第30話「侵食」
その頃。
堀田は、木南綾目のもとへ何度も通うようになっていた。
今日も病室の丸椅子へ座っている。
ただし――。
「ホッタ! 今日もよろしくね!」
「おう……」
頭には、白い枕をすっぽりとかぶせられていた。
破れ目から飛び出した綿が顔へまとわりつき、前はほとんど見えない。
綾目の遊びに付き合わなければ、まともに話をしてくれないのだ。
最初は戸惑った。
でも今では、この時間にも慣れていた。
病院から出られない綾目が笑ってくれるなら、それでいい。
今日はとうとう、学校まで早退して来てしまった。
「今日の調子は?」
「ふふ。毎回聞かなくてもいいのよ! 重い病気があるわけじゃないんだから!」
綾目が笑う。
雑談をしているうち、いつものように君野と桜谷の話になった。
「私ね、君野くんはずっと、るりちゃんの妄想の中にいる子だと思ってたの! 本当にいたなんてびっくり!」
綾目は『キミノ』と呼ぶ枕を抱き締めた。
「その君野くんって、るりちゃんの理想の子?」
「そうだな。もう、大好きでたまらないって感じだ」
「そおなんだぁ。じゃあ、この子と同じ性格なのかなあ」
堀田が答えていると、綾目がふいに声を落とした。
「……傷痕、見つけた?」
「いや。桜谷の手にはなかった」
以前、綾目は桜谷の日記らしきものを見せてくれた。
そこには、小学生だった桜谷がこの病院へ長く入院し、綾目と出会ったこと。
母親の気を引こうとして、自分の手を傷つけたことが書かれていた。
だが、堀田が確認した限り、桜谷の手にそれらしい痕はない。
「ちゃんと見たぁ?」
綾目がベッドの上を這うように近づいてくる。
「アナタ、観察力が足りないのよ」
「うわっ」
枕越しに抱きつかれた。
「……なあ。桜谷は、ここでどんな子だった?」
「聞きたあい?」
耳元で綾目が笑う。
「だったら、私もホッタのこと知りたいなあ」
「俺の?」
「そのキーホルダー」
見えないうちに、バッグから何かが外される音がした。
「ああ、それか」
君野と交換した『弟』のキーホルダー。
「君野と交換したんだ。知り合った頃に、兄弟の証ってことで買って――」
気づけば堀田は、また君野の話をしていた。
いじめられていたこと。
一緒にアイスを食べたこと。
兄弟になった日のこと。
「やっぱり」
「何が?」
「ホッタ、寂しいんだ」
「……」
「るりちゃんの話より、君野くんの話してる時の方がずっと嬉しそう。愛情た~っぷり!」
「いや……」
「最近、君野くんはるりちゃんと一緒なんでしょ?」
堀田は黙った。
――確かに最近、あいつは桜谷につきっきりだ。
太ももの上で、右手を強く握り締める。
「そのキーホルダー、どうして兄弟なの?」
「……弟がいたんだ」
「いた?」
「死んだ」
そこから先は、自分でも驚くほど素直に言葉が出た。
「友っていうんだ。今の君野を、そのまま5歳にしたみたいなやつでさ。俺のこと『にんにん』って呼んで……」
声が震えた。
「すごく、可愛かった」
「うん」
「俺……死に目に会えなかったんだ」
言うつもりなんてなかった。
それなのに、言葉が止まらない。
「どうして?」
「俺も小学生で……夕方のアニメが観たかったんだ。母親に、病院へ行くの30分待ってって言って……」
息が詰まる。
「その間に容体が急変した。着いた時には、もう意識が戻らなくて……」
「自分が悪いって思ってるの?」
「……」
「ホッタ?」
「苦しい時には絶対駆けつけるって約束したんだ」
堀田は顔を覆う枕へ額を押しつけた。
「ヒーローバッジまで渡したのに……」
「辛かったわね」
綾目の声は、驚くほど優しかった。
「誰にも言ってないこと、話してくれてありがとう」
「……」
どうして、こんなことまで話した?
自分から?
それとも――。
「病室にいる私になら、何でも話していいのよ」
綾目が堀田の手を握った。
「私は外へ言いふらせない。誰にも連絡できない」
枕越しに、頭を撫でられる。
「ここは、ホッタの心のオアシス」
カチャ、とペンの音がした。
「何してんだ?」
「動かないで」
白い枕へ、何かが描かれていく。
「ようこそ、妖精の国へ」
やがて綾目が枕を外した。
久しぶりに視界が開ける。
「ほら」
歪んだ目と口が描かれた白い枕を、目の前へ差し出される。
「弟くん、ここにいるわ」
「……」
堀田の顔は、涙と鼻水でぐしゃぐしゃだった。
それでも。
差し出された枕を、両腕で強く抱き締めた。
「それ、あげる」
綾目が囁く。
「あなたの弟よ。ずっと、肌身離さず持っているの」
その直後、面会終了を告げる看護師が来た。
堀田は白い枕を抱え、病室を出た。
病棟の廊下を歩く。
白い壁。
並ぶ扉。
行き交う看護師たち。
いつもの景色。
歩く。
ただ、歩く。
どこまでも――。
「……?」
堀田は足を止めた。
目の前にあったのは、病院の廊下ではなかった。
自宅。
亡くなった弟の部屋。
「……さっきまで、どこにいた?」
返事はない。
写真立ての中で、友が笑っている。
その前には、今日も菓子が供えられていた。
堀田が毎日買い、封を開け、弟の利き手側へスプーンまで置いている。
「……ごめんな」
毎日手を合わせても、後悔は消えない。
むしろ、少しずつ重くなっていく。
「俺が……代わってやりたかった」
「大丈夫」
「……!」
背後から、女の声。
「あなたは、何にも悪くない……」
堀田が振り返る。
そこに――。
病院のパジャマを着た綾目が立っていた。
穏やかな微笑みを浮かべたまま、ゆっくりと近づいてくる。
そして。
堀田へ向かって、静かに手を伸ばした。




