13.
ところ変わって、バーンズ男爵領。
あばら家同然の屋敷の一室で、その少年はベッドに横たわっていた。
「……ゲホッ、ゲホッ」
エミル・バーンズ。15歳。
透き通るような白い肌と、色素の薄い金髪を持つ美少年だ。
彼は生まれつき体が弱く、一日の大半をベッドの上で過ごしている――というのは、表向きの姿だ。
シュンッ。
突如、部屋の空間が歪み、一通の封筒と、ジャラジャラとした重みのある袋が宙から落ちてきた。
ベッドの脇にドサリと落ちたそれらを、エミルは無表情に見下ろした。
「……空間転移?」
彼はゆっくりと上半身を起こした。
その瞳は、病弱な少年のものではなく、数百年の時を経た老獪な支配者の光を宿していた。
エミルは封筒を拾い上げた。
微かに残る転移魔法の残滓。
その匂いを嗅いだ瞬間、彼の手がピクリと止まった。
「……なんだ、これは」
背筋が凍るような、懐かしさ。
そして、かつて自分を最も苦しめた、忌まわしい記憶が蘇る。
「この魔力の波長……。まるで、三百年前の『エレナ』そのものではないか」
エミル――かつての「魔王」は、目を細めて震える封筒を睨みつけた。
間違えるはずがない。
自分の肉体を消滅させ、その魂を削り合った宿敵の魔力。
繊細で、鋭利で、どこまでも澄んだ冷たい魔力だ。
だが、おかしい。
エレナの生まれ変わりである姉・ルチアは、まだ覚醒していない。今の彼女に魔法は使えないはずだ。
ならば、この転移魔法を行使したのは誰だ?
姉の手紙を送ってきた、この「ご主人様」とかいう人物だ。
「なぜだ……? なぜ、赤の他人が『彼女』と同じ魔力を使える?」
混乱がエミルの思考を駆け巡る。
エレナの魔法は独特だった。常人には真似できない構成と出力。
それをこれほど完璧に再現できる者がいるとすれば、それは世界にただ一人。
――彼女の隣で、常にその背中を守り続けていた、あの銀髪の男(勇者)だけだ。
「まさか……」
エミルの顔から血の気が引いた。
あいつか?
姉さんが転がり込んだ先は、よりによってあの「元勇者」の元なのか?
そしてあいつは、死んだエレナを忘れられずに、彼女の魔法を模倣して使い続けているというのか?
(まずい……。非常にまずいぞ)
彼がルチア(エレナ)に執着する理由は、単なる復讐ではない。
もっと根源的な、魂の「渇望」ゆえだった。
――魔王とは、孤独な生き物だ。
強大な力と引き換えに不老不死に近い寿命を持ち、肉体が朽ちても、魂は朽ちない、愛した者たちが老いて死んでいくのを、ただ見送るだけの存在。
何千年もの間、彼はたった一人で玉座に座り続けてきた。
けれど、エレナだけは違った。
彼女にはあったのだ。人間でありながら、魔王である自分と同等の――いや、それをも凌駕するかもしれない、底知れない闇と魔力の「器」が。
「探していたんだ。僕と共に、悠久の時を生きられる存在を」
エミルは歪んだ、しかしどこか縋るような笑みを浮かべた。
人間は脆い。すぐに死ぬ。
けれど彼女なら。彼女がその「素質」を開花させ、魔王へと覚醒すれば……彼女は人間を辞め、僕と同じ「永遠」を生きる存在になれる。
だからこそ、彼は幼い時から、彼女に少しずつ「過去の記憶」を夢として見せ、精神を蝕み、彼女の中の「魔王の種」を発芽させようとしていたのだ。
彼女をこちらの世界(永遠)へ引きずり込むために。
それなのに。
(……繋がり(パス)が、薄くなっている?)
エミルは目を閉じ、姉の魂に刻んだ「刻印」を探った。
いつもなら、彼女の存在が流れ込んでくるはずなのに。
今はまるで、エレナの魔力によく似た、温かい光の結界に守られ、僕の手が及ばない。
「あいつだ……。勇者が、姉さんを囲い込んでいる」
エミルは確信と共に、ギリリと歯軋りをした。
あいつは正義の味方だ。姉さんを「人間」として守ろうとするだろう。
そんなことをされたら、姉さんは数十年で老いて死んでしまう。僕を置いて逝ってしまう。
(許さない。僕のものまた、正義ごときで奪わせるものか)
姉さんは魔王になるんだ。
そして僕と二人きりで、今度こそ終わりのない時を過ごすんだ。
「……取り戻さなくては」
エミルは瞳を赤く発光させ、金貨の袋を握りつぶした。
焦りが募る。
だが、手元には金貨の山がある。姉が(おそらく勇者が)送ってきた大金だ。
皮肉なことに、この金が僕の「手足」となる。
「……エミル様?」
部屋の物音を聞きつけたのか、老執事が顔を出した。
エミルは瞬時に表情を変え、儚げな病弱少年を演じた。
「あ、爺や……。ごめんね、大きな音を立てて」
「おお、なんと! この金貨は……!?」
「姉さんから送られてきたんだ。……でも、僕、心配なんだ」
エミルは瞳に涙を溜め、演技がかった声で訴えた。
「こんな大金……姉さん、何か危ないことに巻き込まれているんじゃないかな?
この封筒から、すごく怖い魔術師の気配がするんだ……」
「な、なんと……! ルチアお嬢様が!?」
「爺や、お願い。このお金で王都の『情報屋』を雇って。
姉さんがどこの誰に仕えているのか……詳しく調べてほしいんだ」
老執事は「仰せのままに! すぐに手配いたします!」と、使命感に燃えて部屋を飛び出していった。
一人残されたエミルは、涙を拭い去り、冷ややかな目で窓の外の王都の方角を睨みつけた。
「待っていてね、姉さん。
勇者なんかより、弟の僕の方がずっと姉さんを愛している。
……人間として死なせたりなんてしない。僕と一緒に、永遠に生きてもらうからね」
薄暗い部屋に、少年の歪んだ愛と独占欲が満ちる。
彼は、最強のライバルである「元勇者」の影に気づいてしまった。
姉を巡る、かつての英雄と魔王の第二ラウンドが、静かに幕を開けようとしていた。




