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群青の航路

 二〇六六年、初夏。

 世界がどれほど急速に変貌を遂げようとも、水平線の彼方から昇る太陽の眩しさだけは、僕たちの少年時代と何も変わっていなかった。


 七十歳になった茂野しげの うみは、港町にある小さな造船所のデスクで、真っ白な図面をじっと見つめ、シャープペンシルを握ったまま立ち尽くしていた。

 静まり返った事務所には、古いエアコンの駆動音だけが寂しく響いている。


 一週間前、海の人生のすべてを分かち合ってきた親友が、あっけなくこの世界から消えた。

 名前は、貝塚かいづか わたる

 地元の漁師を継ぎ、生涯現役を貫き、誰よりも日焼けした顔で豪快に笑う男だった。あの夜、荒れた海へ漁に出た渡の小型漁船は、突発的な突風と高波に煽られ、転覆した。翌朝、変わり果てた姿で見つかった渡は、冷たい海の底から、二度とあの大声を響かせることはなかった。


「茂野海様。こちらが、故・貝塚渡様が遺された『メモリードライブ・カートリッジ』になります」


 事務所に訪ねてきた公認記憶管理士の女性は、丁寧に一礼し、黒いベルベットの敷物の上に、鏡面仕上げが施された美しい銀色の円盤を置いた。その表面には、レーザー刻印で『貝塚 渡 ―― 記憶原盤』と刻まれている。


 海は、目の前にある銀色の円盤を、信じられないという目で見つめていた。


「……メモリードライブ? 渡が、俺に?」


「はい。貝塚様は五年前、二〇六一年に『メモリードライブ法』が制定された直後、ご自身の生前意思表明として、万が一の事態が起きた際の全記憶データの譲渡先を、ご友人の『茂野海様』に指定されていました。本日、正式に譲渡の手続きが完了いたしました」


 海は頭を殴られたような衝撃を受けていた。

 脳科学の最高峰として合法化された、死者の記憶を他者に移植する技術。通常、それは血の繋がった親子や、生涯を共にした夫婦の間で行われるものだ。


 なぜ、俺なんだ。

 渡には、男手一つで彼を支えてくれた職人気質の父親もいたし、漁師の仲間たちもいた。それなのに、なぜ渡は、わざわざ公証役場へ行ってまで、ただの幼馴染である俺に、自分の七十年の人生の記憶を遺そうとしたのか。


「なぜ、俺なんですか……。理由が、分かりません」


 海が掠れた声で問うと、管理士は静かに首を横に振った。


「記憶の譲渡に際して、故人がその理由を書類に記載する義務はありません。すべては、このカートリッジの中の『記憶』だけが知っています。茂野様、これを受け取るか拒否するかは、あなたの自由です。ですが、もしご友人の『想い』を知りたいとお望みなら、私どもはいつでもセッションの準備をいたします」


 管理士が去った後、海は夕暮れの港に一人立ち、銀色のカートリッジをポケットの中で強く握りしめた。

 金属の冷たさが、じわじわと手のひらに伝わってくる。


 海と渡は、昭和の終わり、小学校からの腐れ縁だった。

 二〇二六年のあの日、二十五歳だった二人がコインランドリーのベンチで将来を語り合ってから、すでに四十年もの歳月が流れている。内気で造船所の職人になった海と、ガキ大将のまま漁師になった渡。正反対の二人だったが、週末になれば居酒屋でくだらない話をしながら酒を飲む、それが二人の当たり前の日常だった。


 あいつは、何を考えていたんだ。

 俺に何を伝えたくて、こんな最先端の電子の遺産を遺したんだ。


「……逃げるわけにはいかないよな、渡」


 海は、夜の海に向かって小さく呟いた。あいつの豪快な笑い声が、波の音に混じって聞こえた気がした。親友が命を懸けて遺した最後のパスを、無視することなんて、海には到底できなかった。



 三日後、海は公認記憶管理士のセッションルームのシートに横たわっていた。

 頭部には、無数の精密センサーが埋め込まれた、しなやかなヘッドギアが装着されている。カチリ、と静かな金属音がして、渡の記憶カートリッジがスロットに挿入された。


「茂野海様、これよりメモリードライブを開始します。深く息を吸い、貝塚様の記憶の波に、身体を預けてください」


 管理士の厳かな声とともに、システムが起動した。

 視界が急激に真っ白な光で満たされ、やがて、強烈な「潮の匂い」と「古いエンジンの振動」が、海の五感を荒々しくジャックした。


(う、わっ――)


