↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
商店街のチョコ屋の強がりな二代目店長は、年下ハーフの小悪魔ショコラティエにわがままのふりで甘やかされています  作者: ひとひら


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/3

第3話 一枚板の艶の前で、聞こえてないふりをした~今日の一粒:テンパリングしたての一枚板~


 

 チョコレートには、機嫌がある。


少なくとも、私はそう信じている。


「いい子、いい子。そう、そのまま。焦らなくていいからね」


閉店後の工房には、私の小さな声と、換気扇が低く回る音だけが響いていた。


午後七時を過ぎ、表通りを行き交う人の姿も少なくなっている。店先の看板は営業終了の札に変え、ショーケースの照明も落とした。さっきまでお客様を迎えていた店内には、もう誰の話し声もない。


けれど、工房だけは別だった。


天井の照明に照らされたステンレスの作業台には、湯せん用のボウルと温度計、ゴムベラが並んでいる。その中央には、溶かしたチョコレートが入った大きなボウル。


甘くほろ苦いカカオの香りが、温かな空気と一緒に工房いっぱいに広がっていた。


私は作業台の前に立ち、ゴムベラでチョコレートをゆっくりと混ぜていた。


テンパリング。


チョコレートをいったん溶かし、温度を下げて結晶を整え、再び適温に調整する作業だ。


これがうまくいけば、表面に美しい艶が生まれ、口どけもなめらかになる。反対に、温度管理を少しでも間違えると、白っぽくなったり、きれいに固まらなかったりする。


ショコラティエにとって、基本であり、腕の見せどころ。


そして、私にとっては――いちばんの苦手分野だった。


「今日は機嫌がいいね。うん、いい感じ。……あと、ほんの少し」


温度計は二十九度を指している。


目標の温度まで、あと〇・五度。


私は息を詰め、ゴムベラを慎重に動かした。


焦っちゃ駄目。


ゆっくり、丁寧に。


頭ではわかっている。何度も練習してきたのだから、手順だって覚えている。


それなのに、温度計の数字を見つめていると、どうしても緊張してしまう。


父は、こんな作業もいつも楽しそうにこなしていた。


私が隣で失敗して落ち込んでいても、父は決して急かさなかった。


――大丈夫。チョコレートの声を、よく聞いてごらん。


そんなふうに笑っていた父の顔が、ふと脳裏をよぎる。


私は小さく首を振り、目の前のチョコレートに意識を戻した。


今は、目の前のことに集中しよう。


そう思った、そのとき。


背後で、かたん、と小さな音がした。


「……っ!」


驚いて、手が止まる。


振り返ると、工房の入り口にノエルが立っていた。両手には、洗い終わったボウルや調理器具を載せたトレーを抱えている。


「あ、店長~。お疲れさまです。洗い物、持ってきました」


「い、いつからそこにいたの?」


「え? 今来たところですけど」


ノエルは不思議そうに首を傾げた。


ミルクティー色の髪を軽く結び、袖をまくった姿は、いつもの彼と変わらない。


けれど、私のほうはそうもいかなかった。


まさか、今の独り言を聞かれたのでは……。


「どうかしました? なんだか、悪いことをしていた人みたいな顔ですよ?」


「し、してないよ!」


「ふうん?」


ヘーゼル色の瞳が、私の顔から作業台へと移る。


「何か言ってました?」


「な、何も!」


「独り言とか?」


「言ってない! 全然!」


「そうですか~」


ノエルは、にこにこと笑いながら流し台へ向かった。


……聞かれていない。


たぶん。


