第32話「運命共同体」
次の日は土曜日だった。
朝。
電車を降りた桜谷は、駅前の総合病院を見上げた。
「……はあ」
ついに、戻ってきてしまった。
今日の桜谷は、黒いスラックスに白いニット姿。髪も高い位置で1つに結んでいる。
自動ドアをくぐった瞬間、消毒液の混じった懐かしい匂いが鼻をついた。
「えっ!?瑠璃子ちゃん!」
受付にいた女性看護師が、驚いたように声を上げる。
「わあ、元気だった?」
「……お久しぶりです」
桜谷は愛想笑いを浮かべ、軽く頭を下げた。
この病院で過ごした頃の記憶は、ほとんど失われている。
それでも。
匂い。
廊下。
看護師たちの声。
ところどころに、身体だけが覚えているような感覚があった。
「綾目ちゃん、瑠璃子ちゃんのこと大好きだったから。きっと喜ぶわよ」
「……そうですか」
病室も昔と変わっていないらしい。
受付をあとにし、1人で病棟へ向かう。
不思議なことに、道順は覚えていた。
曲がる場所を考えなくても、足が勝手に進んでいく。
そのたびに、断片的な映像が脳裏をかすめた。
白い枕。
笑う綾目。
その腕に抱かれていた――。
「……駄目」
桜谷は足を止め、強く首を横へ振った。
思い出してはいけない。
今は、堀田をどうにかするために来たのだ。
彼は一体、どこまで綾目へ話してしまったのだろう。
病室の前で、1度だけ深く息を吐く。
銀色の取っ手へ手をかけた。
「……失礼します」
扉を開けた瞬間。
胸の奥へ、冷たいものが流れ込んだ。
――私は、確かにここにいた。
生気のない目をした、パジャマ姿の幼い自分が。
今も、すぐそこに立っているような気がした。
桜谷は病室の一番奥へ進む。
窓際のベッド。
そこに、綾目がいた。
枕へ寄りかかり、静かに外を眺めている。
「……綾目ちゃん」
「あら」
綾目はゆっくり振り返った。
「誰かと思えば。いらっしゃい」
穏やかに微笑み、ベッド脇の丸椅子を指す。
少し大人びた姿になっても、その面影は変わらない。
桜谷は椅子へ腰を下ろした。
だが、言葉が出てこなかった。
「私だって、すぐ分かったの?」
ようやく尋ねる。
「もちろん」
綾目は楽しそうに笑った。
「でも、どうして学校では3つ編みなの?伊達眼鏡までかけて」
「……」
「まるで、自分の心の中を誰にも見られたくないみたい」
先制攻撃だった。
桜谷は表情を変えず、静かに息を飲み込む。
「緊張してるの?」
綾目が首を傾げる。
「大丈夫よ。私と瑠璃子ちゃんの仲じゃない」
「……堀田くんを、どうして利用したの?」
桜谷は真正面から切り込んだ。
「私に会わせるため?」
「うふふ」
「何がおかしいの?」
「瑠璃子ちゃん、自分の意思でここへ来たと思ってるんだ」
「違うの?」
「ええ」
綾目の笑みが、少しだけ深くなった。
「あなたは今日、この時間に来るように、私が呼んだの」
「……」
綾目は背後に積まれた枕から、1つを取り出した。
「見て、るりちゃん」
白い枕。
黒いマジックで、3つの点だけが描かれている。
「この子はね、病院から出られない私の可愛い子」
桜谷は黙って見つめた。
表情を変えてはいけない。
何を考えているのか、悟らせてもいけない。
「堀田くんを、どうしてあそこまでおかしくしたの?」
「おかしく?」
「洗脳したでしょう」
「人聞きが悪いなあ」
綾目は笑った。
「瑠璃子ちゃんがここへ戻ってくる運命を、少し早めただけ」
「……運命?」
「そう」
綾目は別の枕を抱き上げた。
「ほら。君野くん枕」
頬を寄せ、嬉しそうに笑う。
「この子は、私たちの理想だった。そうでしょ?」
「……っ」
その言葉を聞いた瞬間。
閉ざされていた記憶の引き出しが、また1つ開いた。
君野くんと離れ、転校してしばらく経った頃。
私は、父親へ迷惑をかけたくなかった。
単身赴任中の父親のもとへ戻るくらいなら、病院にいた方がいい。
そう思った。
だから。
入院を長引かせるため、高い場所から飛び降りた。
骨折すれば、まだここにいられると思った。
けれど、それが周囲に知られた。
怪我が治ったあと、私は精神科病棟へ移された。
そこで隣のベッドにいたのが――。
木南綾目。
彼女は、その頃から変わっていた。
枕へ名前をつけ。
病棟の人間を、自分の世界へ取り込んでいた。
『ねえ、寂しい?』
『るりちゃんは、綾目のものだよ』
そう囁かれ。
まだ綺麗だった頃の『君野くん枕』を渡された。
――そこから先は。
ほとんど思い出せない。
「ねえ、君野くんは元気?」
綾目の声に、桜谷は我に返った。
「写真見たけど、可愛い男の子ね!」
「……ええ」
「堀田くんが教えてくれたわ。あなたとラブラブなんですって」
綾目が身を乗り出す。
「ねえ、馴れ初めを教えて。小学生の頃からだったわよね?」
「……小学1年生の頃、公園で出会ったの」
桜谷は慎重に答えた。
「君野くんとの思い出は、私にとって薔薇色だった」
「ふふ」
「私はあの頃、とても不安定だった。でも、君野くんだけは特別だった」
綾目の表情を見る。
どうやら堀田は、事故や呪いのキスまでは話していないらしい。
「やっぱり」
「何が?」
「私と瑠璃子ちゃんって、同じなのよ」
綾目はにんまり笑い、桜谷の両手を握った。
「だから、運命共同体」
「……」
次の瞬間、抱きつかれた。
桜谷は眉1つ動かさなかった。
「私は、もうここには戻らない」
冷たく言い切る。
「今日来たのも、堀田くんを元に戻すためよ」
「そうなの?」
「また来るかどうかも、私が決める」
「そうかなあ」
綾目は桜谷の肩へ顎を乗せた。
「私は、そうは思わないわ」
「……」
「ねえ、聞いて。瑠璃子ちゃん」
綾目は楽しそうに笑った。
そして。
桜谷が何を聞きに来たのかなど忘れたように、病院で起きた出来事を延々と話し始めた。
その声を聞きながら。
桜谷は、自分が再びこの部屋へ取り込まれていくような感覚を覚えていた。




