15.
朝食を終えた私は、さっそく仕事に取り掛かった。 今日のメイン業務は、2階にある大広間の「窓拭き」だ。
「よし、やるぞー!」
私は腕まくりをして、バケツと雑巾を手に取った。 この塔の窓は、普通の屋敷のそれとは少し違う。高さが3メートル近くある巨大なアーチ窓で、外には北の森の大パノラマが広がっているのだ。
「……それにしても、いい景色」
脚立に登り、高い位置のガラスをキュッキュッと磨く。 昨日の雨で空気中の塵が落ちたのか、今日の森はどこまでも深く、鮮やかな緑色をしていた。 時折、聞いたこともないような美しい鳴き声の鳥が横切っていく。
(こんなに綺麗な場所なのに、街の人たちは『人食いの森』だなんて恐れているのよね)
まあ、住んでいるのがあのクライヴ様(元勇者にして現・魔王扱い)だから仕方ないけれど。 私はガラスに息を吹きかけ、曇りを丁寧に拭き取った。
右肩の痛みはない。 胸元の紫水晶が、私の体温で温まりながら、静かな鼓動のように魔力を放っているのが分かる。 守られている。その安心感が、私の雑巾がけのリズムを軽やかにしていた。
――その時だった。
キラリ。
森の木陰、塔から数百メートルほど離れた茂みの中で、何かが一瞬だけ反射した気がした。
「……ん? 今のは……」
私は手を止めて目を凝らした。 なんとなく胸がざわつき、私は窓に顔を近づけた。
◇
――塔の外、北の森の茂みの中。
「……冗談じゃねぇぞ、こりゃ」
情報屋のガストンは、額から冷や汗を流しながら、望遠の魔道具(単眼鏡)を握りしめていた。 彼のような裏稼業の人間にとって、気配を消すことなど呼吸をするより簡単だ。 だが、この塔の周囲に張り巡らされた「結界」の圧力は、異常だった。
(一歩でも踏み込めば、即座に黒焦げだ。間違いねぇ)
ガストンは結界のギリギリ外側から中の様子を伺っていた。 単眼鏡のレンズ越しに見えるのは、大広間の窓際で忙しなく動く、ターゲットの『ルチア』だ。
「おいおい……なんだあの首飾りは」
彼女の胸元で揺れる、紫色の宝石。 そこから漏れ出る魔力は、遠く離れたこの場所までビリビリと伝わってくるほど強大だった。
「……あの『大魔導師』が、随分と入れ込んでるってのは本当らしいな」
ガストンはニヤリと笑い、さらに単眼鏡の倍率を上げようとレンズを回した。 もっと詳細な情報が必要だ。あの家政婦の表情、そして部屋の奥に誰かいないか――。
その瞬間。
『――見ているな?』
背後ではなく、脳内に直接、氷のような冷たい声が響いた。
「!?!?」
ガストンの視界が、突如として「紫色の瞳」一色に染まった。 窓の向こうにいたはずのルチアの背後に、いつの間にか「彼」が立っていたのだ。 銀色の髪。冷徹な美貌。 そして、獲物を狩る捕食者の目をした、大魔導師クライヴ。
距離にして数百メートル。 だが、クライヴは確かに、レンズ越しにガストンと「目が合った」。
『消えろ、羽虫』
パリンッ!!!!