私はほっと息を吐き、再びチョコレートに向き直った。


その背中に、小さな声が落ちてくる。


「……いい子、いい子」


「えっ?」


思わず振り返った。


ノエルは、何食わぬ顔で蛇口をひねっている。


「今、何か言わなかった?」


「え? 何も?」


「でも、確かに……」


「店長、疲れてるんじゃないですか? チョコレートに話しかけすぎて、幻聴が聞こえるようになっちゃったとか」


「そんなわけないでしょう!」


「あはは。冗談です」


ノエルの肩が、かすかに揺れている。


……絶対に聞いていた。


私はゴムベラを握り直した。


「ノエルくん。さっきの、聞こえてたの?」


「さっきの?」


「『いい子、いい子』って……」


「ええ~?」


ノエルはわざとらしく目を丸くした。


「僕、何も聞いてないですよ?」


「じゃあ、どうして今、真似したの!?」


「え? 真似なんてしてませんけど」


「してたでしょう!」


「店長がチョコレートに話しかける姿、かわいいなあって思っただけです」


「それを聞こえてるって言うの!」


私は思わず両手で顔を覆った。


頬が熱い。


恥ずかしすぎる。よりによって、ノエルに聞かれていたなんて。


「うう……。父がそうしていたの。小さい頃からずっと見ていたから、いつの間にか癖になって……」


「お父さんが?」


ノエルの声から、からかう響きが消えた。


「うん。父はいつも、『チョコにも機嫌がある』って言っていたの。だから、人と同じように優しく話しかけなさいって」


言葉にした途端、胸の奥がちくりと痛んだ。


父のことを、こんなふうに誰かに話したのは久しぶりだった。


私は作業台に目を落とした。


磨き上げられたステンレスの表面に、工房の照明がぼんやりと映っている。


ここには、父と一緒に立っていた頃の記憶が、今もあちこちに残っている。


道具の置き場所も、作業台の小さな傷も、棚の奥にしまった古いレシピノートも。


何も変わっていないように見えるのに、父だけがいない。


「……変だよね。いい大人なのに、いまだにそんなことしてるなんて」


「変じゃないですよ」


思いがけず、すぐに返事があった。


顔を上げると、ノエルがこちらを見ていた。


「素敵なお父さんですね」


「……うん」


「だから、このお店のチョコ、おいしいんだ」


いつもの軽い調子ではなかった。


まっすぐで、静かな声だった。


その言葉が嬉しくて、でも少し寂しくて、私はうまく笑えなかった。


父のことを褒めてもらえるのは嬉しい。


けれど、もう本人に伝えることはできない。


そんな当たり前の事実が、ふいに胸を締めつけた。


すると、ノエルはふっと表情を緩めた。


「あ、店長。そろそろ温度、見たほうがいいですよ~。チョコの機嫌、直りすぎちゃいます」


「えっ、あっ!」


慌てて温度計を確認する。


三十一度。


「うわあああ! 上がりすぎてる!」


「ほんとだ。あらら」


「『あらら』じゃないよ~!」


「あはは。店長、今の声、チョコよりびっくりしてましたね」


「ノエルくん!」


「はい、店長」


彼は楽しそうに笑った。


私は深く息を吐き、ボウルを作業台の中央へ移した。


また、やり直しだ。


テンパリングは、焦れば焦るほど失敗する。


頭ではわかっているのに、いざ作業を始めると、どうしても温度計の数字が気になってしまう。


疲れている日や、心に余裕がない日は特にうまくいかない。


「……ごめんね。もう一回やろうね」


私はチョコレートに向かって呟き、温度を調整しようとした。


そのとき、自分の右手が小さく震えていることに気づいた。


あれ?


