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残滓の天秤

「国家資格、公認記憶捜査官、和田わだ 勝昭かつあき。これより、対象者・広瀬 結衣のメモリードライブを開始する」


 防音と電磁シールドが徹底された地下の一室。低く冷徹な勝昭の声が、ボイスレコーダーに吸い込まれていった。


 部屋の中央には、二つのリクライニングシートが並んでいる。片方には、四十一歳になる勝昭が、仕立てのいいチャコールグレーのスーツに身を包んで横たわっていた。その目元には深い疲労の影が刻まれており、白髪が混じり始めた短髪が、彼の過酷な職務の歴史を物語っている。


 そしてもう片方のシートには――誰もいない。ただ、医療用カプセルの中に満たされた冷却液の中に、一つの小さな「銀色のカートリッジ」が沈んでいた。


広瀬ひろせ 結衣ゆい。二十二歳、大学生。一週間前、杉並区の廃ビルで遺体となって発見。死因は窒息および失血死。容疑者は未だ特定されず、捜査は完全に暗礁に乗り上げている』


 勝昭の脳内に、事前に頭に叩き込んだ事件の概要が蘇る。

 広瀬結衣は、生前に「記憶開示同意書」に署名していた。万が一、自らが不可解な事件や事故に巻き込まれて死亡した際、犯罪捜査の目的に限って、自身の脳から抽出した記憶データを警察庁に開示することを許可する、という制度だ。もちろん、この制度は任意であり、拒否することもできる。しかし彼女は、何らかの予感があったのか、あるいは市民としての義務感からか、「同意」の欄にチェックを入れていた。


「和田捜査官。準備はいいですね」


 ガラス隔壁の向こう側から、年配の捜査本部長の声がインターホン越しに響く。

 勝昭は無言で右手の中指を立てた。それが彼の「了解」の合図だった。


 メモリードライブ。

 それは、死者の全人生、とりわけその「最期の瞬間」を他者の脳へ直接ダイレクトに流し込み、追体験する技術である。防犯カメラの映像や、遺体の状況証拠だけでは決して辿り着けない「犯人の顔」「犯行の動機」「遺された言葉」を掴み取るための、究極の捜査手法。


 しかし、その代償はあまりにも大きい。

 人間の脳は、他者の人生を丸ごと受け止めるようには作られていない。流れ込んでくるのは、単なる視覚や聴覚の情報ではない。被害者が死の間際に味わった、肉体を引き裂かれるような「果てしない苦痛」、暗闇の中で擦り切れていく「絶望と恐怖」、そして「死にたくない」という生への凄絶な執着――それらすべてが、濁流となって捜査官の精神を破壊しにかかる。


 そのため、記憶捜査官には鉄の掟が課されていた。

 一度メモリードライブを行い、事件を解決へと導いた捜査官には、その後「二年間」の完全な休養が義務づけられる。脳の神経ネットワークに癒着した「他者の残滓」を削ぎ落とし、自分自身を取り戻すために、それだけの歳月がどうしても必要なのだ。それほどまでに、この職業は精神の寿命を前借りする、危険極まりない仕事だった。


「ドライブ、開始」


 オペレーターの指がレバーを押し下げる。

 カチリ、と冷却カプセルの中で銀色のカートリッジがロックされ、光ファイバーを通じて勝昭の頭部に装着された電極へと、死者の魂が送り込まれた。


「……う、あ……」


 勝昭の身体が、シートの上で硬直した。

 奥歯がガチガチと鳴り、全身の筋肉が裏返るような激痛が走る。視界が真っ白に爆発し、やがて、冷たいコンクリートの床の感触が、彼の「感覚」をジャックした。


――始まった。広瀬結衣の、最期の時間が。




 痛い。苦しい。息が、できない。


 勝昭の意識は、完全に二十二歳の女子大生、広瀬結衣の肉体と同化していた。

 視界の位置が低い。床に這いつくばっている。右の頬に、ザラザラとしたコンクリートの砂粒が食い込んでいる。首筋には、太いロープが食い込み、気道を容赦なく押し潰していた。


「がはっ、あ、ぐ……っ」


 喉から漏れるのは、掠れた空気の音だけだ。肺が酸素を求めて痙攣けいれんするたびに、胸の奥が焼けるように熱くなる。


(嫌だ、嫌だ、死にたくない。どうして私がこんな目に遭わなきゃいけないの。お母さん、助けて、誰か、誰か――)


 結衣の、狂おしいほどの内言(心の声)が、勝昭の脳内で大音量のノイズのように鳴り響く。それは、彼女がどれほど生を渇望していたかという、純粋で、それゆえに鋭利な刃物のような感情だった。


 勝昭の理性が、結衣のパニックに呑まれそうになるのを、彼は必死で踏みとどまらせた。

(落ち着け、俺は和田勝昭だ。これは過去の記憶だ。俺は事件を解決するためにここにいる。視界を確保しろ。犯人を見ろ……!)


