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星霜の窓

 世界がどれほど急速に変貌を遂げようとも、窓の外に広がる山々の稜線りょうせんだけは、頑なにその形を変えようとはしなかった。


 七十歳になった自覚じかく 絹代きぬよは、山あいにひっそりと佇む木造平屋の自宅で、小さな金属製のケースをそっとでていた。

 葬儀を終えて一週間。静まり返った我が家には、お掃除ロボットの低い駆動音だけが、寂しく響いている。


 仏壇の前には、まだ新しい位牌と、笑顔を浮かべた夫、自覚じかく さとしの遺影があった。

 かつては地元の林業を支え、太い丸太を軽々と担ぎ上げていた頑健な男だったが、半年前の末期がん宣告から、坂道を転がり落ちるようにして、一週間前に旅立ってしまった。七十歳。早すぎる別れだった。


 絹代の手の中にあるケース――それこそが、聡が遺した『メモリードライブ・カートリッジ』だった。

 鏡面仕上げが施された美しい銀色の円盤。そこには、レーザー刻印で『自覚 聡 ―― 記憶原盤』と刻まれている。


 二〇六一年、今から五年前につくられた「記憶移植規制法(メモリードライブ法)」により、死者の記憶を他人に移植する技術は合法化されていた。しかし、それには極めて厳格な条件がある。「故人が生前に、明確な移植同意の遺言を遺していること」。


 聡は病床で、自分の死後、すべての記憶を絹代に譲渡するという公正証書を作成していた。


「ねえ、聡さん……。どうしてこんなものを遺したの」


 絹代は遺影の夫に問いかけた。

 彼女の中に、迷いがなかったわけではない。夫婦として四十年を共にしてきたのだ。初めて会った日のことも、共に暮らした日々のことも、すべて自分の頭の中に美しい思い出として残っている。わざわざ機械を使って、死んだ夫の脳内データを自分の頭にインストールするなんて、どこか恐ろしさもあった。


 しかし、遺言書に添えられた聡の直筆のメモには、こう書かれていた。


『絹代へ。俺が死んだら、この記憶を受け取ってほしい。お前の記憶力が抜群なのは知っているが、人間の記憶は時間が経てば薄れてしまうものだ。俺は、お前に「本物」を遺したい。俺の目から見たお前の姿、俺の心臓が受け止めたお前の愛を、一ミリの狂いもなくお前に返したい。これは俺の我が儘だ』


「最後まで、不器用で、頑固なんだから……」


 絹代は涙を拭い、銀色のカートリッジを握りしめた。

 彼の遺志を受け継ぐため、そして彼が何を遺したかったのかを知るために、絹代は町に一つしかない、メモリードライブ公認の総合病院へと向かう決意を固めた。



「自覚絹代様。本日、ご主人様の『生前同意書』に基づき、カートリッジのロック解除コードが発行されました」


 白を基調とした清潔なセッションルームで、若い男性の記憶管理士が穏やかに微笑んだ。


「ご主人様が亡くなられた直後、病院の専用設備で脳の全記憶データ――〇歳から臨終の間際までの一連の記録が、完全にこの銀色盤へバックアップされました。これより、メモリードライブを開始します」


 絹代はリクライニングシートに深く身体を沈めた。

 頭部に、無数の電極が埋め込まれたしなやかなヘッドギアが装着される。カチリ、と心地よい金属音がして、聡の記憶カートリッジがスロットに挿入された。


「痛みを伴うことはありません。ただ、同じ時間を異なる視点で過ごしてきたご夫婦の場合、ご自身の記憶とご主人様の記憶が脳内で衝突し、強い感情のフラッシュバックが起こることがあります。リラックスして、意識の流れに身を任せてください。カウント、スリー、ツー、ワン、アクセス」


 医師の声が遠ざかると同時に、絹代の視界は真っ白な光に包まれた。


 じわじわと、脳の奥底が熱くなる。

 他人の人生という名の濁流が、自分の脳へ流れ込んでくる感覚。神経細胞が書き換えられ、見知らぬ景色、見知らぬ感情が、まるで「最初から自分が経験していたこと」のように立ち上がってくる。


 視界が急速に焦点を結んでいく。

 冷たい雨の匂いが、鼻腔を突いた。手を見ると、ゴツゴツとした、しかし二十代の若々しい男の手だった。


(これは……若き日の、聡さんの身体だ。私は今、彼の記憶の中にいる)



