14.
翌朝。 私は、宿屋の硬いベッドの上で、小鳥のさえずりと共に目を覚ました。
「……んんっ」
大きく伸びをする。 いつもなら、朝起きると同時に右肩に走るズキズキとした鈍痛が、今日は嘘のように消えていた。 胸元に触れると、ひんやりとした硬質な感触がある。 クライヴ様がくれた、紫水晶のネックレスだ。
「……すごい。本当に痛くない」
洗面台の鏡を覗き込むと、右肩の禍々しい痣は、薄い紫色に落ち着いていた。 まるで、アメジストの聖なる輝きが、痣の毒素を吸い取ってくれているようだ。
(ありがとう、クライヴ様)
私は石をギュッと握りしめ、感謝の気持ちを込めた。 弟のエミルにも、お給料が入ったことを手紙で伝えたし、送金も済ませた。 あの子もきっと、美味しいものを食べて元気になっているはずだ。 私は鼻歌交じりに着替えを済ませた。
コン、コン。
身支度が終わったタイミングを見計らったように、窓ガラスが叩かれる。
「おはよう、ルチア。迎えに来たぞ」
カーテンを開けると、そこには今日も今日とて、朝の光を背負ってキラキラと輝くクライヴ様が浮いていた。 当然のように窓から入室してくる。
「おはようございます、クライヴ様。……あの、普通に玄関から来てくださいよ」 「何を言う。ここが最短ルートだ」
彼は悪びれもせず、私のそばに寄ると、当然のように私の髪をかき上げ、首筋――ネックレスと痣のあたりを確認した。 その指先が肌に触れ、背筋がゾクゾクする。
「……うん。石の輝きも澄んでいる。 」
彼は何かを確認するように私を見つめてくる。 私は赤面しそうになるのを堪えながら、彼の手を取った。
「はいはい。じゃあ、今日も塔までお願いしますね」 「うむ。しっかり掴まっていろ」
ヒュンッ、と景色が歪む。 宿屋の一室から、一瞬にして塔のキッチンへ。 通勤時間ゼロ秒。世界一快適な職場への移動だ。
◇
到着するなり、私はエプロンをつけて朝食の準備を始めた。 今日のメニューは、昨日の残りの硬くなったバゲットを使ったフレンチトーストだ。 卵と牛乳、砂糖を混ぜた液にたっぷりと浸し、バターを溶かしたフライパンでじっくりと焼く。
ジューッ……。
甘く香ばしい匂いが部屋いっぱいに広がる。
「……いい匂いだ」
テーブルについたクライヴ様が、空腹を訴える子供のように目を輝かせている。 その瞳は、私の胸元のネックレスと同じ、美しいアメジスト色だ。
「焦げちゃいますから、そんなに見つめないでください」 「見つめているのはパンではないのだがな……」
彼は不満そうに呟きつつ、出来上がったフレンチトーストを食い入るように見つめた。 正確には、フレンチトースト越しに私を見ているような、熱っぽい視線だ。
「……ルチア。君が焼いたパンなら、私は一生これだけで生きていける」 「栄養失調になりますから、野菜も食べてくださいね」
私は彼の甘い言葉を(照れ隠しで)スルーして、皿をテーブルに並べた。 平和だ。 国王や教会が介入してきたとは思えないほど、穏やかな朝食。 この幸せな時間が、ずっと続けばいいのに。
けれど、クライヴ様がふと、窓の外――遠く霞む王都の方角を見て、目を細めたのを私は見逃さなかった。 その瞳が一瞬だけ、昨日国王に向けたような鋭い光を宿した気がしたからだ。
◇
――その頃、王都の裏路地にある酒場「隻眼の鴉」。 昼間から薄暗く、紫煙が漂うその店に、場違いなほど身なりの良い老人が一人、カウンターに座っていた。 バーンズ家の執事、セバスである。 彼は震える手で、金貨が詰まった革袋をテーブルに置いた。
「……これで、頼めるかね?」
その対面に座っていたのは、フードを目深にかぶった小柄な男だった。 男は金貨の袋を手に取り、ジャラリと重さを確認すると、ニヤリと口元を歪めた。
「へェ……。こりゃあ豪勢だ。 貧乏貴族の執事さんが、なけなしの財産をはたいて何の用だい?」
「人探し……いや、調査だ。 我が家のルチアお嬢様が、ある『魔法使い』の元で働いている。 その魔法使いが何者なのか、お嬢様に危険はないのか……エミル坊ちゃんが心配されておるのだ」
セバスは、エミルから渡されたメモを男に差し出した。 そこには、ルチアからの手紙にあった勤務先――「北の森の塔」と記されている。
フードの男、情報屋のガストンはメモを見た瞬間、表情を凍りつかせた。
「……おい、爺さん。本気か? 北の森の塔って……そこは、あの『大魔導師クライヴ』の住処だぞ」 「お嬢様が……あの大魔導師の元に!?」 「ああ。命知らずな依頼だが、この金額は魅力的だ。引き受けるぜ」
ガストンは金貨を懐にしまい、足早に店を出て行った。
その背中が見えなくなるまで見送った後。 セバスはゆっくりと手元の安酒を煽った。 その瞬間、彼の背中から「よぼよぼの老執事」の雰囲気が消え失せた。 瞳には冷徹な光が宿り、震えていたはずの手指は、恐ろしいほど静止している。
「……やれやれ。厄介なことになりましたな」
彼は懐から小さな通信用の魔道具を取り出し、誰にも聞こえない声で囁いた。
「――『烏』より『鷲』へ。定期報告」
通信の相手は、この国の頂点。国王アレクセイだ。 そう、セバスはただの執事ではない。 ルチア達兄弟が生まれる前から、国王アレクセイの命を受け、没落寸前のバーンズ男爵家に潜入した王家直属の諜報員である。
「対象『弟』に、覚醒の兆候あり。 先ほど、彼が外部から空間魔法によって転送された金貨を受け取るのを確認しました。 魔力の残滓から推測するに……送り主は『大魔導師クライヴ』。そして、その金貨を使って、エミルは姉の身辺調査を私に命じました」
セバスは酒場の喧騒に紛れ、冷ややかに報告を続ける。
「エミル坊ちゃんの病弱な演技は見事ですが、その瞳の奥にあるものは、ただの子供ではありません。 陛下が危惧されていた通り……バーンズ家の血筋には『何か』が混ざり込んでいるようです。陛下はすべて知っておられるとは思いますが…」
彼は空になったグラスを置き、深々と息を吐いた。
老執事の皮を被った密偵は、静かに席を立った。 忠実な執事として、歪んだ弟の元へ帰るために。 そして、全てを見通す王の「目」として、この悲劇かもしれない行く末を見届けるために。