ゴムベラを持つ指先に、うまく力が入らない。


朝からずっと立ちっぱなしだった。昼食も食べそびれている。


疲れているだけ。


そう思って、震える手を隠そうとした。


けれど、その前に。


背後から、そっと手が重なった。


「……ノエルくん?」


「店長。そのまま」


耳元で、静かな声がした。


背中に、ふわりと人の体温を感じる。


ノエルは私のすぐ後ろに立ち、ゴムベラを握る私の右手を、上から包み込んでいた。


彼の手は、私の手よりひとまわり大きい。長い指が、私の指の上にそっと重なっている。


少しだけ、ひんやりしていた。


「力、入りすぎです」


「え……?」


「ほら。手首まで固くなってる」


ノエルの指が、私の手の甲に軽く触れた。


「もっと、ゆるく。ゴムベラは、チョコを無理やり動かすんじゃなくて、チョコと一緒に動くんです」


囁くような声が、すぐそばから聞こえる。


近い。


思った以上に、近い。


いつもは作業に集中していれば、彼の言葉を軽く受け流せるのに。


今は、背中に伝わる体温や、手の甲に触れる指先が気になって仕方がない。


チョコレートとは別の理由で、心臓が落ち着かなくなっていた。


「ほら、こう」


ノエルが、私の手をゆっくりと導いた。


ゴムベラがボウルの底に沿って動く。チョコレートの表面に、なめらかな波紋が広がった。


「温度は、数字だけじゃなくて、手でも感じるんです。ここ。少しずつ重くなってくるでしょう?」


「……うん」


「焦らないで。待つんです。チョコが準備できるのを」


その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に、懐かしい声が蘇った。


――温度は焦らず、待つんだよ。


小さな私が、背伸びをして作業台を覗き込んでいる。


隣には、大きな父の手。


ごつごつした指が、小さな私の手をすっぽりと包み込んでいた。


『ココア。チョコはね、急かしちゃいけないんだ』


『どうして?』


『人と同じさ。急かされると、いい顔をしてくれなくなる。待ってあげれば、ちゃんと艶を出して、笑ってくれる』


父の声。


父の手の温かさ。


あの頃の工房に満ちていた、甘いチョコレートの香り。


胸が、きゅっと痛くなった。


私は、こぼれそうになった感情を押し戻すように、何度か瞬きをした。


「……店長?」


「あ、ごめん。大丈夫」


「手、止まってますよ」


「うん。ちょっと、思い出してた」


「お父さんのこと?」


「……うん」


「そっか」


ノエルは、それ以上何も聞かなかった。


ただ、重ねた手を離さず、そのまま一緒にゴムベラを動かし続けてくれた。


無理に励まさない。


慰めの言葉を探そうともしない。


今は、ただ隣にいてくれる。


そのことが、何よりもありがたかった。


私はもう一度、チョコレートに目を落とした。


艶のある表面が、ゴムベラの動きに合わせて静かに揺れている。


父と一緒に作業していた頃も、こんなふうに、手を添えてもらったことがあった。


あのときの温もりを、今でも覚えている。


そして今、私の手を包んでいるのは、父とは違う大きな手だった。


不思議な感覚だった。


懐かしさと、少しの寂しさ。


それから、胸の奥をくすぐるような、まだ名前のつけられない気持ち。


けれど。


ふと、手のひらに伝わる感触が気になった。


私の手を包んでいるノエルの指先が、ほんの少し震えている。


「……ノエルくん?」


「はい?」


「手、震えてない?」


「えっ」


声が、見事に裏返った。


「ふ、震えてないです」


「でも、確かに……」


「気のせいです。工房が寒いんですよ」


「ストーブ、ついてるけど」


「……僕、ストーブの反対側にいるので」


「今、私の真後ろにいるよね?」


「そ、それは……」


ノエルは言葉に詰まった。


いつもなら、すぐに冗談で返してくるのに。


私は思わず、くすっと笑ってしまった。


「ふふっ」


「……なんですか」


「ううん。ノエルくんでも、緊張することがあるんだなって」


「緊張?」


「うん。いつも余裕そうだから」


そう言うと、ノエルは黙り込んだ。


工房には、換気扇の音と、ゴムベラがボウルに触れる小さな音だけが響いている。


やがて彼は、私の耳元で、ぽつりと呟いた。


「Mince……」


「え?」


「……あっ」


ノエルの動きが止まった。


「今の、聞こえました?」


「うん。ミンス……?」


「聞こえてないです」


「え?」