 時は二〇二五年、十二月。メモリードライブ法が施行される三十六年前の、東京の片隅。

 二十五歳の聡は、就職したばかりの建設会社での仕事に追われ、精神的にひどく摩耗していた。


 激しい雨が降る渋谷のスクランブル交差点。傘の波に揉まれながら、聡は下を向いて歩いていた。上司からの叱責、終わらない書類仕事、自分の才能への限界。若き日の聡の心の中は、灰色に濁った焦燥感だけで満たされていた。


(俺は、何のためにこの都会で生きているんだろう。誰も俺のことなんて見ていない。俺がここで消えても、この街は何も変わらずに動き続けるんだ)


 そんな、聡のドロドロとした孤独感が、ダイレクトに絹代の胸を締め付ける。

「聡さん、あなた、こんなに苦しんでいたのね……」と、現在の絹代は脳内で呟いた。当時、付き合い始める前の聡は、いつも強がって、自信に満ちた顔ばかりを彼女に見せていたからだ。


 その時、交差点の向こうから、一本の「黄色い傘」が近づいてきた。

 傘を差していたのは、当時二十五歳の、若き日の絹代だった。


 長い髪を後ろで結び、リクルートスーツに身を包んだ彼女は、書類の入った大きなバッグを抱えながら、足元を気にして小走りで歩いていた。そして、すれ違いざま、誰かの傘と接触し、手荷物を地面に落としてしまった。


「あ、すみません!」


 聡の身体が、自然と動いていた。

 彼は地面にしゃがみ込み、濡れたアスファルトに散らばった書類を拾い集めた。


「いえ、こちらこそすみません、前を見ていなくて」


 若き日の絹代が、申し訳なさそうに顔を上げた。


 その瞬間。

 聡の心臓が、ドクン、と大きく跳ね上がったのを、絹代は自分の脳の鼓動としてハッキリと感知した。


 雨粒に濡れた彼女の白い頬、すこしタレ目の、しかし意志の強そうな澄んだ瞳。

 その姿を見た瞬間、聡の心の中に立ち込めていた灰色の霧が、まるで強風に吹き飛ばされるように、一瞬で晴れ渡っていったのだ。


(綺麗な人だ……)


 聡の脳内に、雷が落ちたような衝撃が走っていた。


(この人の目が、俺を映している。この冷たい雨の街の中で、この人の周りだけ、まるで温かい光が灯っているみたいだ。……ああ、俺は、この人のために、この街で生きていきたい。この人を、守れるような男になりたい)


 絹代は、涙が溢れるのを止められなかった。

 彼女自身の記憶では、あの出会いは単なる「雨の日の不注意な衝突」に過ぎなかった。書類が濡れて災難だったな、くらいにしか思っていなかったのだ。

 しかし、聡にとっては違った。あの瞬間、彼は人生の奈落から、絹代という光によって救い上げられていた。


「私が出会う前から、あなたは私を見つけてくれていたのね……」


 記憶は、激しい光の明滅とともに、次の章へと進んでいく。



 二人が結婚して十年が経った、二〇三六年の記憶。

 聡は東京の仕事を辞め、聡の故郷である西伊豆の山あいの町へ移住し、林業の職人として働き始めていた。


 ある夏の夜。

 二人は実家の裏山にある、小さな展望台に登っていた。

 見上げるような夜空には、都会では決して見ることのできない、息を呑むような天の川が広がっていた。


「すごいね、聡さん。星が、降ってきそう」


 三十五歳の絹代が、隣で目を輝かせている。

 聡の視点は、夜空の星などほとんど見ていなかった。彼の目は、満天の星の光をその瞳に映し込んで、少女のように無邪気に喜ぶ絹代の横顔だけを、じっと見つめ続けていた。


(絹代。お前をこの田舎に連れてきて、本当に良かったのだろうか。東京の便利な暮らしを捨てさせて、俺の我が儘に付き合わせてしまったんじゃないだろうか)


 聡の胸を満たしていたのは、深い愛おしさと、それと同じくらい強い「申し訳なさ」だった。

 林業の収入は決して多くなく、生活はつつましかった。絹代の手は、日々の家事と畑仕事の手伝いで、少しずつ荒れ始めていた。東京にいた頃の、あの白く滑らかだった手が、自分のせいで苦労を刻まれている。聡はそのことに、人知れず胸を痛めていたのだ。


(だけど……お前は一度も文句を言わずに、俺の隣で笑ってくれている。お前のその笑顔が、どれだけ俺の救いになっているか、お前は知らないだろうな。

俺の命がいつまであるかは分からないけれど、俺の全人生をかけて、お前を必ず幸せにする。お前がこの町に骨を埋める時、『この人と結婚して良かった』と、一瞬でも思ってもらえるように、俺は泥にまみれて働くよ)