 結衣の頭部が、乱暴に髪を掴まれて引き上げられた。

 頭皮が引きちぎれるような激痛。それと同時に、視界に「男」の姿が映り込んだ。


 男は、作業着を着ていた。胸元には、うっすらと汚れたロゴマークが見える。顔には、黒い不織布のマスク。しかし、その剥き出しになった両目には、異様なまでの冷酷さと、奇妙な「歓喜」が宿っていた。


「暴れるなよ、結衣ちゃん。君が綺麗に死んでくれないと、僕のコレクションが完成しないじゃないか」


 低く、粘り気のある声。

 結衣の記憶の中で、その声を聞いた瞬間、恐怖のバロメーターが限界を突破した。彼女の心臓が、破裂しそうなほどの速度で脈打つ。


(この人、知ってる……。大学の、裏のカフェで働いていた……)


「そこだ!」


 勝昭の理性が、その重要なピースを掴み取った。大学の裏のカフェ。作業着のロゴ。男の、特徴的な濁った声と、細い三白眼。これだけの情報があれば、現実の捜査本部は一発で容疑者を絞り込める。


 しかし、記憶の再生はそこで止まらない。ドライブは、対象者が「完全に事切れる」その瞬間まで、途切れることなく追体験を強要する。


 男は、ロープをさらに強く締め上げた。

 結衣の視界が、急速にセピア色から黒へと染まっていく。

 肉体の苦痛は、やがて麻痺まひし、代わりに底知れない「冷たさ」が足元から這い上がってきた。


(ああ、私、もうダメなんだ。明日、友達と映画に行く約束をしたのに。来春から、ずっと行きたかったデザイン会社で働くはずだったのに。私の人生、ここで終わりなの? こんな真っ暗な場所で、誰にも気づかれずに……)


 結衣の絶望が、勝昭の心の最も柔らかい部分を容赦なくえぐる。

 死に際の人間が遺す感情の質量は、生きている人間の想像を遥かに絶する。それは、宇宙が丸ごと一つ崩壊するほどのエネルギーを持って、勝昭の精神に叩きつけられた。


(ごめんなさい、お母さん。先に行くね。……痛い、寂しい、寒い、寒い、寒い――)


 ドクン。

 結衣の心臓が、最後の、弱々しい鼓動を打った。

 世界からすべての音が消え、完全な暗黒が訪れる。


「――っ、はあぁぁぁぁっ!」


 勝昭は、現実のシートの上で大きくのけぞり、激しく息を吸い込んだ。

 額からは滝のような汗が流れ落ち、全身がガタガタと震えている。


「和田捜査官! 大丈夫か!」


 スピーカーから本部長の怒鳴り声が聞こえる。勝昭は、震える手でマイクを手繰り寄せ、掠れた声で絞り出した。


「容疑者は……大学の裏にあるカフェの従業員。作業服の胸に『ミドリ造園』のロゴ。名前は……結衣の記憶からは出なかったが、顔と声は完全に把握した。すぐに、手配を……」


「わかった! よくやった、和田!」


 ガラスの向こうで、捜査員たちが一斉に動き出す気配がした。

 勝昭は、電極ギアを乱暴にむしり取ると、シートに深く頭を埋めた。

 事件は解決するだろう。犯人は捕まる。

 しかし、勝昭の頭の中には、今もなお、広瀬結衣の「寒い、寒い」という、あの消え入るような泣き声が、べっとりと張り付いて離れなかった。




 事件解決から一ヶ月後。

 勝昭の、二一六〇日――「二年間」の休養期間が、正式に始まった。


 記憶捜査官の休養は、特権であると同時に、一種の隔離措置でもあった。

 給与は満額支給され、どのような贅沢をすることも許されるが、定期的な精神鑑定と、カウンセリングへの出席が厳格に義務づけられる。なぜなら、過去に何人もの優秀な捜査官が、休養期間中に「他者の記憶」に心を乗っ取られ、自ら命を絶つか、精神を崩壊させて廃人となっていたからだ。


