べそかいてたは余計だ
「……そう……。あの日は……、保憲もいた……」
視線を落とし、自らの掌をじっと見つめながら、晴朗は記憶を手繰り寄せた。静かな月明かりの夜に走る牛車の振動、幼い自分の手に触れていた滑らかな絹の感触。それは、どんな伝説にも載っていない、彼だけが持つ確かな熱量だった。
「どういうわけか後世になって、晴明と保憲で二つのエピソードに分裂したが、元々は同日に起こった出来事だった……。子どもの時のお前はヒヨコみたいで可愛かったよなぁ」
保憲は懐かしむように目を細めた。その視線は、目の前の大学生・晴朗ではなく、一千年前のあの夜、自分の袖を掴んでいた幼子・晴明に向けられている。
「……そりゃどうも。そういうお前だって、初めて死霊たちと遭遇してべそかいてた所は中々可愛かったぞ」
「べそかいてたは余計だ」
互いに軽口を叩き合う。そのやり取りが、乖離しかけていた晴朗の意識を、ゆっくりと「現在」へと繋ぎ止めていく。
「この伝説は……、陰陽師を知っている者であれば誰もが知っているであろう伝説だ。……俺のものとは違ってな」
保憲はふっと表情を和らげると、自嘲気味に笑った。
「地味で数も少なかった俺とは違って、お前の場合は特に、時代が下るにつれて伝説と現実の境界線が曖昧になってたと思うんだ。伝説の中のお前は『狐の子』だの、『化生の者』だの……。現実離れしすぎて実在を疑われるくらいにな」
そして晴朗の肩に軽く手を添えると、真っ直ぐに晴朗を見つめた。
「けれども、お前は確かにそこにいた。そして陰陽道の第一者として、陰陽師という失われた職業を現代まで語り継いでくれた。お前は『狐の子』でも『化生の者』でもない。安倍晴明という一人の人間。大膳大夫安倍益材様の子だ」
それは、形を変えて伝説となった一方で、自分だけは思い出として、しっかりと覚えているという誓いのような宣言だった。
「だから堂々と胸張ってろ。元スーパー陰陽師、安倍晴明様」
最後に保憲は軽く晴朗の背中を叩いた。するとようやく晴朗は強張っていた肩の力が抜け、その瞳にいつもの理知的な光が戻った。
「……さすがだな。保憲お師匠様は」
晴朗が無事に自分を取り戻したことで、賀茂親子もほっと胸を撫で下ろした。
しかし、それと同時に3人の中で、とある疑問が浮かんだ。
では、今京都にいる『自称・安倍晴明の生まれ変わり』は一体何者?
という疑問である。
「勝手に人の名前を騙られるのはあまり良い気分ではないが……、それとは別に、純粋に興味がある」
晴朗は壁にかけられているカレンダーに手をかけ、一枚捲った。
「12日の月曜が祝日で3連休……ここだな」
「2月の京都は寒いぞ」
「善は急げだ。いつぞやのインチキ野郎みたいに、また雲隠れされても困るしな。その前にさっさと正体を確かめる」
「確かめて……どうするんだ?」
「なぜ俺の名前を騙っているのか。……そして、もし、そういった力が本物であるのなら……聞きたいことがあるんだ」
「聞きたいこと……?」
保憲の問いには答えず、晴朗は早速スマホを取り出した。画面を叩く手つきは迅速で、先ほどのような迷いは一切見られない。
そんな彼の様子を見た賀茂親子は、一度顔を見合わせると、会話をせずとも何を考えているのか分かったのか。互いに無言で頷いた。
大膳大夫=典薬寮と同じ「宮内省」に属する、天皇の食事などを司どり、料理の準備や、調味料、食材の管理・製造を統括した官職「大膳職」の長官。正五位上相当。
「尊卑分脈」の安倍氏系図では、晴明のお父さんは「安倍益材」で、官職は大膳大夫。陰陽師ではなかったようです。
安倍晴明物語では「安倍保名」となっておりますが、こちらはほぼほぼ創作上の人物ではないかと思われます。母ちゃんが妖狐葛の葉なので……。
とはいえ、安倍益材本人の活動記録が一才見当たらないので、じゃあこっちが本当なん?と聞かれても「……多分」としか答えられない。個人的には益材はガチだったじゃないかなぁとは思っていますが……。そもそもあの系図自体が本当かどうか怪し……ゲフン




