9.
翌朝。 石造りの古い宿屋の一室で、私は身支度を整えていた。 木製の雨戸の隙間から、薄暗い朝の光が差し込んでいる。
コン、コン。
格子窓が、外から叩かれた。
「おはよう、ルチア。迎えに来たぞ」
鍵を開けて窓を押し開くと、そこには朝日を背に、漆黒のローブをなびかせたクライヴ様が浮いていた。 街並みを眼下に見下ろす姿は、まさに物語に出てくる魔法使いそのものだが、やっていることはただのストーキングに近い過保護な送迎だ。
「おはようございます……って、まだ朝の鐘も鳴っていませんよ? 塔までは歩いて行けますから、わざわざ来なくても」 「何を言っている。昨日の今日だぞ」
彼は窓枠に手をかけ、当然のように部屋へ侵入してくる。
「私が目を離した隙に、またドラゴンやら何やらが君を攫いに来たらどうする。 私が毎朝迎えに来て、帰りは送っていく。決定事項だ」
有無を言わせぬ迫力だ。 どうやら昨日の雪山での一件が、よほどのトラウマになっているらしい。 私はエプロンの紐を締め直しながら、ため息まじりに頷いた。
「分かりました。では、お願いします」 「うむ。しっかり掴まっていてくれ」
彼は嬉しそうに私の腰を抱き寄せると、転移魔法の詠唱を紡いだ。 視界が歪み、一瞬にして宿屋の景色が消え去る。 馬車も徒歩も必要としない、この世界で最も贅沢な通勤手段である。
◇
一瞬で、塔の正門前にある石畳の広場に到着した。 はずだった。
「……あ?」
着地した瞬間、クライヴ様の喉から不機嫌そうな唸り声が漏れた。 塔の正門前には、見慣れないものが停まっていたのだ。
4頭立ての白馬に引かれた、巨大な箱馬車。 漆塗りの車体には金箔の装飾が施され、扉には「聖なる十字と杖」の紋章――この大陸で絶大な権力を持つ『聖教会』のエンブレムが描かれている。 その周囲を固めるのは、鎖帷子の上に白いサーコートを纏い、ハルバードを手にした数名の聖騎士たちだ。
「……チッ。朝から胸糞悪い連中がいるな」
クライヴ様が露骨に舌打ちをした。 その殺気を感じ取ったのか、馬車の重厚な扉が開き、一人の女性が降りてきた。
「――やはり。空間転移の魔力反応……ご帰還ですね、クライヴ殿」
純白の修道服に、金糸の刺繍が入ったストラをかけた、高位の聖職者と思われる女性だ。 知的な顔立ちに、銀縁の眼鏡をかけ、手には魔力を帯びた白い杖を持っている。 彼女は鋭い眼光でこちらを見据え――そして、クライヴ様に腰を抱かれている私を見て、ピクリと眉を跳ねさせた。
「……ほう? これは驚きました」
彼女は眼鏡の位置を直しながら、信じられないものを見る目で私たちを見比べた。
「あの『人間嫌い』で有名な大魔導師様が、わざわざ空間転移を使って、女性をエスコートして出勤ですか。 しかも相手は……貴族でもない、ただの平民の娘のようですが?」
彼女の視線が、私を品定めするようにじろじろと舐め回す。 (いや、見えないかもしれませんがこれでも立派な男爵家の令嬢だし)。 厳格な身分社会において、聖職者が平民を見る目は冷ややかだ。
「……グレンダ枢機卿か。何の用だ」
クライヴ様が私を背に隠すように前に出た。 その声は、私に向ける甘いものとは別人のように冷酷だ。
「私の敷地内に薄汚い馬車を停めるなと言ったはずだ。消し炭にされたいのか?」 「相変わらずの暴君ぶりですね。ですが、今日は公務です」
聖女グレンダ様は、怯む様子もなく一歩踏み出した。
「昨日、北の山脈で観測された異常な魔力反応……および、封印されていた『黒竜』の完全消滅について、調査に参りました。 あれほどの高位竜を一撃で葬り去る力……教会の認める『聖属性』でも『精霊魔法』でもない、禍々しい『闇』の力とお見受けしましたが?」
「…………」
「もし貴方が、教会が禁じている『深淵の闇魔法』に手を染めているなら、見過ごすわけにはいきません。 貴方を異端審問にかける必要があります」
異端審問。 その言葉が出た瞬間、聖騎士たちが一斉に剣の柄に手をかけた。 この時代、教会に背くことは死を意味する。たとえ英雄であっても例外ではない。
だが、クライヴ様の周囲に、バチバチと黒い雷が走り始めた。
「……面白い。神の威を借る狐風情が、私を裁こうというのか?」
彼はニヤリと凶悪に笑った。
「いいだろう。試してみるか? その仰々しい馬車ごと、お前たちが崇める神の御元へ送ってやってもいいんだぞ」
ヒィッ、と聖騎士たちが悲鳴を上げて後ずさる。 完全に「魔王」だ。 まずい。このままでは出勤初っ端から、塔の前が血の海になる。
私は意を決して、クライヴ様の背中から飛び出した。 二人の間に割って入る。
「――お待ちください! お二人とも!」
「ルチア?」 「貴女は……?」
私が割って入ると、二人の視線が集まった。 私はエプロンの裾を整え、精一杯の礼儀作法で挨拶をした。
「申し訳ありません、聖女様。 主人は少々……いえ、かなり朝の機嫌が悪いもので。売り言葉に買い言葉はそこまでにしませんか? 立ち話もなんですし、中でお茶でもいかがでしょう」
私の提案に、グレンダ様は怪訝そうに目を細めた。
「……家政婦風情が、この私に意見を? まあいいでしょう。どのみち、中を調べさせてもらうつもりでしたから」
彼女は私を一瞥すると、顎で塔の方をしゃくった。
「案内なさい。 ――そして、貴女が何者なのかも、じっくりと調べさせていただきますよ。 あの『魔王』に首輪をつけている飼い主さんが、どんな女性なのかをね」
彼女の言葉に、ドキリとした。 その視線が、私の右肩――シャツの下にある痣のあたりで、一瞬止まった気がしたからだ。
(……嫌な感じ)
「ルチア、無理に招き入れる必要はないぞ。私が全員追い払って……」 「ダメです。穏便に済ませますよ」
私は殺気立つクライヴ様をなだめ、重い鉄の扉を開いてグレンダ様を招き入れた。