 海は、自分の身体が驚くほど若返り、逞しくなっているのを感じた。

 視界の位置が高い。手を見ると、日焼けして真っ黒に汚れ、至る所に傷やマメができた、分厚い「若き漁師の手」だった。

これは、渡の肉体だ。


 時は二〇一五年。二人がまだ十五歳の、中学最後の夏休みの記憶だった。


「おい、海! 遅いぞ、早く乗れよ!」


 渡の口から、あの聞き慣れた、地鳴りのような大声が飛び出した。

 視線の先には、今よりもずっと細く、頼りない体つきをした十五歳の海が、バケツと釣竿を抱えて、堤防の上でおろおろと立ち尽くしている。


 この日は、二人でこっそり父親の古い小型ボートを持ち出し、誰もいない沖合の無人島まで、冒険に出かけた日だった。

 当時の海の記憶では、ただただ「渡の我が儘に付き合わされて、怖くて仕方がなかった日」として記録されていた。


 しかし、渡の視点から見るその景色は、全く違う色をしていた。


(海、そんなに怯えるなよ。俺がついてるんだから、絶対に大丈夫だ。お前はいつも、学校の狭い図書室で世界地図ばかり見てるだろ? だから、本物を見せてやりたいんだ。この海の向こうには、もっと広い世界が広がってるってことをさ)


 渡の胸の中にあったのは、海への呆れるほどの「純粋な共有欲」と「誇らしさ」だった。

 渡は、海が持つ繊細な感性や、誰も気づかないような美しいものを見つける才能を、誰よりも尊敬し、眩しく思っていたのだ。


 ボートが激しく波を飛び越えるたびに、渡の心臓が、歓喜でドクン、ドクンと跳ね上がる。


(ほら見ろ、海! 最高の青だろ! お前の名前は『海』だけど、本当の海はお前が思ってるより、ずっと広くて自由なんだぞ!)


 隣で必死にボートの手すりにしがみついている十五歳の海を見て、渡は心の中で(こいつを、俺の相棒にして良かった)と、深い充足感に浸っていた。


 現実のシートの上で、七十歳の海の目から、熱い涙がじわりと溢れ出た。


「お前……そんなことを考えて、俺を引っ張り回していたのかよ……」


 自分を困らせるための悪ガキの悪戯だと思い込んでいたあの夏の日が、渡にとっては、親友に「最高の景色」をプレゼントするための、命がけの遠足だったのだ。



 四十年前――二人が二十五歳だった、二〇二六年の春の記憶。

 二人は、港の近くにある寂れたコインランドリーのベンチに座り、缶コーヒーを飲んでいた。


 この時期、海は大きな挫折の中にいた。

 本当は東京の大学へ進学し、船舶設計の勉強をしたいという夢があったのだが、親の病気など経済的な理由から断念せざるを得なかったのだ。地元に残って造船所の見習い職人になって数年が経ち、海は世界から取り残されたような絶望感の中にいた。


「いいよな、渡は。親父さんの船を継げば、もう将来が決まってるんだから。俺なんて、結局どこにも行けずに、この狭い港町で一生を終えるんだ」


 当時の海は、八つ当たりのように渡にそう吐き捨てた。海の自身の記憶では、あの時の渡は「自分の痛みが分からない、能天気な男」に見えていた。


 しかし、流れ込んできた渡の記憶の真実は、海の心を激しく揺さぶった。


 あの時、ベンチで俯く海を見つめていた渡の胸の中は、張り裂けそうなほどの「悔しさ」と「怒り」で満ちていた。それは海に対する怒りではなく、親友の夢を叶えてやれない、自分自身の無力さに対する怒りだった。


(海……。お前、何言ってんだよ。お前は、こんなところで終わるような奴じゃないだろ。お前が描く船の設計図、めちゃくちゃ格好良かったじゃないか。東京に行けなかったくらいで、お前の夢が消えるわけないだろ)


 渡の視線は、海の、少し荒れて傷つき始めた手元に注がれていた。


(俺は、勉強もできないし、船を操ることしかできない。お前の代わりに設計の勉強をしてやることもできない。だけどな、海……。お前が地元で船を作るなら、俺は、お前が作った最高の船に最初に乗る漁師になってやる。お前が作った船で、この海の果てまで行って、世界一の魚を獲って戻ってきてやる。だから、そんな死んだような顔をするなよ……!)


