第1話 初霜の朝、ショコラ・ショーでやっと見つけた~今日の一粒:ショコラ・ショー~
十一月最後の週、月曜日。
午前八時。商店街には、冬の訪れを告げる冷たい空気が漂っていた。
アーケードの屋根に覆われた通りには、開店準備を始める店主たちの姿がちらほらと見える。シャッターを引き上げる音や、店先を掃くほうきの音が、静かな朝に響いていた。
アーケードの外に出れば、道の端には夜の冷え込みで降りた霜がうっすらと残っている。今年初めての霜だった。
「さむ……」
私・花森心愛は、白い息を吐きながら店先のシャッターに手をかけた。
両手に力を込めて、ゆっくりと引き上げる。金属の擦れる音が、朝の商店街に響いた。
シャッターが半分ほど開いたところで、一度手を止める。
目の前にあるのは、こぢんまりとしたチョコレート専門店。
木枠の窓には小さな花の飾りがあしらわれ、入口の横には季節の花を植えた鉢が並んでいる。店内には温かみのある木製の棚と、お父さんが選んだアンティーク調の照明。奥には、チョコレートを作るための小さな工房が併設されていた。
決して広くはない。
けれど、私にとっては、どこを見ても思い出が詰まった大切な場所だった。
入口の上に掲げられた木の看板には、花の彫刻と、丸みのある文字で店名が刻まれている。
Chocolat Fleur de Forêt
ショコラ・フルール・ド・フォレ。
お父さんが名づけた、チョコレート専門店の名前だ。
幼い頃、意味を尋ねた私に、お父さんは得意げな顔で教えてくれた。
『花森をフランス語にしてみたんだ。森の花のチョコレート。素敵な名前だろう?』
あのときの笑顔を、私は今でも鮮明に覚えている。
「……お父さん」
看板を見上げ、そっと呟いた。
お父さんが亡くなって、もうすぐ一年。
あの日から、私の生活は大きく変わった。
一緒にチョコレートを作っていた工房も、二人でお客さんを迎えていたカウンターも、今では私一人で守っている。
お父さんが大切にしていたお店を、自分の代で終わらせたくない。
その思いだけを支えに、ここまで頑張ってきた。
「大丈夫。今日も大丈夫……」
誰もいない店先で、自分に言い聞かせる。
昔からの口癖だった。
不安なときも、失敗したときも、泣きたくなったときも。
大丈夫、と口にすれば、ほんの少しだけ前を向ける気がした。
けれど。
今の私には、大丈夫だと言い切れない理由がいくつもあった。
午前八時十五分。
店内に入った私は、入口の照明をつけ、カーテンを開けた。
薄い朝日が窓から差し込み、磨き上げた木の床に淡い光の帯を落とす。ショーケースのガラスには、整然と並んだボンボンショコラが映り込んでいた。
ビター、ミルク、フランボワーズ、キャラメル。
一粒ずつ丁寧に仕上げたチョコレートは、どれも自信作だ。
味には自信がある。
お父さんから教わった技術も、これまで積み重ねてきた経験も、決して無駄ではないと思っている。
それでも、売上は少しずつ落ちていた。
「……はあ」
レジ横の帳簿を開く。
赤字。
先月よりも、さらに数字が悪くなっている。
材料費も光熱費も上がっているのに、売上は思うように伸びない。
先月、手伝ってくれていたパートスタッフが家庭の事情で辞めてからは、仕込みも接客も経理も、ほとんど一人でこなしていた。
朝早くから工房に立ち、閉店後も翌日の準備に追われる毎日。
疲れていないと言えば、嘘になる。
眠る前、明日の仕込みを考えてしまうこともある。休みの日でさえ、売上や支払いのことが頭から離れない。
それでも、店を開ければ笑顔でお客さんを迎えた。
おいしかった、と言ってもらえるのが嬉しかったから。
