第37話「ひしゃげた運命」
「堀田くん……うう……」
12月。
冬休みを間近に控えた頃。
堀田が意識を失ってから、5日が経っていた。
けれど、まだ目を覚まさない。
右腕には点滴。顔には酸素マスク。
枕元のモニターだけが、ピッ、ピッと規則正しい音を刻んでいる。
君野はベッド脇の椅子へ座り、眠り続ける堀田を見つめていた。
この5日間、毎日のように見舞いへ来ている。
「堀田くん……目、覚めるよね……」
「ええ。彼なら、きっと大丈夫よ」
桜谷は静かに答えた。
堀田のことが心配なのは同じ。
だが、連日君野について来ている理由は、それだけではなかった。
病室を出ると、桜谷はすぐ君野の腕を引いた。
「早く出ましょう」
「トイレ?」
「違うわ。次に来る時も、必ず私を連れてきてね」
「え?うん!」
君野は素直に頷いた。
ここは、駅前の総合病院。
そして。
綾目がいる病院でもある。
搬送先を選んだのは、堀田の母親だった。
息子にできる限りの治療を受けさせたい。
きっと、それだけだったのだろう。
でも桜谷にとっては違う。
君野まで、綾目に触れさせるわけにはいかなかった。
「カフェに寄らない?」
「僕、今あんまりお腹減ってないんだ……」
桜谷は足を止めた。
「私に、あなたの時間がほしいの」
「……うん」
君野は真剣な顔で頷いた。
2人は病院を出た。
冷たい冬風が頬を刺す。
少し先にある、すっかり行きつけになったカフェの明かりが、今だけは避難所のように見えた。
窓際の席。
桜谷はアメリカンコーヒー。
食欲がないと言っていた君野は、メニューをじっと見つめていた。
「食べるの?」
「……何があるのかなって」
「食べたいなら食べなさい」
「でも、堀田くんは美味しいもの食べられないのに、僕だけ……」
「目を覚ました時、君野くんが痩せこけていたら、堀田くんがまた倒れるわ」
「そっか……!」
君野は何度も頷き、メニューを開いた。
しばらくして。
君野はコーラフロートを飲みながら、熱々のチーズリゾットを手で扇いでいた。
「桜谷さん、砂糖なしで飲めるの?すごいね」
「……」
その姿を見て、桜谷は少しだけ笑った。
そして。
決めた。
「……あのね、君野くん」
「ん?」
「これは、夜に見た夢の話だと思って聞いてほしいの」
「夢?」
「ええ」
カップを置く。
「私はずっと、君野くんと結ばれるのが運命だと思って生きてきた」
「……桜谷さんって、僕のこと好きなの?」
「ええ」
迷わなかった。
「大好きよ。今も」
「えっ!?」
君野がチーズを喉へ詰まらせ、激しく咳き込んだ。
「でも、言ったでしょう。そういう『夢』の話だって」
「……うん」
「私はあなたと、小学生の頃に薔薇色の思い出を過ごした」
桜谷は窓の外へ目を向ける。
「いつもの通学路に、小さな公園があるでしょう?」
「ああ。遊具が少ないところ?」
「そう」
遠い記憶を辿る。
「小学1年生だった私は、あそこで泣いていた」
「……」
「子どもながらに、もう人生が終わってると思ってた」
「え……」
「そんな顔しなくていいの。夢の話よ」
桜谷はほんの少し笑った。
「あの公園で、一番苦しかった時」
カップの縁を指でなぞる。
「あなたが、雑草で花束を作ってくれたの」
「僕が?」
「『この花は、笑顔の君に似合うと思うよ』って」
「……」
「だから今でも、あの公園を通るたびに思い出す」
嬉しかったこと。
苦しかったこと。
その後、自分がしてしまったこと。
全部が絡まりすぎて。
もう、自分でも綺麗にはほどけない。
「でも」
桜谷の目に涙が滲んだ。
「今は、君野くんに幸せになってほしい」
「桜谷さん……」
「それだけでいい」
何も覚えていない君野は、困ったように桜谷を見ていた。
当然だ。
これは、自分だけが抱えている長い夢なのだから。
桜谷は一度俯き。
もう一度、君野を見た。
「……堀田くんと幸せでいてね」
「桜谷さん!」
席を立った。
頬へ大粒の涙が流れる。
代金を置き、そのまま店を出た。