 聡は、そっと絹代の肩を抱き寄せた。

 当時の絹代は、「あ、聡さん、急にどうしたの?」と笑っていた。

 だが、その時の聡の腕に込められた力の強さ、彼の胸の中で脈打っていた、命を削るような決意の重さを、現在の絹代は三十年以上の時を経て、初めて「知る」ことになった。


「知らなかった……。そんな風に、自分を責めていたなんて。私は、あなたと一緒にいられるだけで、世界で一番幸せだったのに」


 絹代の脳内で、自身の「幸せだった思い出」と、聡の「必死で彼女を幸せにしようとしていた記憶」がカチリと噛み合い、より深く、より強固な、一枚の完璧な絵画へと完成していく。

これが、メモリードライブがもたらす、魂の相互理解だった。



 しかし、四十年の歳月は、美しい思い出ばかりでは構成されていない。

 二人の人生において、最も大きな危機が訪れた、二〇五一年の記憶が展開される。


 当時、二人は五十代。

 聡は林業の現場責任者となり、多忙を極めていた。さらに、地域の寄り合いや組合の仕事も重なり、毎晩のように帰宅が遅くなっていた。

 一方、絹代は更年期の体調不良と、義母の介護が重なり、精神的に極限まで追い詰められていた。


 ある晩、日付が変わる頃に帰宅した聡に対して、絹代はついに感情を爆発させた。


「どうしていつも、こんなに遅いの!? 私がどんな気持ちで、お義母さんの面倒を見てるか、あなたには分からないのね! あなたにとって、この家はただの寝る場所なの!? もう、疲れたわ……」


 絹代は激しく引き戸を閉め、寝室に引きこもって泣いた。

 聡は何も言い返さず、ただ玄関で立ち尽くしていた。


 絹代の自身の記憶では、あの時の聡は「冷酷で、無関心で、仕事にかまけて家族を捨てた薄情な夫」だった。その後の数ヶ月間、二人の間には会話がなく、離婚の文字さえ頭をよぎったほどだった。


 だが、スロットから再生される聡の記憶は、全く異なる真実を告げていた。


 あの夜、玄関で立ち尽くしていた聡の視界は、激しく歪んでいた。

 彼の心臓は、ストレスと過労、そして絹代を精神的に追い詰めてしまったという絶望感で、今にも破裂しそうなほど激しく脈打っていた。


(絹代……すまん。本当に、すまん。

お前が苦しんでいるのは分かっているんだ。お義母さんの介護が、お前の小さな身体にどれだけの負担になっているか、分かっているんだ。

だけど、今、俺がこの組合の仕事を投げ出したら、山の利権が若い奴らに引き継がれず、この町の林業は潰れてしまう。そうすれば、俺たちの老後の資金も、お母さんの医療費も、すべてが立ち行かなくなるんだ。

俺が頭を下げて、泥水を飲んででも、この仕事を全うしなきゃならないのは、お前との生活を守るためんだ。……だけど、それを言葉にしたら、お前に言い訳をしているみたいで、どうしても言えなかった――)


 聡は、暗い居間のソファに腰掛け、両手で顔を覆っていた。

 彼の指の隙間から、大粒の涙がポロポロと畳にこぼれ落ちていた。


(俺は、無能だ。一番守りたい妻が、目の前で泣いているのに、抱きしめてやることも、優しい言葉をかけてやることもできない。仕事の数字ばかりを気にして、お前の心の悲鳴に、気づかない振りをしていた。……俺なんて、夫失格だ)


 翌朝、聡は絹代が起きる前に家を出ていた。

 それは無関心からではなく、自分の疲れ切った顔を見せることで、さらに絹代に気を遣わせまいとする、彼なりの不器用すぎる配慮だったのだ。

 そして、聡はその日から、睡眠時間をさらに削って介護ヘルパーの手配を裏で進め、役所への申請書類をすべて一人で書き上げていた。


 現在の絹代は、リクライニングシートの上で息が詰まるほどの衝撃を受けていた。


「どうして……どうして言ってくれなかったのよ、聡さん……!」


 あの時、自分だけが被害者だと思い込んでいた。夫を責め立て、彼の心をズタズタに引き裂いていたのは、自分の方だったのだ。聡は、妻からの激しい非難をすべて無言で受け止め、その裏で、黙々と彼女を救うための泥仕事をこなしていた。


(お前が俺を嫌うなら、それでいい。お前のストレスが、俺を怒鳴りつけることで少しでも軽くなるなら、俺はいくらでもサンドバッグになる。だから、絹代……一人で抱え込んで、壊れないでくれ)