 勝昭は、都心から少し離れた静かな高級マンションの一室にこもっていた。

 窓から差し込む午後の光は穏やかで、世界は平和そのものに見えた。しかし、勝昭の五感は、未だに「広瀬結衣」の残滓に侵食されていた。


 台所で、お湯を沸かそうとコンロに火を点ける。

 青い炎を見つめた瞬間、脳裏に、あの廃ビルの暗闇と、首を絞められる苦痛がフラッシュバックする。


「――くっ」


 勝昭は胸を押さえ、その場にうずくまった。息ができない。喉の奥に、あの麻縄のザラザラとした感触が蘇る。


「私は和田勝昭だ。私は生きている。ここは自宅だ」


 口の中で呪文のように呟き、自分の太ももを強くつむる。皮膚に爪が食い込み、血が滲むほどの痛みを感じて初めて、彼は現実へと戻ってくることができた。


 それだけではない。

 ふとした瞬間に、鏡を見ると、自分の顔が一瞬、二十二歳の少女の顔に見えることがあった。

 コンビニで買い物をしている時、並んでいるスイーツを見て、(あ、これ、美味しそう。次の休みにアキちゃんと食べに――)という、自分のものではない思考が滑り込んでくる。


(アキちゃんって誰だ? ……ああ、広瀬結衣の、大学の友人か)


 気づいた瞬間、背筋に冷たいものが走る。

 彼女の記憶が、勝昭の脳の中で勝手に新しい神経回路を作り、彼の「日常」を浸食し始めているのだ。


「先生、私はいつまで、彼女の幽霊と暮らさなければならないのですか」


 週に一度のカウンセリングで、勝昭は主治医の神崎かんざきに問いかけた。

 神崎は、長年多くの記憶捜査官を診てきたベテランの精神科医だった。彼は眼鏡の奥の目を悲しげに細め、静かに首を振った。


「和田くん。何度も言うようだが、他者の記憶を『消去』する技術は、現在の医学には存在しない。メモリードライブは、心に他人の人生を『縫い付ける』行為だ。君ができるのは、その縫い目が剥がれないように、自分の心の一部として馴染ませていくことだけだよ」


「馴染ませる、ですか。彼女は、犯人への憎しみと、死の恐怖の中で息絶えた。そんなものを、どうやって自分の一部にしろと言うんです」


 勝昭は、皮の手袋をはめた両手を強く握りしめた。


「目を閉じるたびに、彼女が泣いているんです。『どうして私だけが』と。犯人が逮捕され、裁判が始まっても、彼女の無念が晴れるわけではない。私は事件を解決した。しかし、彼女を救うことはできなかった。その事実が、脳の奥でずっとうずいている」


 神崎は、カルテから目を離し、勝昭を真っ直ぐに見つめた。


「それが、記憶捜査官の『ごう』だよ、和田くん。君たちは、死者の声を世界で唯一、聴くことができる人間だ。しかし、聴くだけで、過去を変えることはできない。その果てしない無力感と、どう折り合いをつけるか。それが、これからの二年間、君に課された本当の戦いだ」


 病院からの帰り道、勝昭は街を歩く人々の雑踏の中にいた。

 すれ違う若者たち、笑い合う親子、スマートフォンの画面に夢中なビジネスパーソン。

 彼らの誰もが、自分が明日も生きていることを疑っていない。しかし勝昭には、彼らの背後に、いつ訪れるとも知れない「死の影」が透けて見えるような錯覚を覚えた。


(もし、この中の誰かが、明日殺されたら。そして、その記憶を俺が引き受けることになったら――)


 そう考えた瞬間、激しい吐き気が勝昭を襲った。彼は逃げるようにタクシーに飛び乗り、再び自らの暗い部屋へと引きこもった。



 休養に入って半年が過ぎた、ある雨の夜。

 勝昭の部屋のインターホンが鳴った。


 こんな時間に訪ねてくる心当たりはなかった。警察庁の定期連絡はすべて日中に行われるし、彼には私的な交際関係を続ける友人など、とうの昔にいなくなっていた。記憶捜査官という職業を選んだ時点で、他人の感情に敏感になりすぎた彼の心は、生身の人間との深い関わりを拒絶するようになっていたからだ。