また来ます、と言ってもらえるのが幸せだったから。
何より、お父さんが愛したこの場所を、私も愛しているから。
けれど、気持ちだけではお店を続けていけない。
帳簿を見つめる指先に、ぎゅっと力がこもる。
――今年のクリスマスを乗り越えられなかったら、このお店を畳もう。
それは、誰にも話していない決断だった。
クリスマスは、チョコレート専門店にとって一年で最も大切な繁忙期。
予約が増えれば、売上を立て直す最後のチャンスになる。
反対に、思うような結果が出なければ。
これ以上、借金を増やしてまで続けるわけにはいかなかった。
「……今年だけ。あと一か月だけ、頑張ろう」
帳簿を閉じた。
声に出した途端、胸の奥がちくりと痛む。
本当は、こんな期限を決めたくなかった。
来年も、その先も、この店でチョコレートを作っていたい。
いつか自分の作ったチョコレートが評判になって、遠くからお客さんが訪ねてきてくれる。お父さんと同じように、お客さんの笑顔を見ながら毎日を過ごす。
そんな未来を、ずっと夢見ていた。
なのに今は、夢を描くことさえ怖くなっている。
期待すればするほど、失ったときの痛みが大きくなる気がした。
私は小さく息を吐き、レジの上に貼られた古い紙に目を向けた。
お父さんの字で書かれた、短い言葉。
『完璧でなくていい。食べる人が笑えば正解』
「……うん。そうだよね」
お父さんなら、きっと笑ってそう言うだろう。
目を細め、紙の端をそっと押さえた。
完璧じゃなくてもいい。
今の自分にできることを、一つずつやっていけばいい。
そう思い直し、エプロンの紐をきゅっと結び直す。
「よし。今日も、開けよう」
そのときだった。
「あのー」
店先から、若い男性の声がした。
「はい?」
顔を上げた私は、入口でぴたりと動きを止めた。
シャッターの向こう、アーケードの通路に、一人の青年が立っている。
店の入口までは、あと数歩。
薄手のコートに、少し長めのマフラー。寒さのせいか、鼻先がほんのり赤くなっていた。
けれど、私の目を引いたのは、その髪だった。
淡いミルクティー色の髪が、朝の光を受けて金色に透けている。襟足にかかるくせ毛が、冷たい風にふわりと揺れていた。
そして、こちらを見つめるヘーゼル色の瞳。
すっと通った鼻筋に、形のいい唇。整った顔立ちには、どこか人懐っこい雰囲気がある。
年齢は二十歳そこそこだろうか。
笑ったら、きっとかわいい。
……いや、待って。
初対面の男性を観察している場合ではない。
「ここで、働かせてください」
「……え?」
あまりにも唐突な言葉に、間の抜けた声がこぼれた。
青年は、入口の横に貼られた求人の張り紙を指さした。
「ここ、求人募集してますよね? 窓のところに張り紙があったので」
「あ、はい。まだ募集はしていますけど……」
「よかった。間に合いました」
青年は、ふにゃりと笑った。
口元から小さな八重歯がのぞく。
……うん。やっぱり、笑うとかわいい。
いやいや、そうじゃなくて。
「ま、待ってください。履歴書とか、経歴とか、いろいろ確認したいことが……」
「ありますよ。ほら」
差し出された封筒を受け取り、中身を確認した。
そして、固まった。
フランスの有名店の名前が並んだ修行歴。
さらに、日本の製菓学校の卒業証明書まで添えられている。
「……あの」
「はい?」
「本気で言ってます?」
「もちろん」
青年は、まったく迷いのない顔で頷いた。
「うち、こんな小さな店ですよ? フランスの有名店で修行していた方が働くような場所じゃ……」
「僕は、ここがいいんです」
あまりにもあっさり言われて、言葉を失った。
どうして?