 渡は、言葉をうまく紡げない不器用な男だった。

 だからあの時も、「バカ野郎、海は海だろ。どこにいたって、やることは変わらねえよ」と、乱暴に海の背中を叩くことしかできなかった。

 その乱暴な手のひらに込められていた、親友への絶対的な信頼と、彼の夢を自分が別の形で支えようという熱い誓いを、海は四十年後の今、初めて渡の脳を通じて受け取った。


(俺たちの航路は、ここで分かれるんじゃない。別々の場所から、同じ海を目指すんだ。海、お前が船を作れ。俺がその船を走らせる。それ以上の相棒が、どこにいるんだよ)


 渡の、魂の底からの叫びが、海の脳細胞の奥深くまで染み渡っていく。



 そして記憶は、二人が六十五歳を迎えた、五年前の二〇六一年の冬へと飛ぶ。

 この年、脳の記憶を他者に移植する「記憶移植規制法(メモリードライブ法)」が正式に施行され、社会に大きな衝撃を与えていた。


 この時期、渡は自分の体調に、ある重大な異変を感じ始めていた。

 若き日から無茶な漁を続けてきた肉体は、心臓の弁に深刻な異常を抱えており、医者からは「いつ発作が起きてもおかしくない。船を降りるべきだ」と、事実上の余命宣告に近い警告を受けていたのだ。


 渡は、その事実を海に一切隠していた。


 ある日の夜、渡は一人で公証役場のロビーにいた。

 手元にあるのは、施行されたばかりのメモリードライブの「生前同意書」と「譲渡先指定書」だった。


(もし、俺が死んだら。俺のこの、海への想い、あいつと一緒に約束した未来の続きは、誰が引き継いでくれるんだ?)


 渡の脳裏に、造船所のドックで、七十歳手前になっても油にまみれながら必死に船を作り続けている海の姿が浮かんだ。

 海は、長年の努力が実を結び、今や地域で最高峰の注文漁船の設計士となっていた。しかし、相変わらず自信なさげに、「これでいいのかな」と呟きながら、図面を引いている。


(海。お前はまだ、自分の才能を信じ切れていない。俺が傍にいて、『お前の作った船は世界一だ!』って毎日怒鳴ってやれればいいんだけど……もし、俺の命が途中で止まっちゃったら、お前はまた、あの二十代の頃みたいに、下を向いて立ち止まっちまうかもしれない)


 渡は、ペンを握り、譲渡先の欄に『茂野 海』と、力強い筆跡で記入した。


(だから、この新しい法律を使う。俺の記憶を、俺の目から見たお前の姿を、お前の中にぶち込んでやる。そうすれば、お前が迷った時、いつでも俺がお前の背中を押してやれるだろ?

『なぜ俺なんだ』って、お前は絶対に怒るだろうな。だけど、俺の全人生をかけて、一番信じている相棒はお前だけなんだよ、海。俺の七十年の記憶を、お前の作る船の『羅針盤』にしてくれ)


 ガチリ、とデジタル署名が完了し、渡の生前同意がシステムに登録される。

 役所を出た渡は、夜の冷たい風を浴びながら、フッと満足そうに微笑んだ。その笑顔には、死への恐怖など微塵もなく、ただ親友の未来を照らす灯台になれたことへの、誇らしさだけが満ちていた。


 現在の海は、シートの上で慟哭どうこくしていた。


「バカ野郎……! 渡、お前、そんな身体で船に乗ってたのかよ……! どうして言ってくれなかったんだよ! 五年も前から、俺にこれを遺す準備をしてただなんて……こんなもの遺されたら、怒ることさえできないじゃないか……!」


 渡の友情の深さが、海の心を完全に満たしていく。

 それは恐怖の侵食ではなかった。冷え切っていた海の心に、圧倒的な「命の熱量」を注ぎ込む、魂の核融合だった。




 二〇六六年、五月。

 渡の漁船は、沖合の海域で突発的な爆弾低気圧に遭遇していた。

 凄まじい暴風雨が船体を叩き、ビルの一棟分もあるような巨万の波が、行く手を阻む。エンジンの出力は限界を超え、船内には警報音が鳴り響いていた。


 渡の肉体を通じて、海はその「圧倒的な恐怖」を追体験した。

 船体が大きく傾き、海水が容赦なく操舵室に流れ込んでくる。


(クソッ、ここまでか……! 船を沈めちまう……!)


