そのスカした顔面に拳を一発叩き込みたいところですが
「お待たせしました」
「!」
しばらくすると、女性と一緒に、細身の男性が姿を現した。
黒い革靴にデニム素材のボトムス。深緑色のハイゲージニットを着て、大学教員時代は清潔感があった七三分けから、爽やかなセンターパートに変わっていた。
その男性、雨隙は、二人の顔を見ると驚いたように目を丸くしたが、すぐにやんわりとした笑顔を浮かべた。そしてまるで初対面であるかのように「こんにちは」と軽く会釈した。
大学教員時代とは見た目の印象が大きく変わったが、その立ち振る舞いや二人に向けてくる視線は、以前と全く変わっていなかった。
「あなたのお悩みに関しては彼が見てくれるから……、あとはお願いします」
女性が別室へと消え、雨隙は椅子にゆっくりと腰掛けた。
晴朗は膝の上に置いている拳が出てこないように強く握りしめて、負けじと爽やかな笑顔を顔に貼り付けた。
「大学教員から占い師に転職なさったのですね。よくお似合いですよ」
「……ありがとう。それで、家の中に女性の幽霊がいるかもしれないという相談だよね」
「はい。どうすればよろしいでしょうか」
嫌味を込めた賛辞の言葉は軽くあしらわれ、彼はあの時の出来事はなかったかのように、平然とした様子で晴朗の相談に乗り始めた。
「……そうだなぁ……普段だったら、素人でもできる除霊法だったり、必要であればお札を渡していたんだけど……」
「そのお札というのは……2枚で1組になるという護符ですか?」
「よく知っているね」
「ええ、以前、同じように護符と偽って、全く逆の効果を発する厭符を売りつけていたインチキ霊媒師がいたので……。おっと失敬、あなたのお札が偽物だと言っているわけではありませんよ」
再び嫌味のこもった言葉を吐くと、『インチキ霊媒師』に心当たりがあるのか雨隙の眉がぴくりと動いた。
だが笑顔は崩さずに両肘を机に置いて、重ねた両手の上に顎を乗せて探るように、ワントーン声を低くして尋ねた。
「……目的は? 報復かな?」
「まさか、そのような愚かなことは致しません。……本当は今すぐにでも、あなたのそのスカした顔面に拳を一発叩き込みたいところですが……。子どもがいるので……」
「だっ! ……」
『子ども』と言う単語に反応して、思わず智尋は大きな声で『誰が子どもだ!』と、文句を言おうとした。だが先ほどの保憲の顔を思い出し、慌てて自分の口を両手で塞ぎなんとか思いとどまった。恐る恐る智尋は隣に立っている保憲の顔を伺ってみると、彼はただ、険しい顔のまま雨隙を見ていた。
「できれば……自らの足で、行くべき場所へ行かれることをお勧めします」
「行くべき場所……とは? どこのことだろうか?」
事情を何も知らない智尋がいるためか、晴朗は表現を濁し河原毛村で起こした罪を償うように促した。だが雨隙は頷くどころか、首を傾げてシラを切った。
その厚かましい態度に、なんとか笑顔を取り繕っていた晴朗の額に青筋が立った。
「……先月、ご自分が行った愚行をもうお忘れになったのですか? 年忘れも大概になさった方が身のためですよ」
「そう言われても……記憶にないな」
何を言われてもしらばっくれる雨隙に、晴朗の顔からはついに笑顔が消え、怒りに満ちた顔で雨隙を睨みつけていた。それでも決して手はあげないように、机の下に置いている彼の右手は、左手によって爪が皮膚に食い込むほど強く握りしめられていた。
二人に険悪な空気が流れる中、何も知らない智尋は自らの口を塞いだまま、不安そうに晴朗の後ろ姿と不気味なほどにニコニコと微笑んでいる雨隙を交互に見ていた。
すると、これまでずっと静かに見守っていた保憲が突然、勢いよく左手を机に叩きつけた。