大きなパティスリーなら、もっと設備も整っているだろうし、待遇だっていいかもしれない。
それなのに、どうしてわざわざ、この小さなお店を選ぶのだろう。
聞いてみたい。
けれど、初対面で踏み込みすぎるのも気が引けた。
「ええと、とにかく外は寒いので、中にどうぞ。お話はそれから……」
「やった。じゃあ、お言葉に甘えて」
青年は嬉しそうに笑うと、私の横を通って店内へ入った。
その瞬間、ふわりと甘い香りがした。
香水だろうか。
それとも、彼のコートに残った異国の空気だろうか。
ほんの一瞬、知らないはずなのに、どこか懐かしいと感じた。
胸の奥が、かすかにざわめく。
けれど、その理由はわからなかった。
……気のせいだよね。
私は小さく首を振り、青年を工房へ案内した。
午前八時半。
店の奥にある工房は、まだ暖まりきっていなかった。
ステンレスの作業台には、前日のうちに準備しておいた材料が並んでいる。棚には製菓道具が整然と収まり、壁際の小さな黒板には、今日の仕込み予定が書き込まれていた。
私はコンロに小鍋を置き、牛乳を注いだ。
刻んだチョコレートを加え、木べらでゆっくりとかき混ぜる。
ミルク色だった液体が、少しずつ深い茶色に変わっていく。
温められたチョコレートの甘い香りが、冷えた工房いっぱいに広がった。
作っているのは、ショコラ・ショー。
フランスで親しまれている、温かいチョコレートドリンクだ。
寒い朝に飲むと、体の芯から温まる。
お父さんもよく作ってくれた、私にとって思い出深い飲み物だった。
「わあ。いい香り」
声に振り返ると、青年が工房の入口からこちらを覗いていた。
「寒かったでしょう? 温まってください」
「えっ。いいんですか?」
「はい。ちょうど作ろうと思っていたので」
「店長、優しいですね」
「……店長?」
「だって、ここのいちばん偉い人でしょう?」
当然のように言いながら、青年は私の隣まで歩いてきた。
近い。
思っていたより、ずっと近い。
私は反射的に半歩だけ横へずれた。
「あの、ちょっと離れてもらえますか? 鍋が危ないので」
「えー。せっかく店長の隣を確保したのに」
「確保って……」
「だめですか?」
青年はわざとらしく肩を落とし、しゅんとした顔を見せた。
……この子、絶対わざとだ。
「だめというか、危ないので」
「じゃあ、火を使っていないときなら隣にいてもいい?」
「どうしてそうなるんですか!」
「あはは。店長、反応がかわいい」
「かわいくありません!」
「えー? 僕はかわいいと思いますけど」
さらりと言われ、思わず手元を見つめた。
危うく、木べらを取り落としそうになった。
この人、初対面の相手に何を言っているんだろう。
しかも、本人はいたって楽しそうだ。
私は気を取り直し、鍋の火を弱めた。
「……そういえば、お名前をまだ聞いていませんでしたね」
これ以上ペースを乱されないよう、話題を変える。
「あ、そうでした。橘ノエルです」
「ノエルさん?」
「はい。フランス人の母と日本人の父のハーフです。フランスの店で三年ほど修行して、先月帰ってきました」
「ノエル……クリスマス?」
「そうです。十二月二十四日生まれなので」
「そうなんだ。うちには、いちばん忙しい時期ですね」
「ですよね。だから、ちょうどいいかなって」
「ちょうどいい?」
「いちばん忙しいときに、役に立てるでしょう?」
ノエルは、何でもないことのように笑った。
その言葉が、胸にじんわりと染み込んでいく。
こんな小さな店なのに。
まだ採用するかどうかも決まっていないのに。
それでも、この人はここで働きたいと言ってくれる。
鍋を混ぜる手を、少しだけ緩めた。
ずっと一人で抱えてきた不安が、ほんのわずかに軽くなった気がした。
誰かが一緒に頑張ってくれる。
その可能性を考えただけで、こんなにも心強いなんて。
……私、思っていたより疲れていたのかもしれない。
そんなことを考えていると、ノエルがひょいと顔を覗き込んできた。
「店長?」
「は、はい?」
「今、僕に見とれてました?」
「……は?」
「だって、じっと見てたから」
「違います! ちょっと考え事をしていただけです!」
「ふうん。残念」
ノエルは、ちっとも残念そうではない顔で笑った。
「僕、店長に見つめられるの、けっこう好きなんですけど」
「……もう、そういうことをすぐ言うんですね」
