12.
それから数日が過ぎた。
私の生活は、劇的に変化していた。
まず、あの「夢」を見なくなった。
昔から――物心ついた頃から、たまに見る不思議な夢があった。
いつも霧がかかったようにぼんやりしていて、起きると内容は忘れてしまう。
ただ、「とても寒くて、とても悲しい」という感情と、雪の白さだけが残る夢。
それが、大人になるにつれて、少しずつ鮮明になってきていたのだ。
特にここ最近は、映像の輪郭がはっきりとしてきていた。
――視界を埋め尽くす白い雪。
――私に突き刺さる剣、銀色の髪の誰か。
――その人は、私に何かを叫んでいて、泣いていて……。
(あと少し……あと少しで、顔が見えそうだったのに)
宿屋のベッドで目覚めた私は、胸元の紫色の宝石を握りしめ、小さくため息をついた。
クライヴ様からいただいた「聖紫石」のネックレスをつけて以来、あの夢はピタリと止まった。
おかげで、寝汗をかくこともなく、朝の目覚めは最高だ。
怖い夢だし、悲しい夢だ。見なくなって清々したはずなのに。
「……誰だったんだろう」
最後に見えそうだったあの人の顔が、気になって仕方がない。
怖い夢のはずなのに、二度と会えなくなってしまったような気がして――私はなんだか少しだけ、悔しかった。
「……ま、いっか。元気になったんだし!」
私は頭を振って未練を追い払うと、ネックレスにそっと口づけをしてベッドから起き上がった。
彼のおかげで、私は今日も「普通のルチア」として生きていけるのだから。
◇
その日の午後。
塔での家事がひと段落した休憩時間、私はキッチンの隅でペンを執っていた。
「……よし、これでいいかな」
書き上げたのは、実家にいる弟への手紙だ。
バーンズ男爵家は貧乏だ。父は人が好すぎて借金の保証人になるし、母は病弱。
家計を支えるために私が出稼ぎに出ている間、屋敷の管理や両親の世話をしてくれているのが、二つ下の弟・エミルだった。
『親愛なるエミルへ。
変わりはありませんか? お父様はまた変なツボとか買わされていませんか?
私は元気です。新しい職場は……その、ちょっと変わったご主人様だけど、待遇は最高です』
私はペン先を止め、サロンの方をチラリと見た。
そこでは「変わったご主人様(世界最強の魔導師)」が、私の淹れた紅茶を飲みながら、優雅に脚を組んで読書をしている。
長い銀髪が光を受けてきらめき、アメジスト色の瞳が知的に伏せられている。
……夢の中の「銀色の髪の誰か」と彼が重なるような気がして、私は慌てて視線を逸らした。
(まさか「魔王」に仕えてるとは書けないわよね……)
エミルは真面目で心配性だ。そんなことを書いたら、卒倒して飛んでくるかもしれない。
『ご主人様は、とても……ええと、情熱的な方です。
お給料の前借りも快く許してくれました。
同封した為替で、屋敷の雨漏りを直してください。あと、お母様に栄養のあるものを』
私は封筒に手紙と、初日にいただいた「金貨一枚」分の為替証書を入れた。
これだけあれば、しばらくは家族も安泰だ。
あとは、帰りに街の郵便ギルドへ出しに行けば――。
「――何を書いているんだ?」
不意に背後から甘い声がして、私は「ひゃうっ!?」と変な声を出して飛び上がった。
「く、クライヴ様! 気配を消して近づかないでください!」
「すまない。君があまりに真剣な顔をしていたから、つい見惚れてしまってな」
彼は悪びれもせず、整った顔を寄せて覗き込んできた。
アメジスト色の瞳が、私の手元の封筒を捉える。
「手紙か? 誰にだ?」
「えっと、実家の弟にです。お給料を少し送ろうと思って」
クライヴ様が少し意外そうに眉を上げた。
「はい。エミルといって、二つ下なんです。体が少し弱いんですが、頭のいい子で」
「ふうん……」
彼は興味なさげに――いや、少しだけ面白くなさそうに目を細めた。
私以外の男(たとえ弟でも)の話をするのが気に入らないらしい。子供か。
「で、それを出しに行くのか?」
「はい。仕事上がりに郵便ギルドへ行こうかと」
「必要ない」
彼は私の手から封筒をヒョイっと取り上げると、人差し指を立てた。
「私が送ってやろう」
「えっ? いえ、そんな悪いですよ! それに切手も貼ってないし」
「切手などいらん。空間転移で直接届ければ、一秒で終わる」
彼は事もなげに言うと、封筒に魔力を込めた。
「宛先は『バーンズ男爵邸』でいいな? 受取人はエミル・バーンズ」
「え、ちょ、ちょっと待っ――」
止める間もなかった。
シュンッ!
私の手紙は、紫色の光に包まれて空中に消滅した。
「はい、配送完了だ。
ついでに、屋根の修繕費として金貨を五枚ほど追加しておいたぞ」
「ごっ、五枚ぃぃぃぃっ!?」
私は絶叫した。
金貨五枚といったら、一般家庭の年収に近い。
雨漏りを直すどころか、建て直しもできちゃう!
「な、何してるんですか! エミルが腰を抜かしちゃいますよ!」
「君の家族だろう? ならば私の家族も同然だ。
それに、君が金策のために悩む時間を減らせば、その分、私を見てくれる時間が増えるだろう?」
彼は「完璧な論理だ」と言わんばかりにドヤ顔をした。
(……この人、本当に規格外すぎる)
でも。
その強引な優しさが、今はどうしようもなく温かい。
夢の続きが見られなくなった寂しさも、実家の貧困も、彼はいとも簡単に吹き飛ばしてくれた。
「……ありがとうございます、クライヴ様。
でも、次からは相談してくださいね。心臓に悪いので」
「善処しよう。……さて、仕事に戻るか」
彼は満足そうに笑うと、サロンへ戻っていった。
私は胸元のネックレスを握りしめ、遠い空の下にいる弟に心の中で語りかけた。
(ごめんね、エミル。
姉さんの就職先、とんでもないところだったみたい。
でも……悪い人じゃないの。ちょっと愛が重くて、魔法が強すぎるだけなのよ)
平和な午後。
悪夢も消え、家族の心配もなくなった。
この幸せな時間が、ずっと続けばいいのに。