 ドアスコープを覗くと、そこにはずぶ濡れになった一人の女性が立っていた。

 年齢は五十代後半ほど。傘も差さずに雨に打たれ、虚ろな目でドアを見つめている。


 勝昭は眉をひそめ、チェーンをかけたままドアを少しだけ開けた。


「どちら様ですか」


 女性は、勝昭の声を聞いた瞬間、弾かれたように顔を上げた。その瞳には、狂気とも言えるほどの切迫感が宿っていた。


「和田……勝昭さん、ですね。広瀬結衣の、娘の記憶を読んだ、記憶捜査官の方ですね」


 勝昭の心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。


「……だとしたら、何ですか。私は現在、公務を離れて休養中です。事件に関するお話なら、警察の広報へ――」


「お願いです! 話を聞いてください!」


 女性はドアの隙間に泥だらけの手を差し込み、必死で懇願した。


「私は、結衣の母です。広瀬ひろせ 冴子さえこと申します。……警察からは、何も教えてもらえないんです。犯人が捕まったのは、あなたのおかげだと聞きました。でも、結衣が最期に何を考えていたのか、どんな言葉を遺したのか、誰も教えてくれないんです!」


 冴子の声は、雨の音に混じって激しく震えていた。


「あの子は……同意書を書いていたから、記憶を調べられた。なら、その記憶の中に、私への言葉はなかったんですか? 母親である私に、何も遺さずに逝ってしまったんですか? お願いです、教えてください。あの子の、最期の声を……!」


 勝昭は、息が詰まるのを感じた。


(広瀬結衣の、母親……)


 彼の脳内で、あの臨終の記憶が瞬時にフラッシュバックする。


『ごめんなさい、お母さん。先に行くね。……痛い、寂しい、寒い、寒い、寒い――』


 結衣は確かに、母親への謝罪を口にしていた。しかし、同時に彼女が味わったのは、言語を絶する苦痛と、犯人への恐怖、そして理不尽な死への呪詛じゅそだった。


 それを、この目の前の、疲れ果てた母親に伝えることが、果たして正しいのだろうか。


「広瀬さん」


 勝昭は、極めて冷徹な声を意識して作った。捜査官としての仮面を被らなければ、自分の心が冴子の悲しみに同調して、崩壊してしまいそうだったからだ。


「メモリードライブで得られたデータは、すべて国家機密であり、公判維持のための証拠です。遺族であっても、その内容を個人の口から開示することは、法律で厳格に禁じられています。お引き取りください」


「そんな……! 法律なんてどうでもいい! 私はただ、娘の最後の想いを知りたいだけなのに! あなたの頭の中に、結衣がいるんでしょう!? どうして教えてくれないのよ!」


 冴子はドアを激しく叩き、泣き叫んだ。


「あの子は、痛かったの? 苦しかったの? それとも、安らかに……。お願い、安らかに眠ったと言ってよ! 嘘でもいいから、お母さんありがとうって言ってたって、そう言ってよ!」


 嘘でもいいから。

 その言葉が、勝昭の胸に深く突き刺さる。


 もし、ここで「結衣さんは、あなたに感謝しながら、苦しまずに眠るように亡くなりました」と嘘をつけば、この母親は救われるかもしれない。それは、人道的な「優しい嘘」だ。


 しかし、勝昭の脳の奥にいる広瀬結衣の残滓が、それを許さなかった。

 結衣の記憶は、凄絶な苦痛とともに勝昭の中に刻まれている。その事実を、安っぽい偽物の慰めで塗り替えることは、彼女が命を賭して遺した「生の証明」を、二度殺すことに等しいのではないか。


 死者の同意を得て、その記憶を預かった。ならば、その記憶を「歪める」権利など、誰にもないはずだ。たとえそれが、遺された者を救うためのものであっても。


「……お答えできません」


 勝昭は、震える手でドアを静かに閉めた。

 鍵をかけ、背中をドアに預けて床にへたり込む。

 外からは、しばらくの間、冴子の咽び泣く声と、雨の音が聞こえていたが、やがてそれも遠ざかり、静寂だけが戻ってきた。


 勝昭は、暗闇の中で両手で顔を覆った。


「俺は、何のために戦っているんだ……」


 犯人を捕まえても、遺族は救われない。死者も戻らない。自分はただ、死者の苦痛を脳内で再生し、その呪いを引き受け、現実の世界で周囲の人々を傷つけるだけの、歩くお化け屋敷のような存在ではないのか。


 その夜、勝昭は一睡もできなかった。

 目を閉じるたびに、広瀬結衣の顔と、その母親の顔が交互に現れ、彼を責め立てるように見つめ続けていた。



 休養開始から一年が経過した頃、勝昭の精神状態は最悪の臨界点に達していた。

 処方される睡眠薬の量は増え続け、食事の味は一切しなくなっていた。何を食べてものりのような食感しかなく、ただ生命を維持するためだけに、機械的に固形物を喉に流し込む日々。