「うん。思ったことは言いたいので」
悪びれもせずに言うものだから、返す言葉を失った。
この子は、きっと誰にでもこういうことを言うんだろう。
そう思いたいのに。
なぜか、胸の奥が落ち着かなかった。
「はい、どうぞ」
出来上がったショコラ・ショーを小さなカップに注ぎ、ノエルに差し出した。
湯気とともに、濃厚なチョコレートの香りが立ち上る。
ノエルは両手でカップを受け取った。
指先が赤くなっている。
きっと、店先で長いこと待っていたのだろう。
「ありがとうございます、店長」
「熱いので、気をつけてくださいね」
「はーい」
素直に返事をしたノエルは、カップに口をつけた。
一口。
そして――動きが止まった。
「……ノエルくん?」
呼びかけても、返事がない。
ノエルはカップを見つめたまま、じっと黙っていた。
さっきまであんなに楽しそうに話していたのに。
不安になり、そっと顔を覗き込む。
「あの、熱すぎました?」
「あっ。すみません」
ノエルは、はっとしたように顔を上げた。
「ちょっと、びっくりしちゃって」
「そんなに熱かったですか?」
「ううん。そうじゃなくて」
彼は小さく首を振った。
「……おいしいです。すごく」
「よかった。あ、でも、私のはいつも少し甘すぎるって言われるので」
「ううん」
ノエルは、今度ははっきりと首を横に振った。
「このくらいが、いいです。このくらいが、僕には」
その声からは、いつもの軽さが消えていた。
ヘーゼル色の瞳が、ほんの少し揺れている。
まるで、ずっと探していたものに、ようやく触れられたみたいに。
私は思わず、彼の顔を見つめた。
どうして、そんな顔をするんだろう。
ただのチョコレートドリンクなのに。
そんなにも大切なものを口にしたような表情を、どうして浮かべるんだろう。
聞いてみたいと思った。
けれど、言葉を探しているうちに、ノエルがふいに顔を上げた。
「あ、店長~」
「……はい?」
「頬にココア、ついてますよ」
「えっ!? うそ!」
慌てて頬に手を伸ばしたけれど、ノエルのほうが早かった。
「ここ」
長い指が伸びてきて、私の頬をそっと拭った。
触れたのは、一瞬だけ。
「はい、とれました」
「……あ、ありがとう」
顔が熱い。
絶対にストーブのせいだ。
そう自分に言い聞かせながら、慌てて視線をそらした。
けれど、ノエルは私の顔をじっと見つめている。
「店長」
「な、なんですか?」
「今、照れました?」
「照れてません!」
「ほんとに?」
「ほんとです!」
「へえ……」
ノエルは意味ありげに目を細めた。
「じゃあ、もう少し近づいても平気?」
「なっ……! だ、だめです!」
「あはは。やっぱり照れてる」
「ノエルくん!」
「はい、店長」
怒っている私を見て、ノエルは楽しそうに笑った。
「店長って、ほんとに素直ですよね」
「……どういう意味ですか?」
「思ったことが、すぐ顔に出るってこと」
「出てません!」
「じゃあ、今の顔は?」
「……っ!」
「ほら。かわいい」
まただ。
この子は、どうしてこんなにも平然と恥ずかしいことを言えるんだろう。
私は赤い顔を隠すように、空になったカップを片づけた。
そんな背中に、ノエルの楽しそうな笑い声が追いかけてきた。
「で、では、面接を始めます」
「はい。よろしくお願いします」
ショコラ・ショーを飲み終えたノエルは、カップを作業台の端に置いた。
先ほどまでのふざけた表情を少しだけ引き締め、工房の隅にある小さなテーブルへ向かう。
私も向かいの椅子に腰を下ろし、履歴書を手元に置いた。
窓から差し込む朝の光が、テーブルの木目を淡く照らしている。
工房の奥では、冷却機の低い音が規則的に響いていた。
いつもなら、一人で仕込みの段取りを考えている時間。
そこに誰かが座っているだけで、工房の空気が少し違って感じられた。
私は履歴書に目を落とす。
「お名前は、橘ノエルさん。フランス人のお母様と日本人のお父様のハーフで、フランスの店で三年ほど修行して、先月帰国……で、合っていますか?」
「はい」
「……すごい経歴ですね」
「そうですか?」
「そうですよ。私なんて、このお店のことで精いっぱいなのに」
つい、本音がこぼれた。
言ってから、しまったと思う。
面接の場で、経営の苦しさを打ち明けるつもりはなかった。
けれど、ノエルは笑わなかった。
