11.
「……立てるか、ルチア」
クライヴ様が、へたり込んでいた私に手を差し伸べた。 私はその大きな手を借りて、よろよろと立ち上がった。
「ありがとうございます。……はぁ、寿命が十年くらい縮まりました」 「すまない。アレクセイの奴、昔からサプライズが好きでな。悪趣味な古狸め」
彼は忌々しげに吐き捨てたが、その声音にはどこか、古い友人に対する諦めのような響きもあった。
「それにしても、あの求人が国王陛下の差し金だったなんて……。 どうして王様が、私みたいな貧乏貴族を知っていたんでしょう?」
私が首を傾げると、クライヴ様は一瞬だけ視線を泳がせた。
「……あいつは暇人だからな。国内の戸籍を眺めるのが趣味なんだろう」 「そんな地味な趣味の王様、嫌ですけど」
彼は「とにかく」と強引に話題を変えると、不意に私との距離を詰めてきた。 長い銀髪がさらりと揺れ、甘い香りが鼻孔をくすぐる。
「君がここに来た経緯がどうあれ、今、君がここにいるという事実が重要だ。 ……君は、迷惑だったか? 私のようなやつの世話係にさせられて」
彼は私をソファの背もたれに追い込むようにして、至近距離から覗き込んできた。 長い睫毛に縁取られた、宝石のようなアメジスト色の瞳。 そこには、拒絶を恐れる憂いと、大人の男の色気がたっぷりと湛えられている。
(……っ、近い!)
心臓がドキンと跳ねた。 この人、自分が美形だということを完全に理解してやってる。 さっき教会や王様に見せていた「冷酷な支配者」の顔とは違う、とろけるような甘い視線。 こんな顔で迫られたら、どんな女性だって「No」とは言えないじゃない。
(顔が良いって、暴力だわ……)
私は顔が熱くなるのを感じながら、視線を逸らさないように必死で答えた。
「め、迷惑なわけないじゃないですか。時給はいいし、職場環境は快適だし」 「そうか……よかった」
彼がふわりと微笑んだ。 その破壊力たるや、戦略級魔法並みだ。
「それに……クライヴ様の作る紅茶、私大好きですから」 「……ふっ。そうか」
彼は満足げに目を細めると、色気たっぷりに唇を舐めた。
「なら、とびきり美味い一杯を淹れてやろう。君を酔わせるくらいのな」
彼は上機嫌でキッチンへと向かっていった。 残された私は、ソファに沈み込みながら大きく息を吐いた。 ……危ない。給料以上の労働(精神的負荷)をさせられている気がする。
◇
数分後。 私たちは再びサロンのソファに向かい合って座っていた。 湯気を立てる紅茶の香りに包まれて、ようやく人心地つく。
けれど。
(……痛い)
カップを持つ手が、震えそうになるのを必死で堪えていた。 右肩だ。 さっきグレンダ様に睨まれた時よりも、さらに強く、深く疼いている。 ズキン、ズキンと脈打つたびに、あの雪山での幻聴――『魔王へと繋がる贄の印』という言葉がリフレインする。
(顔に出しちゃダメ。クライヴ様に心配かけちゃう)
私が無理やり笑顔を作って紅茶を飲もうとした、その時だった。
「――ルチア」
コトッ、とクライヴ様がカップを置いた。 彼は真剣な眼差しで、懐から小さな小箱を取り出した。
「これを受け取ってほしい」 「え? プレゼントですか?」 「ああ。……少し早いが、給料の前払いボーナスだと思ってくれ」
彼が開けた小箱の中には、深く澄んだ紫水晶がついた、銀のネックレスが入っていた。 その宝石は、まるでクライヴ様の瞳の色をそのまま結晶化させたかのように妖艶に輝き、強い魔力の光を帯びていた。
「綺麗……。クライヴ様の目の色と同じですね」 「ああ。私の魔力を込めた特注品だ。 つけてくれ。肌身離さず、寝る時もお風呂の時もだ」
彼は立ち上がると、私の背後に回り、そっと私の首にネックレスをかけてくれた。 冷たい銀のチェーンが首筋に触れ、紫の宝石が鎖骨のあたり――ちょうど右肩の痣に近い場所に収まる。
その瞬間。
スーッ……。
「あ……」
嘘のように、右肩の熱と痛みが引いていった。 まるで、冷たい水が患部を洗い流してくれるような、不思議な感覚。 あのドス黒い脈動が、静かな凪へと変わっていく。
「これは……?」 「『聖紫石』だ。 あらゆる悪意や呪いを中和し、持ち主の魂を守護する効果がある」
彼は私の肩に手を置き、耳元で囁いた。 その低い声が、直接鼓膜を震わせて甘く響く。
「教会の連中はしつこい。また何癖をつけてくるか分からないからな。 これをしていれば、外部からの干渉も、精神攻撃も防げるはずだ」
(……守ってくれてるんだ)
私は胸元の石を握りしめた。 彼は「教会の干渉を防ぐため」と言ったけれど、この石が真っ先に鎮めたのは、私の右肩の「魔王の呪い」だった。 もしかしたら、彼は気づいているのかもしれない。私が何かに蝕まれていることに。 それでも何も聞かず、ただ守ろうとしてくれている。
「……ありがとうございます、クライヴ様。大切にします」 「ああ。君を守れるなら、私の魔力のすべてをその石に込めても惜しくはない」
彼は愛おしそうに私の髪を一房すくい上げ、口づけを落とした。 その仕草があまりにも自然で、そしてあまりにも美しくて、私はまたしても胸が高鳴るのを止められなかった。
こうして、私は「王家」からの就職斡旋と、「魔王」からの守護石という、とんでもなく重たい二つの事情を抱えることになった。 私の痣が繋がっている「魔王」。 そして、教会が危惧していた「闇魔法」。 平穏に見えるティータイムの裏で、かつて世界を二分した光と闇の因縁は、確実に私の足元まで忍び寄っていたのだ。
――その頃。 塔を去った馬車の中で、聖女グレンダはある「確信」を得て、震える手で報告書を認めていた。
「間違いない……。あの娘の右肩から感じた、おぞましい気配。 あれは『魔王の種』だ。 クライヴは、あの娘を愛しているのではない。……あの娘を『贄』として、魔王を復活させようとしているのだわ……!」
聖女の大きな勘違い(ある意味では鋭い洞察)が、事態をさらなる混沌へと導こうとしていた。