 聡の、血を流すような祈りが、絹代の脳の奥底に染み渡っていく。

 二十年近く前の誤解が、今、死者の記憶によって完全に解き放たれ、濁った過去が、純粋な感謝と、言葉にならない愛おしさへと昇華されていった。



 記憶の潮流は、ついに最終章――聡が病に倒れ、息を引き取る直前までの領域へと突入した。


 病室、あるいは自宅のベッドの上から見た、現在の絹代の姿。

 白髪が増え、腰が少し曲がりながらも、一生懸命に自分の看病をしてくれる絹代。

 聡の目が捉える絹代は、二十五歳のあの雨の日に出会った時と、全く変わらない「光そのもの」として映し出されていた。


(ああ、絹代。お前は本当に、綺麗だな。

皺が増えたその手も、少し白くなったその髪も、俺にとっては、四十年の歳月が育んでくれた、世界で一番美しい宝物だ。

俺の身体はもう動かないし、お前に何もしてやれない。だけど、お前が俺の傍にいて、お茶を淹れてくれるだけで、俺の全人生は、お釣りが来るほど幸福だ)


 そして、一週間前のあの夜。

 呼吸が止まり、意識が完全に消失していく、その最後の数秒間の記憶。


 視界は急速に狭まり、暗転していく。

 心音のモニターの音が、遠く遠くへ遠ざかっていく。死への圧倒的な恐怖と、肉体の苦痛が聡を襲う。

 しかし、その暗闇の瀬戸際で、聡が必死にその両手で抱きしめ、手放そうとしなかったのは、自分の人生の栄光でもなく、集めた財産でもなかった。


 ただ、泣きながら自分の手を握ってくれている、絹代の温もりだけだった。


(絹代。泣かないでくれ。

俺は死ぬんじゃない。お前の中に、引っ越すだけだ。

メモリードライブがあって、本当に良かった。これで俺は、お前の頭の中で、これからもずっとお前を見守ることができる。

お前が寂しい時、お前が悲しい時、いつでもこの記憶の引き出しを開けてくれ。

そこには、お前を世界で一番愛した、俺という男のすべてが、当時のままの熱さで待っているから。

ありがとう、絹代。俺の最高の妻。俺の、人生のすべて――)


カチリ。


 静かな、本当に静かな接続完了の音が響き、脳内の光のダンスは幕を閉じた。





「……絹代様。絹代様、お疲れ様でした。ドライブは、大成功です」


 記憶管理士の、どこか感極まったような声が聞こえた。

 絹代はゆっくりと目を開けた。目からは、とめどなく涙が溢れていたが、その胸の中は、これまでに感じたことのないような、圧倒的な「温かさ」と「充足感」で満たされていた。


 リクライニングシートから立ち上がった時、絹代は自分の身体が、心なしか軽くなっているのを感じた。

 脳の、すぐ右側の奥のほうに、ハッキリと分かる。

 聡の、あの優しくて、少し不器用な魂が、銀色の原盤から自分の心へと、完全に移り住んできたのだ。


「体調に、違和感はありませんか?」と、医師が心配そうに覗き込む。


「ええ……。全く、問題ありません。それどころか、主人が、すぐ隣にいてくれるような、そんな安心感があります」


 絹代は微笑んだ。その笑顔は、夫を亡くした未亡人のそれではなく、愛する人と固い約束を交わしたばかりの、若々しい女性のそれのようだった。


 病院を出ると、山々には、あの夏の夜に見たような、息を呑むほど美しい天の川が広がっていた。

冷たい秋の夜風が、絹代の頬をでる。


(聡さん、見てる?)


 絹代が心の中で語りかけると、脳の奥の本棚から、ハッキリと聡の声が返ってきた。


『ああ、見てるよ、絹代。やっぱり、ここの星空は、世界で一番綺麗だな』


 絹代は、自分の右手をそっと胸に当てた。

 そこには、聡の心臓が感じていた、自分への狂おしいほどの愛の鼓動が、今も確かに脈打っている。


 人間は、二度死ぬという。

 一度目は、肉体が滅びた時。二度目は、生きている人間の記憶から、完全に忘れ去られた時。

 だが、生前の聡の明確な同意によって実行されたメモリードライブという技術は、その二度目の死を、永遠に過去のものとしたのだ。


「私たちは、これからもずっと一緒ね。聡さん」


 絹代は、一歩を踏み出した。

 一人の足取りだが、そこには二人の人生の重みと、未来への確かな推進力が宿っていた。

 山あいの小さな家に灯る光を目指して、自覚絹代は、夫の記憶(愛)とともに、新しい明日へと歩き始めた。

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