「聞こえてないって言ってください、店長」


振り向こうとすると、彼は慌てたように声を上げた。


「ちょ、ちょっと! 今はチョコに集中してください!」


「ノエルくん、顔が赤いよ?」


「工房が暑いんです!」


「ストーブの反対側なのに?」


「……店長!」


いつもの甘えた声。


けれど、耳まで赤くなっているのが横目に見えた。


私は、また笑ってしまった。


この人にも、こんな顔があるんだ。


いつも私をからかって、余裕たっぷりに笑っているのに。


私の手を握ったまま、こんなにも落ち着かなくなっている。


そう思うと、胸の奥がくすぐったくなった。


「……ねえ、ノエルくん」


「今度は何ですか?」


「もう少し、このままでいてもいい?」


口にしてから、しまったと思った。


ノエルの手が、ぴたりと止まった。


「……店長」


「え?」


「それ、反則です」


「は、反則?」


「……そういうこと、無自覚に言わないでください」


さっきまでの甘い声とは違う、少しだけ掠れた声だった。


彼の指先が、私の手をほんの少し強く包み込む。


その意味を考えるより先に、ノエルは小さく息を吐いた。


「……ほら。温度、確認しましょう」


いつもの調子に戻った彼に導かれ、私は慌てて温度計を見た。


数字は、ゆっくりと目標に近づいていた。




それからしばらくして。


「そろそろ、試してみましょうか」


ノエルは小さなナイフの先にチョコレートをすくい、作業台の端に、ちょんと置いた。


そのまま、二人で数分待つ。


工房の窓の外は、すっかり暗くなっていた。


ガラスには、天井の照明と私たちの姿がぼんやり映っている。


店内の暖房はすでに弱めていたけれど、工房にはチョコレートを扱うための温かな空気が残っていた。


私は作業台の端に置いたチョコレートを、じっと見つめた。


うまくいっているだろうか。


また失敗していたら、どうしよう。


そんな不安が頭をよぎる。


けれど、すぐ隣にはノエルがいた。


彼は何も言わず、私と同じようにチョコレートを見守っている。


やがて、ナイフの先のチョコレートが固まった。


表面は鏡のようになめらかで、光を受けてきらりと輝いている。


私は恐る恐る、指先でそっと触れた。


ぱきん。


小気味よい音が、工房に響いた。


「……できた」


思わず、声が漏れた。


「できましたね」


隣で、ノエルが笑った。


「本当にできた……。こんなにきれいなの、初めて」


何度も失敗してきた。


艶が出なかったり、固まらなかったり。やり直すたびに、自分の腕に自信が持てなくなっていた。


それなのに、今は。


目の前に、こんなにも美しいチョコレートがある。


照明を受けた表面には、曇りひとつない。


指先で軽く触れただけでも、きちんと固まっていることがわかった。


嬉しかった。


ただ成功したというだけではない。


自分ひとりではうまくいかなかったことを、誰かと一緒に乗り越えられた。


そのことが、思っていた以上に嬉しかった。


「店長の手が、ちゃんと覚えていたんですよ」


ノエルは優しく言った。


「僕は、ちょっと手伝っただけです」


「でも、ノエルくんが教えてくれたから……」


「じゃあ、僕のおかげってことにしておきます?」


「えっ?」


「その代わり、ご褒美がほしいです」


いつものいたずらっぽい笑顔が戻ってきた。


「……ご褒美?」


「はい。店長から、いっぱい褒めてもらうとか」


「もう、十分褒めたでしょう?」


「足りません」


「ずうずうしい……」


「だって、僕、店長のことが大好きなので」


「……っ!」


あまりにも自然に言われて、私は息を呑んだ。


ノエルは、私の顔を覗き込む。


「……あれ? 店長、今、息止めました?」


「止めてません!」


「ふうん。じゃあ、もう一回言ってもいいですか?」


「言わなくていいです!」


「あはは。残念」


彼は笑いながら、ようやく私の手を離した。


重なっていた手のぬくもりが消える。


その瞬間、ほんの少しだけ、名残惜しいと思ってしまった。


……何を考えているんだろう、私は。


「店長」


「えっ、あ、はい」


ノエルは完成したチョコレートを見つめてから、こちらに向き直った。


「Bravo」


「ぶ、ブラボー?」


「すごくよくできました、って意味です」


彼はにっこり笑った。


それから、私の顔を覗き込むようにして、もう一言。


「Mon chou」


「……え?」


「モン・シュー。今日、すごく頑張った店長へのご褒美です」


