は「もう一粒」とおねだりしてくるだろう。
きっと、またからかわれる。
きっと、また振り回される。
それでも。
明日の朝、あの声が工房に響くのを想像すると、ほんの少しだけ心が弾んだ。
その夜、私は久しぶりにぐっすりと眠れた。
まるで、明日が来るのを少しだけ楽しみにしているみたいに。
(つづく)
お読みいただき、ありがとうございます!
いつもはお調子者のノエルがこぼした「変わってない」という一言と、誰もいない工房に残された静かな優しさ。
少しずつほぐれていく心愛の心と、二人の距離感の変化から目が離せません。
甘くて少し切ない恋の予感漂うふたりの物語、ぜひ次回の展開も楽しみにお待ちください!




