第4話「ある雨の日の天使」
次の日の土曜日。
梅雨も終盤に差しかかり、朝から雨が降り続いていた。
中学1年生の堀田友樹は、大きな黒い傘を差してマンションを出た。
母に頼まれた冬物のコートを、駅前のクリーニング店へ取りに行くためだ。
「最悪の雨だな……」
こんな日に外へ出たくなどなかった。
駅前へ向かっていると、雨の中をふらふら歩いてくる少年が目に入る。
傘も差していない。
全身びしょ濡れだった。
「あれ……?どっかで見たことあるな」
顔をよく見る。
同じクラスの生徒だった。
――君野吉郎。
確か、そんな名前だ。
前かがみのまま近づいてきた君野は、堀田の前まで来ると突然その胸へ倒れ込んだ。
「おい!離せ!冷たッ!!!」
濡れた腕が胴へ回り、白いシャツまで一瞬で湿る。
「さむ~い……」
「うわあ!嘘だろ、おい……!」
シャツもズボンもびちゃびちゃだ。
「お前、どういうつもりだよ!俺に何か恨みでもあんのか!?」
思わず怒鳴る。
だが君野は答えず、額を堀田の胸へ押しつけたまま力を抜いた。
「おい。もしもし?……寝た?」
抱きついたまま動かない。
どういう状況だよ、これ。
苛立ちながらも、堀田は君野の顔を見た。
顔色が悪い。
「……お前、どうした?家に入れてもらえてないのか?」
「えへへ。ママは優しいよ。僕、ぎゅーって抱きつくの大好きなの」
無邪気に笑いながら、下から見上げてくる。
堀田は一瞬、言葉に詰まった。
「……とりあえず俺の家に来い。この格好じゃどうにもならねえ」
君野の手を引き、来た道を戻る。
その途中、堀田は首を傾げた。
――君野って、こんなやつだったか?
2ヶ月前。
入学式のあと、男子数人でアイスを食べに行った時に少し話しただけだ。
その頃の君野はサッカー部で、妙にストイックなやつだった。
「うわ、ザーザー降りだ……」
雨はますます強くなっていく。
我ながら、お人好しすぎる。
マンションへ戻ると、堀田は君野を風呂場へ放り込み、着替えを貸した。
「はあ……災難な日だな」
母のコートは、もうあとでいい。
昼も近い。
君野の親にも連絡しなければならない。
そう考えていると、
「堀田くん、堀田くん!!!」
風呂場から大声が聞こえた。
「なんだよ!」
廊下へ出た瞬間、風呂場のドアが開き、堀田の部屋着を着た君野が飛び出してきた。
「待て、おい!どこ行くんだ!」
君野はそのまま廊下を走り、開いていた一室へ飛び込んだ。
「あっ、そこは!」
叫ぶより早く、君野は小さなベッドへ飛び乗った。
「見て見て!すごい速いよ~!」
ぴょんぴょん跳ねるたび、まだ濡れた髪から水滴が飛ぶ。
「水で濡れてるうちは、どれだけ動いてもセーフなの!汗かかないから無敵状態なんだ!」
「意味分かんねえよ!下の人にも迷惑だろ!」
「あっ!」
君野が足を滑らせる。
「危ない!!」
堀田が咄嗟に手を伸ばしたが、2人まとめて床へ倒れ込んだ。
「なんなんだよ、もう……」
腰を打ちつけた堀田の上へ、君野が馬乗りになっている。
濡れた髪先から雫が落ち、堀田の頬を濡らした。
「あのなあ!!」
堀田は君野の首に掛かったタオルを掴み、その顔を引き寄せる。
目が合った。
「髪はちゃんと拭けよ!風邪引くだろうが!!!」
そのまま乱暴に髪を拭く。
「気持ちいい……」
君野は目を細め、無防備に頭を預けた。
堀田の脳裏に、入学式の頃の姿がよぎる。
サッカーの話を熱く語っていた君野。
今とはまるで別人だ。
――なんだこいつ、かわいいかよッッッ!!!
いや、待て。
何考えてる、俺。
男だぞ。
しかも、ほとんど話したこともない同級生だ。
動揺をごまかすように、さらに強く髪をこする。
「いたあい!」
「じっとしてろ。すぐ終わる」
ぶっきらぼうに言いながら、熱くなった耳を意識しないようにした。
やがて君野がぽつりと言う。
「堀田くん、ありがと……」
「いいから少し落ち着け」
「お腹減った」
「お前な……」
堀田は玄関脇から出前のメニュー表を持ってきた。
「僕、これ食べたい!」
「ラーメン?しょうがねえな」
嬉しそうに指を差す君野を見て、堀田はため息をつく。
「あ、そうだ。家の電話番号分かるか?親が心配してるだろ」
「電話番号……?」
「頼むから思い出してくれ」
何度か聞き直し、ようやく番号を聞き出した。
出前を注文したあと、そのまま君野の家へ電話をかける。
電話に出たのは、柔らかい声の女性だった。
事情を説明すると、君野の母は何度も謝った。
『事故のあと、たまに幼い頃みたいになるんです。先生には、幼児退行だろうって言われていて……』
「幼児退行……」
事故の後遺症で、君野はサッカーを続けられなくなった。
今の自分についてうまく思い出せなくなることもあり、その時は一時的な記憶喪失まで起こすという。
「うわっ!」
突然、君野が背中へ飛びついてきた。
「おい、やめろって!……あ、すみません。はい。飯は一緒に食いますんで。夕方で大丈夫です。駅まで連れていきます」
片手で君野を押さえながら、どうにか電話を終える。
「はい。それじゃあ、またあとで」
切った瞬間、堀田は振り返った。
「……あのなあ!!!!」
そのまま脇腹へ手を伸ばす。
「きゃははは!!!やめて、くすぐったい!!」
君野が床を転がって笑う。
その姿を見ていた堀田の表情が、ふと止まった。
視線の先。
棚の上に、1枚の写真が置かれていた。
笑っている、小さな男の子。
その横には、花や菓子、子ども向けの玩具が供えられている。
「友……」
「誰?」
君野が体を起こした。
「ああ。俺の弟」
堀田は写真を見つめたまま答える。
「ここ、弟の部屋なんだ」
「今、いくつなの?」
「5歳で、病気で死んだ」
君野の笑顔が消えた。
「だから、あいつがいた時のまま残してる。普段は誰も入らない」
「ごめん!」
君野は慌ててベッドから下りた。
「酷いことしたね。そんな気持ちも知らないで……」
「お前も病気なんだ。仕方ねえよ」
堀田は頭を掻きながら君野を見る。
「それに今のお前、ちょっと懐かしいんだ。弟を見てるみたいで」
「そうなの?僕、似てる?」
「ああ。元気だった頃にそっくりだ。この収拾つかない感じ」
「そっか!」
君野の顔がぱっと明るくなる。
「えへへ。お兄ちゃん!」
「!」
ふざけて言っただけかもしれない。
それでも、その呼び方は堀田の胸へ強く響いた。
止まっていた何かが、胸の奥で少しだけ動いた気がした。
堀田は動揺をごまかすように、やれやれと頭を掻いた。