「モンシュー……?」


「はい。覚えておいてくださいね」


ノエルは満足そうに笑うと、くるりと背を向けて流し台へ向かった。


「さて、片づけましょうか。店長、今日はもう無理しちゃだめですよ?」


「……う、うん」


返事をしながら、私はぼんやりと彼の背中を見つめていた。


今の言葉は、何だったんだろう。


フランス語なのはわかる。


でも、どういう意味なのか、さっぱりわからない。


ノエルは蛇口をひねり、何事もなかったように洗い物を始めていた。


その横顔は、いつもどおり涼しげだ。


……絶対、何か企んでいる。




その夜。


二階の自室に戻った私は、ベッドに腰を下ろし、スマートフォンを手に取った。


一階の店はすっかり静まり返っている。


窓の外では、冷たい夜風が吹いているらしく、ときおり木の葉がこすれる音が聞こえた。


けれど、私の頭の中は、ちっとも静かではなかった。


何度も思い出すのは、ノエルが最後に言った言葉。


『Mon chou』


「……モン・シュー」


検索窓に打ち込み、表示されたページを開く。


そこには、こんな説明が載っていた。


Mon chou(モン・シュー)。


直訳すると「私のキャベツ」。


フランス語で、恋人や家族など、親しい相手に使う愛称。日本語なら「かわいい人」「愛しい人」に近い意味合いで使われることがある。


「…………え?」


私は、画面を見つめたまま固まった。


愛しい人。


かわいい人。


……え、ちょっと待って。


「う、うそ……!」


顔が、一気に熱くなった。


私はスマートフォンを握りしめたまま、ベッドに倒れ込んだ。


「冗談でしょ。からかってるだけ。ノエルくん、きっと誰にでも言うんだ。フランスでは普通のことなんだ。そう、そうに決まってる……!」


誰に言い聞かせているのか、自分でもわからない。


私は枕に顔を埋めた。


思い出すのは、重なった手の感触。


背中に伝わった体温。


耳元で聞こえた、静かな声。


それから、あの赤くなった横顔。


いつも余裕たっぷりに私をからかうノエルが、あんなふうに緊張するなんて。


……もしかして。


いやいや、まさか。


考えかけて、慌てて頭を振った。


期待して、違ったら恥ずかしい。


そもそも、ノエルが何を考えているのか、まだ何もわからないのだから。


私はスマートフォンを枕の下に押し込み、無理やり目を閉じた。


眠れる気がしなかった。


目を閉じると、今日の工房の光景が浮かんでくる。


チョコレートの艶。


ゴムベラを動かす私の手。


その上から重ねられた、ノエルの手。


父との思い出を話したとき、彼が何も聞かずに隣にいてくれたこと。


思い返すたび、胸の奥がじんわりと温かくなった。


それでも、不思議なことに。


今日、ノエルに手を重ねられたことを、嫌だとは一度も思わなかった。


むしろ。


もう一度、あの手のぬくもりを感じたいと思ってしまった。




翌朝。


私はいつもより少し早く目を覚ました。


カーテンの隙間から差し込む朝の光は淡く、窓の向こうの空気は冷たそうに見えた。


顔を洗って身支度を整え、一階の店へ下りる。


階段を下りるにつれて、ひんやりとした空気と、昨日の夜に残ったカカオの香りが混ざり合っていく。


店内の照明をつけると、ショーケースのガラスが朝の光を反射した。


まだ商品を並べる前の店内は、いつもより広く、少しだけ寂しく感じられた。


私はエプロンを身につけ、工房の準備を始めようとした。


そのとき、ふと棚の隅に目が留まった。


古い一冊のノート。


茶色い革の表紙は角がすり切れ、背表紙には手書きの文字が薄く残っている。


Chocolat Fleur de Forêt。


父のレシピノートだった。


「……お父さん」


最後に開いたのは、いつだっただろう。


私はノートをそっと手に取り、表紙を撫でた。


中には、父が長年書きためたレシピが詰まっている。


チョコレートの配合。


温度の記録。


試作の結果。


そして、ときどき挟まれている、何気ないメモ。


読みたい。


でも、まだ少し怖い。


ページを開けば、父がいなくなったことを、また思い知らされるような気がした。


父の文字を見れば、声まで思い出してしまうかもしれない。


そうしたら、今日もいつもどおりに店を開けられる自信がなかった。


私はノートを胸元に抱き寄せ、しばらく黙っていた。


朝の静かな店内に、冷蔵庫の低い運転音が響いている。


やがて、そっと元の場所へ戻した。


「……今日は、まだ読めない」