 彼の脳内では、広瀬結衣の記憶だけではなく、過去に彼がドライブしてきた「他の死者たち」の記憶までもが、共鳴を始めていた。


 三年前、強盗に刺殺された老紳士の、胸を焦がすような焦熱の痛み。

 五年前、通り魔に襲われた幼い少年の、狂おしいほどの恐怖と絶望。

 それらの記憶が、地層のように勝昭の脳の底に堆積し、時折、大地震のように彼の意識を揺るがす。


「和田くん、顔色が一段と悪いな。少し入院して、専門的な脳波のクレンジングを受けた方がいい」


 カウンセリングで、神崎医師が深刻な表情で告げた。


「君の脳波は、現在、自分のアイデンティティを示す領域が著しく減退している。このままでは、本当に『和田勝昭』という個人の核が消失してしまうぞ」


「クレンジング、ですか。……それをすれば、彼らの記憶は消えるのですか」


「消えはしない。だが、感情の起伏をフラットにし、記憶へのアクセス権を制限することはできる。君の心を、一時的にシェルターに避難させるんだ」


 勝昭は、机の上の自分の手を見つめた。

 その手は、かつて多くの証拠を掴み、犯人を追い詰めてきた誇りある手だった。しかし今、その手は微かに震え、自分の意志とは無関係に、広瀬結衣がよくやっていた「髪を耳にかける仕草」を真似まねようとしていた。


(俺の心は、もうボロボロだ。これ以上、この苦痛に耐え続ける理由があるのだろうか。クレンジングを受けて、すべてを他人事のように感じられるようになれば、どんなに楽か……)


 楽になりたい。その誘惑は、底なしの沼のように勝昭をきつけた。

 記憶捜査官を辞め、過去のすべてを麻痺させ、ただの抜け殻として余生を過ごす。それも一つの選択肢だった。誰も彼を責めはしない。彼は十分に、国家と市民のためにその精神を削ってきたのだから。


「……考えさせてください、先生」


 勝昭はそう言い残し、病院を後にした。


 その日の夜、勝昭は自宅のベランダに立っていた。

 十四階の高さから見下ろす夜景は、光の海のようだった。

 ふと、手すりに手をかけた時、脳の奥から、強烈な「声」が響いてきた。


 それは、広瀬結衣の声だった。

 しかし、それはあの廃ビルでの絶望の声ではなかった。彼女が大学のキャンパスで、友人たちと笑い合い、将来の夢を語っていた時の、輝かしい、生気に満ちた「生の記憶」だった。


(私ね、いつか自分のデザインした服で、世界中の人を笑顔にしたいんだ。大変なこともあるかもしれないけど、私、絶対に諦めないよ)


 勝昭はハッとした。

 メモリードライブで流れ込んできたのは、最期の瞬間の苦痛だけではないはずだ。彼女の二十二年の人生、その中にあった、数え切れないほどの喜び、愛、希望――それらすべてが、あの銀色のカートリッジには詰まっていたのだ。


 自分がもし、今ここでクレンジングを受け、彼女の記憶を麻痺させてしまったら。あるいは、このまま絶望に呑まれて自ら命を絶ってしまったら。


 彼女がこの世界に生きていたという「本当の証明」は、誰が覚えていているのだろうか。


 母親は、娘の最期の苦痛を恐れている。犯人は、彼女の命を単なるコレクションとしてしか見ていなかった。

 世界中で、広瀬結衣という人間の「生」と「死」のすべてを、その痛みの重さも含めて、一ミリの狂いもなく受け止め、記憶しているのは――今や、この世界で和田勝昭、ただ一人しかいないのだ。


(そうか……。俺の仕事は、事件を解決することだけじゃないんだ)


 勝昭の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。

 記憶捜査官の本質。それは、死者の「人生の墓守」になることだ。

 無念の死を遂げた者が、確かにこの世界に存在し、理不尽な暴力にあらがい、最期まで生きようとしたこと。その「魂の重量」を、現実の世界に繋ぎ止めておくための、最後のアンカー(錨)。それこそが、自分という存在の意義だったのだ。


 苦痛から逃れるために、記憶を麻痺させることは、死者への裏切りだ。

 彼らが味わった恐怖も、苦しみも、すべてを背負ったまま、それでも「俺は俺として生き続ける」。それだけが、死者の同意の上に成り立つメモリードライブという残酷な制度に対する、唯一の誠実さなのだと、勝昭は気づいた。