私の顔をまっすぐ見つめ、穏やかな声で言った。
「じゃあ、僕が手伝います」
「え?」
「店長が一人で頑張らなくていいように」
あまりにも自然に言うものだから、返事を忘れた。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
たった今、出会ったばかりの人なのに。
この人の言葉は、どうしてこんなにも心に響くのだろう。
私が黙っていると、ノエルはすぐに、いつもの人懐っこい笑顔に戻った。
「……なんて。ちょっと、かっこつけすぎました?」
「自分で言うんですか……」
「あはは。店長が笑ってくれたから、成功です」
「もう……」
調子が狂う。
でも、不思議と嫌な気はしなかった。
むしろ、久しぶりに自然と笑えた自分に、私自身が驚いていた。
「それで、どうしてうちのお店を選んだんですか?」
今度こそ、聞いておきたかったことを口にする。
フランスの有名店で修行していた人が、どうしてこんな小さな店で働きたいと思ったのか。
ノエルは少しだけ黙った。
窓の向こうに目を向けたあと、ゆっくりと私を見つめる。
「ここがいいからです」
「……それは、さっき聞きました」
「うん。でも、ほかの理由じゃだめなんです」
いつもの笑顔とは違う、静かな表情だった。
私は思わず、ノエルを見つめ返した。
その瞳の奥には、ふざけているときには見えない何かがある気がした。
懐かしさ。
切なさ。
そして、ずっと前から決めていたことを、ようやく実行できたような安堵。
けれど、それを確かめることはできなかった。
「……あの、試用期間ということで、いいですか? 一か月」
「はい。喜んで」
「それから、お給料は、あまり出せないんですけど……」
「大丈夫です。お金が目的じゃないので」
「じゃあ、何が目的なんですか?」
何気なく聞いたつもりだった。
けれど、ノエルはすぐには答えなかった。
カップの底に残ったチョコレートを見つめ、ぽつりと呟く。
「Enfin……」
「え?」
「あ、いえ。独り言です。フランス語が癖になっていて」
「今、なんて言ったんですか?」
「ひみつです」
ノエルは人差し指を唇に当てた。
「秘密って言われると、気になっちゃいます?」
「……なりますけど」
「よかった」
「よかった?」
「だって、店長に僕のこと、もっと気にしてほしいから」
「……っ!」
また、そういうことを。
返事に困り、履歴書を必要以上に丁寧に揃えた。
ノエルはそんな私を見て、くすくすと笑っている。
絶対、面白がっている。
それなのに。
彼が何を考えているのか、少しだけ知りたいと思ってしまった。
午前九時。
面接を終えた私たちは、開店に向けて準備を進めていた。
私はショーケースの中を整え、チョコレートの並びや値札を確認する。
ノエルは工房で道具を片づけ、材料の置き場所を一つずつ尋ねていた。
「店長、これはどこに置けばいいですか?」
「あ、そこの棚でお願いします」
「了解です」
軽い返事とは裏腹に、仕事は驚くほど丁寧だった。
使った道具はきちんと洗い、次の作業で必要になるものは取り出しやすい位置に並べる。
材料の扱いにも無駄がない。
さすが、フランスで修行していただけのことはある。
「……すごいですね」
思わず口にすると、ノエルは振り返った。
「え? 何がですか?」
「仕事が。もっとこう……大きなお店で働いていた方だから、うちのやり方には戸惑うかと思って」
「僕、そんなに偉そうに見えます?」
「そういう意味じゃなくて!」
「あはは。わかってます」
ノエルは楽しそうに笑った。
「でも、店長に褒めてもらえるの、嬉しいな」
「……普通のことを言っただけです」
「じゃあ、もっと褒めてもらえるように頑張りますね」
そう言って、ノエルは手際よく道具を整えた。
悔しいけれど、頼もしい。
これなら、クリスマスまで何とか乗り切れるかもしれない。
そんな希望が、胸の奥に小さく灯った。
さっきまで、クリスマスのことを考えるだけで胸が苦しかったのに。
今は少しだけ、先のことを考える余裕ができていた。
もちろん、ノエルが来てくれたからといって、すべての問題が解決するわけではない。
売上が急に増えるわけでもなければ、経営の不安がなくなるわけでもない。
それでも、一人ではないと思えることが、こんなにも心強いなんて。
私は、工房から聞こえるノエルの鼻歌に耳を傾けた。