ガストンの手の中で、高価な魔道具である単眼鏡が、内側からの圧力で粉々に砕け散った。
「う、うわあああああっ!!」
ガストンは悲鳴を上げ、プロの矜持も金貨への未練もすべてかなぐり捨て、脱兎のごとく森の奥へと逃げ出した。
◇
「……あれ? 今、何か音がしませんでしたか?」
私はふと手を止めて振り返った。
「気のせいだろう」
いつの間にか脚立の下に来ていたクライヴ様が、涼しい顔で言った。 彼は優雅にティーカップを持っていて、湯気をふぅと吹き消している。
「少し大きな枝が折れただけだ。……それよりルチア、そこは危ない」 「え? 平気ですよ、これくらい」
彼はカップを置くと、スッと右手を上げた。 すると、フワリと私の体が浮き上がり、脚立から床へと優しく降ろされた。
「掃除はもういい。そろそろ休憩にしよう」 「まだ始めたばかりですよ?」 「いいんだ。……少し、嫌な虫が飛んでいたのでな」
彼はそう言って、カーテンを半分だけ閉めた。 その背中からは、「私の領域に手出しはさせない」という、絶対的な王者の風格が漂っていた。
◇
そして数時間後。王都のバーンズ男爵邸。 ガストンの失敗報告を受けた執事のセバスは、エミルの寝室へと向かった。
コンコン。
「エミル坊ちゃん。ご報告があります」 「……入って、爺や」
薄暗い部屋で、ベッドに体を預けていた美少年が、本から顔を上げた。 色素の薄い金髪と、大きな瞳。どこからどう見ても、病弱で可憐な深窓の令息だ。
セバスは恭しく頭を下げ、事実を告げた。
「偵察は失敗しました。クライヴの防衛網は鉄壁です。 どうやら彼は、ルチアお嬢様に強力な『守護石』を持たせ、塔全体を結界で覆っているようです」
その報告を聞いた瞬間、エミルの瞳が不安げに揺れた。
「え……守護石?」
彼は布団をギュッと握りしめ、震える声で言った。
「それって……魔術師が、誰かを支配するために使う道具じゃないの? 姉さん、騙されているんじゃ……。あんな森の奥に閉じ込められて、洗脳されているんじゃ……」
「いえ、情報によれば『守り』の石のようですが……」
「でも! 怖くてたまらないんだ」
エミルは目に涙を溜めてセバスを見上げた。 そこには、大切な姉を案じる純粋な愛しかなかった。 ――ように見えた。
「僕、姉さんに会いたい。 直接会って、無事かどうか確かめたいよ……っ。ゲホッ、ゲホッ!」
「坊ちゃん! お気を確かに!」
激しく咳き込むエミルの背中を、セバスが慌ててさする。 エミルは苦しげに息を整えながら、か細い声で呟いた。
「……ねえ、爺や。僕、馬車で塔まで行けるかな? 姉さんを迎えに行きたいんだ」
「無茶です! そのお体では、北の森までの長旅など到底耐えられません!」
「だよね……。僕がこんなに弱いから……姉さんを助けに行くこともできない……」
エミルは悔しげに唇を噛み締めた。 その姿に、セバスは(流石は王家直属の密偵でも)ほだされそうになるほどの「哀れさ」があった。
「……そうだ、爺や。 近々、王宮で『建国記念の舞踏会』があるよね?」
「は、はい。招待状は届いておりますが」
「僕、今年は頑張って出席しようと思うんだ。男爵家の当主代理として」
エミルは健気な笑顔を作った。
「でも、僕一人じゃ不安だし、倒れちゃうかもしれない。 だから……『姉さんに付き添いをお願いしたい』って手紙を出してくれる? 公的な行事なら、あの大魔導師様も、姉さんを外出させてくれるはずだよ」
「なるほど……。それならば、お嬢様も断りますまい」
「うん。久しぶりに姉さんに会えるね。嬉しいな……」
エミルは無邪気に微笑んだ。 セバスは「すぐに手配いたします」と一礼し、部屋を出て行った。
パタン。
扉が閉まり、足音が遠ざかる。 静寂が戻った寝室で、エミルはゆっくりとベッドから起き上がった。
その瞬間。 先ほどまでの「可憐な弟」の表情が、剥がれ落ちるように消え失せた。
「……チッ。面倒くさいな」
彼は冷ややかな手つきで、枕元の花瓶に飾られた花を指先で枯れさせた。
「『守護石』だって? 余計なことをしてくれるね、勇者様。 あれのせいで、僕の声(呪い)が届かなくなったわけか」
エミルの瞳が、赤く妖しく明滅する。
彼が塔へ直接行かない理由は、体が弱いからではない。 今の不完全な覚醒状態では、勇者のテリトリーである塔の中で勝てる見込みがないからだ。 それに、もし塔へ押しかけて、ピンピンしている姿を見せれば「病弱な弟」という最大の武器(演技)がルチアにバレてしまう。
「だから、引っ張り出すんだよ」
彼はクスクスと笑い、枯れた花を握りつぶした。
「塔の結界の外……煌びやかな王宮なら、勇者も油断する。 久しぶりの再会だ。たっぷり甘えて、抱きついて……。 ゼロ距離で、あの忌々しい守護石を砕いてあげる」
弟の仮面を被った魔王は、愉悦に歪んだ笑みを浮かべた。
「待っていてね、姉さん。 舞踏会の夜、君は僕の手を取るんだ。……永遠にね」