でも、いつか。


ちゃんと向き合える日が来るかもしれない。


昨日、ノエルと一緒にチョコレートを作ったときのことを思い出す。


父の教えは、ちゃんと私の手に残っていた。


ひとりではうまくできないと思っていたことも、誰かと一緒なら、もう一度できるのかもしれない。


そんな気がして、私はエプロンの紐を結び直した。


「おはようございます、店長~!」


階段の下から、明るい声が響いた。


振り向くと、ノエルがいつもの笑顔で立っていた。


ミルクティー色の髪を軽くひとつに結び、袖をまくった腕には、朝の冷たい空気の名残がある。


昨日、私の手を包んでくれた、あの手。


その姿を見た途端、昨夜の出来事が一気に頭の中によみがえった。


……モン・シュー。


愛しい人。


かわいい人。


だめ。思い出しちゃ駄目。


「おはよう、ノエルくん」


どうにか平静を装って返事をした。


「……あれ?」


ノエルは、私の顔を覗き込んだ。


「店長、顔が赤いですよ?」


「な、なんでもない!」


「風邪ですか? 熱、測ります?」


「大丈夫!」


「じゃあ、僕が確かめてあげましょうか?」


そう言って、彼が一歩近づいてくる。


「えっ、ちょっと……!」


「昨日は、あんなに素直だったのに」


「き、昨日のことは忘れて!」


「えー。僕、忘れたくないですけど」


ノエルは、楽しそうに笑った。


そして、私にだけ聞こえるような小さな声で、そっと囁いた。


「……Mon chou」


「……っ!」


私は、思わず作業台に手をついた。


「い、今、何か言った?」


「え? 何も?」


「絶対に言ったでしょう!」


「聞こえてないんじゃなかったんですか?」


「ううっ……!」


ノエルは、とうとう堪えきれずに笑い出した。


「あはは。店長、ほんとにかわいい」


「ノエルくん!」


「はい、店長」


彼は、いたずらっぽく片目を細めた。


「今日も、いっぱい僕のことを意識してくださいね?」


「し、しません!」


「じゃあ、明日はもっと頑張ります」


「何を!?」


「それは、ひみつです」


そう言って、ノエルは工房へ歩いていった。


私は、その背中を見送りながら、熱くなった頬を両手で押さえた。


……本当に、ずるい。


甘い言葉でからかって、私が照れるのを楽しんで。


それなのに、ときどき、誰よりも優しい。


父の思い出を大切にしてくれて、私が困っているときには、何も言わずに手を差し伸べてくれる。


ノエルが何を考えているのか、まだわからない。


あのフランス語が、どんな気持ちから出てきた言葉なのかも。


けれど、彼が来てから、この店で過ごす時間は少しずつ変わり始めていた。


ひとりで立っていた工房に、誰かの声が響く。


失敗しても、もう一度やってみようと思える。


そして朝、彼の姿を見るだけで、胸がそわそわしてしまう。


そんな自分に戸惑いながらも、私は小さく息を吐いた。


窓から差し込む朝の光が、作業台の上を明るく照らしている。


今日も一日が始まる。


チョコレートの機嫌をうかがいながら、少しずつ、丁寧に。


そして――。


「店長~。今日の仕込み、何から始めます?」


工房から顔を出したノエルが、私に笑いかけた。


「……テンパリングからよ!」


「了解です。じゃあ、今日も僕が手伝いますね」


「う、うん……」


彼の笑顔を見ていると、また頬が熱くなりそうだった。


私は慌てて作業台へ向き直った。


……チョコレートには、機嫌がある。


そして、どうやら私の心にも。


少しずつ、甘くて厄介な変化が訪れているらしい。




(つづく)






お読みいただき、ありがとうございます!


「Mon chou(モン・シュー)」——愛しい人。

ノエルが背中からそっと重ねてくれた手の温もりと、不意に囁かれた甘いフランス語の言葉。

心愛が背負ってきた痛みが、彼の優しさによって少しずつ溶かされていきます。


父の思い出が眠るこの店で、甘く心地よく重なり始めるふたりの距離。

ノエルが抱く本当の想いと、これからの展開にぜひご期待ください!


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
チョコレートショップ設定が反映されてない気がします。『菓子屋』→『12月が繁忙期』で出力されてませんか? 1話の作業手順だと、概ね牛乳にツブツブした溶けたチョコレートが散って浮いた油っぽい飲み物にしか…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。