フランス語の歌だろうか。
知らないメロディーなのに、なぜか耳に心地よかった。
「そういえば、ノエルくん」
私は店先に出て、看板を見上げた。
工房から出てきたノエルに声をかける。
「はい、店長~」
「この店の名前、フランス語って、すぐにわかりました?」
ノエルは、私の視線を追うように看板を見上げた。
「Chocolat Fleur de Forêt」
すらすらと、迷いのない発音で読み上げる。
まるで、昔からずっと知っていた言葉みたいに。
「いい名前ですね」
ノエルは看板を見たまま言った。
「花の森。……店長みたいだ」
「え?」
「だって、花森でしょう?」
振り返ったノエルは、にこっと笑った。
「店長、かわいい花が似合いそうです」
「……そういうこと、すぐに言うんですね」
「うん。思ったことは言いたいので」
「少しは遠慮してください」
「えー。じゃあ、店長は僕にかわいいって言ってくれないんですか?」
「……え?」
「僕ばっかり褒めてるのに」
ノエルはわざとらしく肩を落とした。
「ひどいなあ。僕、けっこう傷つきました」
「絶対、傷ついてないでしょう……」
「ばれました?」
いたずらっぽく笑う顔は、やっぱり子どもみたいに無邪気だった。
私は思わず吹き出した。
すると、ノエルは一瞬だけ目を丸くした。
それから、ふっと柔らかく笑った。
「……やっぱり、笑った顔がいちばん好きだな」
「え?」
「なんでもないです」
ノエルはくるりと踵を返し、店の入口へ向かった。
「さあ、開けましょう。お客さん、待ってますよ」
「まだ開店時間前ですよ?」
「じゃあ、一番乗りのお客さんになろうかな」
「自分のお店で?」
「店長の作ったチョコレート、食べたいので」
「……もう」
呆れたように笑いながら、ノエルの後を追った。
そして、二人でシャッターを引き上げる。
ガラガラガラッ。
シャッターが上がりきると、白い朝の光が店の中へさあっと流れ込んだ。
ショーケースに並ぶチョコレートが、柔らかな光を受けて艶めく。
木の棚も、花の飾りも、いつもと同じ景色。
なのに、今日は少しだけ違って見えた。
その光の中で、ノエルのミルクティー色の髪が金色に透けている。
私は、なぜか思った。
――この景色、前にも見たことがある。
そんなはずはない。
彼とは、今日が初対面のはずなのに。
胸の奥が、きゅうっと音を立てた気がした。
「店長~?」
「あ、ううん。なんでもない」
「ほんとですか?」
「ほんと」
「そっか」
ノエルは私の顔をじっと見つめた。
「じゃあ、僕のこと、見つめてくれてたんですね」
「……っ! ち、違います!」
「あはは。店長、今日だけで何回赤くなるんですか?」
「ノエルくんのせいでしょう!」
「えー? 僕、何もしてないのに」
「してます!」
「じゃあ、明日もいっぱい赤くなってもらおうかな」
「もう!」
笑いながら、ノエルは店の奥へ歩いていった。
私はその背中を見送りながら、小さく息を吐いた。
なんて調子のいい人なんだろう。
距離感は近いし、恥ずかしいことを平気で言うし、何を考えているのかもよくわからない。
きっと、これから振り回されることも増えるに違いない。
それなのに。
彼がいるだけで、いつもより店の中が明るく感じられた。
朝からずっと胸の奥に居座っていた不安も、ほんの少しだけ遠のいている。
私は、お父さんの書いた張り紙をもう一度見つめた。
『完璧でなくていい。食べる人が笑えば正解』
「さあ、今日も頑張りましょう」
小さく呟くと、工房の奥から明るい声が返ってきた。
「はい、店長~」
こうして、十一月最後の霜の朝。
小悪魔みたいな新人ショコラティエが、うちのお店にやってきた。
クリスマスまで、あと一か月。
このときの私は、まだ知らなかった。
彼が、ずっと前から、この看板を探し続けていたことを。
そして、彼があの日からずっと、私の笑顔を探していたことを。
(つづく)
お読みいただきありがとうございます!
冬の寒さとチョコレートの甘い香りが漂う中で始まった、二人の物語。
「ずっと前から、この看板を探していた」——ノエルが隠している本当の理由と、彼が胸に秘めた切ない想いとは……?
クリスマスに向けたお店の行方、そして二人の距離がどう変わっていくのか、ぜひ次回の展開も楽しみにお待ちいただけたら嬉しいです!