 さらに一年が経ち、秋。

 二年の休養期間の最後の日が訪れた。


 勝昭は、再びあの警察庁の地下セッションルームにいた。

 髪には白髪が増え、目元の皺は深くなっていたが、その瞳には、二年前のような濁った焦燥感はなかった。そこにあるのは、すべてを受け入れた男の、静かで、強固な覚悟の光だった。


「和田捜査官。本日をもって、君の休養期間は終了する」


 捜査本部長が、書類を手にしながら勝昭を見つめた。


「精神鑑定の結果は、規定値をクリアしている。しかし、本当に現場に戻るつもりか? 君の年齢なら、内勤の管理職へ就くことも可能だ。もう、他人の死体を脳内で引き受ける必要はないんだぞ」


 勝昭は、静かに首を横に振った。


「いいえ、本部長。私は記憶捜査官です。現場に戻ります」


「……そうか。君のような男がいてくれて、警察としては有り難い。だが、無理はするなよ」


 本部長はそう言って、勝昭の肩をポンと叩いた。


 セッションルームを後にし、勝昭は警察庁のロビーへと歩を進めた。

 大きなガラス窓から、秋の澄んだ青空が見える。

 その時、ロビーのベンチに、見覚えのある女性の姿を見つけた。広瀬冴子だった。

 彼女は、一年半前よりも少しだけ落ち着いた様子で、警察の窓口での手続きを終えたところのようだった。


 勝昭は、一度は通り過ぎようとしたが、足を止め、彼女の方へと歩み寄った。


「広瀬さん」


 冴子が顔を上げた。彼女は一瞬、勝昭が誰だか分からない様子だったが、彼の「目」を見た瞬間、あの雨の夜の記憶が繋がったのか、息を呑んだ。


「和田……さん……」


 勝昭は、周囲に人がいないことを確認すると、冴子の前に立ち、静かに、しかしハッキリとした声で話し始めた。


「法律上、捜査の詳細をお話しすることはできません。ですが……これだけは、一人の人間として、あなたにお伝えしたい」


 冴子は、祈るように両手を胸の前で組んだ。


「結衣さんは……最期の瞬間まで、とても勇敢でした。彼女は、自分の命を奪おうとする理不尽な暴力に対して、決して心まで屈服してはいませんでした。そして……」


 勝昭は一度言葉を切り、脳の奥にいる結衣の、あの最期の温もりにアクセスした。


「彼女の心の最期の場所には、あなたへの深い感謝の言葉がありました。先に行くことを、とても申し訳ながっていました。……彼女は、あなたに愛された記憶を、その胸にしっかりと抱きしめたまま、旅立たれました。それは、嘘偽りのない真実です」


 冴子の目から、大粒の涙が溢れ出た。

 彼女は、その場に崩れ落ちるようにして泣いた。しかし、その涙は、あの雨の夜の絶望に満ちたものとは異なり、張り詰めていた心の糸が、ようやく解きほぐされたかのような、救いの涙だった。


「ありがとう……ありがとうございます……」


 冴子は、何度も何度も頭を下げた。


 勝昭は、彼女にそれ以上の言葉をかけることなく、静かにその場を離れた。

 ロビーを出ると、冷たい秋の風が勝昭の頬を撫でた。


(和田さん、ありがとう)


 脳の奥の本棚から、微かに、本当に微かに、広瀬結衣の、あのキャンパスで笑っていた時の声が聞こえたような気がした。


 勝昭は、自分の右手をそっと胸に当てた。

 彼の心臓の隣には、今もなお、彼女の記憶が、そして過去に引き受けてきた多くの死者たちの残滓が、重いおもりのように鎮座している。

 これからも、その錘が増えるたびに、彼は果てしない苦痛と恐怖にさいなまれるだろう。自分のアイデンティティが、他人の感情に侵食され、狂気の一歩手前まで追い詰められる夜が、何度も訪れるだろう。


 しかし、今の勝昭には分かっていた。

 この重みこそが、自分が生きている証であり、彼ら死者がこの世界に確かに遺していった「魂の財産」なのだと。


「よし……行こう」


 和田勝昭は、チャコールグレーのスーツの襟を正し、次の「死者の声」を聴くために、雑踏の中へと力強く歩き出した。彼の背中は、まるですべての死者の無念を受け止める盾のように、どこまでも大きく、そして孤高に輝いていた。

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