君野も反射的に立ち上がった。
けれど。
追いかけて、何を言えばいいのか分からない。
桜谷さんは、僕が好きだった。
それなのに。
ずっと堀田くんを心配して、見舞いにもついて来てくれていた。
『これは、夜に見た夢の話だと思って聞いてほしいの』
「……」
君野はゆっくり椅子へ座り直した。
テーブルの縁を見つめる。
頬へ、涙が1粒落ちた。
「あれ……」
どうして泣いているのか、自分でも分からない。
ただ。
胸の奥で、何かが終わった気がした。
まるで。
長い長い恋へ、自分も別れを告げたように。
冷めたリゾットは、ひどく飲み込みづらかった。
翌日。
堀田が意識を失って、6日目。
桜谷は1人で綾目の病室へ向かっていた。
黒のタートルネックにデニム。
脱いだコートを腕へ掛け、病院の廊下を歩く。
ここへ来た理由は1つ。
堀田と君野は、ほぼ同じ時にキーホルダーを壊した。
綾目が関わっている。
そして、堀田が目を覚まさないことにも。
何かあるはずだ。
確かめなければならない。
病室の前。
銀色の取っ手を握ると、腹の奥がきりりと痛んだ。
それでも。
桜谷は扉を開けた。
「あら、るりちゃん!いらっしゃい!」
病室の奥。
綾目は、薄汚れた『君野くん枕』を抱いていた。
頬をすり寄せ、愛おしそうに撫でている。
「覚えてる?るりちゃんが最後にこの病院へ来た日」
ベッド脇の丸椅子を指した。
桜谷は黙って腰を下ろす。
「……ええ。覚えてるわ。久しぶりね」
その瞬間。
「あっ」
綾目が桜谷のコートを奪い取った。
君野くん枕と一緒に抱き締め、まだ残っている体温へ鼻を埋める。
「ふふ……。あの枕を返しに来た時も、こうして久しぶりを味わったんだよねぇ」
「……」
彼女が言う『久しぶり』は、この数日の話ではない。
「るりちゃんが退院して、しばらくしてから」
綾目は楽しそうに続ける。
「久しぶりに来てくれたと思ったら、この枕を返しに来た」
「……そうだったかしら」
「理由、教えてくれなかったよね?」
「覚えてないわ」
「本当に?」
綾目が首を傾げる。
「1人で電車に乗って来たって言ってたのに」
「……あなたの支配と、決別したかったんじゃない?」
「じゃあ、変ね」
「何が?」
「また私に会ったら、影響されるかもしれないのに」
綾目の目が細くなる。
「わざわざ会いに来るなんて」
「……」
「ねえ、るりちゃん」
顔を覗き込まれる。
「さっきから瞬き、多いよ?」
喉が小さく鳴った。
「それとも」
綾目がにたりと笑う。
「本当に覚えてなくて、自分の記憶がおかしいって気づき始めた?」
「……っ」
その瞬間。
記憶が蘇った。
『裏切り者』
『でも、るりちゃんは私のお人形さんだから』
『また戻って来るに決まってるわ』
――小学5年生。
この枕を返しに来た日。
確かに、そう言われた。
「裏切り者」
「……!」
今度は、目の前の綾目が同じ言葉を口にした。
「昔のるりちゃんには、新しくすがる相手ができたんだよね」
「新しく……?」
桜谷は眉を寄せた。
「私には、昔から君野くんしかいないわ」
「そう」
綾目は嬉しそうに笑う。
「本物を見つけたの」
「……何を言ってるの?」
「偶然ね」
抱えていた君野くん枕を撫でる。
「この子と同じ、理想の君野くんを見つけた」
「……」
「私、堀田くんが来るまで知らなかったの」
綾目がまっすぐ桜谷を見る。
「君野くんって、本当に存在してたんだね」
桜谷の肩が震えた。
「……どういう意味?」
「覚えてないの?」
「……」
「『君野くん』って名前を、るりちゃんが適当に口にしたの」
綾目は枕を持ち上げた。
「それで2人で、この子を理想の王子様にして遊んだでしょう?」
「……やめて」
桜谷は立ち上がった。
そこから先だけは。
開けてはいけない。
「薔薇色の思い出」
綾目の声が、静かな病室へ落ちる。
「もし――」
いたずらっ子のように笑った。
「それが全部、私の植え付けた記憶だったとしたら?」