 次の瞬間、巨大な波が船を直撃した。

 激しい音を立てて船体が裂け、渡の身体は、冷たい、漆黒の海水の中へと放り出された。


(冷たい、息が、できない――)


 肺が海水を吸い込み、強烈な激痛が走る。意識が急速に遠のいていく。

 死の恐怖が渡の精神を暗黒の深淵へと引きずり込もうとする。しかし、その意識が完全に消失していく最後の数秒間、渡がその脳裏に必死で描き続けたのは、自分の人生の終わりを嘆く言葉ではなかった。


 ただ、幼い頃に二人で見つめた、あの無人島の「群青の海」の景色。

 そして、造船所で図面を引いている、海の姿だった。


(海……。俺の航海は、ここで終わりだ。

だけど、お前の航海は、これからだろ……。

俺の記憶を、お前に繋ぐ。

お前の中に、俺は生き続ける。

だから……恐れるな、海。お前が作った船で、俺たちの海を、どこまでも走れ――)


 ドクン。

 渡の心臓が、最後の、力強い鼓動を打った。

 水圧のノイズが遠ざかり、世界は完全な、美しい「群青の静寂」へと包まれていった。


 カチリ。


 接続完了を告げる、静かな電子音がセッションルームに響き渡り、光の奔流は静かに幕を閉じた。




「……茂野様。茂野様、大丈夫ですか。ドライブ、無事に終了いたしました」


 記憶管理士の、どこか感極まったような声が聞こえた。

 海は、ゆっくりと目を開けた。

 目からは、とめどなく涙が溢れ、シートを濡らし続けていた。しかし、彼の胸の中には、一週間前のような「底知れない喪失感」は、もうどこにも残っていなかった。


 今、彼の脳の奥のほうに、ハッキリと、熱い塊が存在している。

 渡の、あのバカみたいに真っ直ぐで、熱い魂が、銀色の円盤から海の心へと、完全に移り住んできたのだ。


 海はリクライニングシートから立ち上がった。

 足元がふらつくことはなかった。それどころか、自分の足が、まるで大地に深く根を張った大木のように、驚くほど力強く床を捉えているのを感じた。


「体調に、違和感はありませんか?」と、管理士が心配そうに覗き込む。


「ええ……。全く問題ありません。むしろ、これまでにないくらい、身体が軽いです」


 海は、涙を拭い、力強く微笑んだ。

 その表情からは、かつて彼を支配していた「内気で自信なさげな影」は、完全に消え去っていた。親友の七十年間という命の熱量が、海という人間の器を、一回りも二回りも大きく、強靭に作り替えていたのだ。


 病院を出ると、港町には、あの夏の日に二人で見上げたような、突き抜けるような青空が広がっていた。

 初夏の強い風が、海の白い髪を激しく揺らす。


(渡。聴こえるか?)


 海が心の中で語りかけると、脳の奥の本棚から、あの地鳴りのような大声が、ハッキリと返ってきた。


『おう、聴こえてるぜ、海! 最高の天気だな! 絶好の航海日和だ!』


 海は、そのまま自分の足で、造船所のドックへと向かった。

 事務所のデスクに座り、真っ白な新しい図面を広げる。彼は迷うことなく、シャープペンシルを握りしめ、一本の力強い線を引いた。


 それは、彼がこれから作る、新しい漁船の設計図だった。

 渡が命を懸けて守ろうとした、そして海に託した、未来の船。


 人間の肉体は、いつか必ず滅びる。しかし、二〇六一年に誕生したメモリードライブという技術は、二人の間に交わされた「友情」という名の約束を、世代を超えて永遠に死なないものへと昇華させた。


「待ってろよ、渡。お前が魂を震わせるような、世界一の船を作ってやる」


 海は、シャープペンシルを動かし続けた。

 七十歳の職人の手で引かれる線だが、そこには二人の人間の意志と、未来への確かな推進力が宿っていた。

 窓の外に広がる、どこまでも青い、美しい群青の海を見つめながら、茂野海は、親友の記憶いのちとともに、新しい航路へと、今、堂々と帆を上げた。

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