10.
サロンの空気は、張り詰めた弓のようだった。
「――どいていただけますか、家政婦さん」
聖女グレンダ様が、冷ややかな瞳で私を見下ろす。 背後では、クライヴ様の手からバチバチとどす黒い雷が溢れ出し、今にも暴発しそうだ。
「どきません。ここを戦場にするなら、まず私を倒してからにしてください」
私が両手を広げて立ちはだかると、グレンダ様は呆れたように鼻で笑った。
「勇敢なことですね。平民の娘が、聖教会の枢機卿に盾突くとは」 「平民じゃありません。一応、これでも男爵家の娘です」 「……は?」
私が言い返すと、彼女はきょとんとした。
「男爵家? 貴女のような身なりの娘が?」 「ええ。バーンズ男爵家の長女、ルチアです。 まあ、借金まみれで屋敷もボロボロの、平民以下の生活水準ですけどね!」
私がヤケクソ気味に胸を張ると、サロンの入り口から、パチパチパチ……と優雅な拍手の音が響いた。
「ハハハ! 素晴らしい。 借金まみれをそこまで堂々と宣言できる貴族など、余は初めて見たぞ」
「「「!?」」」
全員が振り返る。 いつの間にか開け放たれた扉の向こうに、豪奢なマントを羽織った、金髪の初老の男性が立っていた。 その背後には、教会の聖騎士たちを制圧し、道を空けさせている近衛兵たちの姿がある。
その男性の胸元に輝くのは、この国の最高権力を象徴する「王家の紋章」だった。
「こ、国王陛下……!?」
グレンダ様が慌てて膝をつく。 私も、そしてなんとなく察したクライヴ様(不機嫌そう)以外の全員が、その場に平伏した。
この国の支配者、国王アレクセイ陛下その人だった。
◇
「面を上げよ。ここはお忍びだ」
国王陛下は、まるで友人の家に遊びに来たような気楽さでサロンに入ってきた。 そして、まだ床に膝をついているグレンダ様を見下ろし、静かに言った。
「グレンダよ。余は以前、教会に通達したはずだぞ。 『大魔導師クライヴの塔は不可侵領域とする。彼には一切干渉しない』とな」
「し、しかし陛下! 昨日、黒竜が消滅するという異常事態が……! これは明らかに闇魔法の――」
「それがどうした」
陛下は軽く手を振って、彼女の言葉を遮った。
「竜が消えたのなら、めでたいことではないか。 誰がやったかなど些細な問題だ。それとも教会は、国を脅かすドラゴンよりも、国を守る魔導師を排除したいと申すか?」 「っ……」
グレンダ様が言葉に詰まる。 陛下はニッコリと笑ったが、その目は笑っていなかった。
「下がりなさい。クライヴは余の管轄だ。教会が勝手に審問することは許さん」 「……御意」
グレンダ様は悔しげに唇を噛み締めると、私とクライヴ様を一睨みして、バサリと法衣を翻した。
「……今日は引き上げます。ですが、忘れないでください。 神の目はごまかせても、私の目はごまかせませんよ」
捨て台詞を残し、彼女と聖騎士たちは嵐のように去っていった。
◇
静寂が戻ったサロンで、私はホッと息をついた。 助かった。 けれど、もっとヤバい人が残っている。
「……何の用だ、アレクセイ」
クライヴ様が、王相手に「呼び捨て」&「タメ口」で話しかけた。 私は心臓が止まるかと思った。
「不敬ですよクライヴ様! 相手は国王陛下ですよ!?」 「構わんよ、バーンズ男爵令嬢。 こいつとは、腐れ縁というやつでな」
陛下は楽しそうに笑うと、私の顔をじっと覗き込んだ。
「ふむ……。近くで見ると、やはり似ているな」 「へ?」 「いや、独り言だ」
陛下は意味深に頷くと、爆弾発言を投下した。
「実はな、ルチア嬢。 今日ここへ来たのは、他でもない。君の顔を見るためだ」
「……はい?」
私は素っ頓狂な声を上げた。 国王が? わざわざ塔まで? 私を見るために?
「君の実家……バーンズ男爵家に、その『家政婦』の求人票を送ったのは、実は余なのだよ」
「はぁぁぁぁぁっ!?」
驚愕のあまり、私は大声を上げてしまった。 あの破格の条件の求人。 てっきりクライヴ様が出したものだと思っていたけれど……。確かに、最初追い出されそうになったな…
「余が、長年引きこもっているこの偏屈な友人を心配してな。 彼にふさわしい世話係を探していたのだ。 そこで白羽の矢が立ったのが、貧乏だが働き者で評判の、バーンズ家の長女である君だったというわけだ」
陛下はウィンクしてみせた。
(嘘だ……)
私は直感した。 働き者だから? そんな理由で、国王がわざわざ特定の下級貴族を指名するわけがない。 この人には、何か別の意図がある。
「……うまく馴染んでいるようだな。 クライヴ、彼女の働きぶりはどうだ?」 「最高だ。彼女以外の家政婦など考えられん」
クライヴ様が即答し、私の腰を引き寄せる。
「そうかそうか。それはよかった。 余の『見立て』は間違っていなかったようだな」
陛下は満足げに頷くと、私に向き直った。
「ルチア嬢。これからも彼を頼むぞ。 この気難しい『魔王』の手綱を握れるのは、世界で君だけかもしれんからな」
その言葉には、ただの依頼以上の重みが込められていた。 まるで、私がこの塔にいなければならない「運命的な理由」を知っているかのような。
「……はい。お給料分は働きます」
私が緊張しながら答えると、陛下は「うむ」と笑い、踵を返した。
「では、余は城に戻る。 クライヴ、あまり教会を刺激するなよ。……特に『あの件』に関してはな」
陛下が近衛兵と共に立ち去ろうとした、その時だった。
「――待て、アレクセイ」
クライヴ様が、低く鋭い声で呼び止めた。 「なんだ?」 「……とぼけるな。 どうやって見つけた?」
クライヴ様は、陛下の肩を掴むようにして詰め寄った。 ルチアには聞こえないほどの、低い声で問い詰める。
「この国には何千という貴族がいる。没落寸前の家などごまんとある。 その中から……よりによって、なぜ『彼女』を見つけ出せた? 偶然の一言で片付けられる話ではないぞ」
クライヴ様の瞳が怪しく光る。 「彼女」――すなわち、死んだエレナと同じ魂を持つ女性を、なぜピンポイントでこの塔へ送り込めたのか。 それを偶然と言うには、あまりにも出来すぎていた。
陛下は少しも動じることなく、静かに微笑んだ。
「……王家には王家の『目』があるということだ」 「王家の秘匿書庫か? それとも、あの禁じられた『星読み』を使ったか?」 「さあな。だが、結果として余の見立ては正しかっただろう?」
陛下はチラリと、不安そうにこちらを見ている私に視線を投げた。
「三百年の孤独に狂いかけていた友人を救える薬は、世界中を探しても『彼女』しかいないからな。 ……感謝してくれよ、親友?」
「…………チッ」
クライヴ様は苦々しげに舌打ちをし、手を離した。 陛下は「ではな」と軽く手を振り、今度こそ風のように去っていった。
残されたのは、私とクライヴ様だけ。 私はどっと力が抜けて、その場に座り込んだ。
「……なんなんですか、もう」 「すまない、ルチア。疲れただろう」
クライヴ様が気遣わしげに私の肩を抱く。 けれど、私の頭の中は疑問でいっぱいだった。
なぜ、国王陛下が私を選んだのか。 そして、陛下が言っていた「あの件」とは?




