第23話「受難の誕生日前日」
その日の放課後。
桜谷は堀田と並んで、君野の家へ向かっていた。
明日は、リコーダーの追試。
急な早退で楽器を学校へ忘れた君野のため、2人で届けることになったのだ。
「今日は妙に気が合うわね」
桜谷が皮肉を飛ばす。
「お前ってさ、君野以外に好きなものあるのか?」
「ないわ」
「好きな色は?」
「ない」
「君野の好きなところは?」
「全部」
「そうか……」
堀田は頬をかいた。
「気が済んだ?」
「いや。遊園地で言ってた『メルヘンなものを置くような女になりたかった』って言葉が、ずっと引っかかっててさ」
「あなたには関係ないわ」
「俺は、お前が好きだ」
「……何を言っているの?」
桜谷は冷たく返した。
「本気だ」
堀田が1歩近づく。
「お前は、愛を知らないだけなんだ」
「……ふざけないで」
言葉の意味は分かる。
恋愛ではない。
ただ、この暑苦しい男は自分を放っておけないと言っているだけだ。
「私は、あなたが大っ嫌い!」
吐き捨てた、その時。
「ワン!ワン!」
「きゃっ!」
すぐ横の柵から、大きな黒い犬が吠えた。
桜谷は反射的に後ずさる。
「おい、大丈夫か?」
柵の向こうにいたのは、人懐っこそうなラブラドール・レトリーバーだった。
堀田は隙間から手を伸ばし、頭を撫でる。
「めちゃくちゃ可愛いぞ」
「先に行って。私、遠回りするから」
「君野の家、もう目の前だろ」
「少し前までは平気だったのよ……」
「ああ。なるほどな」
山で野犬に囲まれたばかりだ。
堀田は小さく息を吐くと、突然桜谷を抱き上げた。
「何するの!」
「ここ通れなきゃ帰れないだろ!」
「離しなさいよ!」
「お姫様抱っこで記憶を上書きすりゃ、犬なんかどうでもよくなるかもしれないぞ!」
「ならないわよ!」
堀田は犬へ笑いかける。
「こいつ、吠えられるの怖いんだってさ。今度は静かに見守ってやってくれ」
犬は吠えるのをやめ、その場へ座った。
十分離れたところで、ようやく桜谷は地面へ下ろされた。
「はあ……嫌い」
「さあ、リコーダー届けるぞ」
何事もなかったように歩き出す背中を、桜谷は見つめた。
――本当は桜谷さんを覚えていたけど、サッカーを取った。
観覧車で、君野くんはそう言った。
中学校で再会した時、彼は私を「知らない」と言った。
でも、本当は覚えていた。
私たちは小学生の頃、あんなに仲が良かったのに。
どうして、サッカーを選んだの?
なのに彼は、何度忘れてもまた私を好きになる。
「……好き?」
違う。
罪悪感……?
私を傷つけたから。
だから、そばにいるだけ?
彼は本当に私を好きなの?
もう分からない。
呪いは解けたのか。
それとも、今から始まったのか。
それでも。
幼い頃の君野くんを見続けなければ、自分が何者なのか分からなくなりそうだった。
「あれ?まだ帰ってきてないみたいだな」
君野の家に着いたが、インターホンへ反応はなかった。
2人はリコーダーをポストへ入れ、玄関へメモを残す。
「じゃあな。また犬怖くなったら呼べよ」
「こんな記憶、すぐ消してやるわ」
堀田は無邪気に笑った。
「またな!」
……本当に迷惑な人。
人の卑屈な心を、もっと惨めにする天才ね。
翌朝。
「おはよう、君野くん」
桜谷は駅前を歩く君野へ声をかけた。
「……おはよう」
「どうしたの?体調悪い?」
「ううん……」
君野は明らかに落ち込んでいた。
「……昨日、見ちゃったんだ」
「何を?」
「車で帰ってきた時、桜谷さんが堀田くんにお姫様抱っこされてるところ……」
「それが、どうかしたの?」
桜谷は平静を装った。
「……どうして?」
「嫉妬してるの?」
君野は黙り込んだ。
大きな瞳が涙で潤み、頬もわずかに赤い。
「僕が男らしくないから……。おんぶも、お姫様抱っこも、とっさにできないし……」
「君野くん……?」
「あ、あのね、桜谷さん……」
「何?」
「……ちゅーしたい」
「え?」
「僕の彼女なんでしょ?」
甘えるように首を傾げる。
「……触りたい。ちゃんと僕の彼女なんだって思いたい」
なぜ?
ここ数日、何もできなかったのに。
「だ、駄目じゃないけど……」
「ここでするの、恥ずかしい?」
「……」
「じゃあ、桜谷さんの誕生日にしてもいい?」
「何でキスしたいなんて思ったの?」
「……可愛いからだよ」
「かっ……!」
桜谷は咳払いでごまかした。
顔が熱い。
「わ、分かったわ。明日の誕生日にキスしましょう」
「本当?やった!」
君野がその場でぴょんぴょん跳ねる。
「私のこと、そんなに好き?」
「うん!好き!」
「堀田くんよりも?」
「うーん……。明日ちゅーしたら、もっと分かるかも!」
君野はにこっと笑った。
こんなもの、知らない。
知らないはずなのに。
どうして、こんなに嬉しいの?
もし、これが本当なら。
もう、リセットしなくていいの?
その時初めて、自分の本音を聞いた気がした。
教室へ入ってからも、君野は露骨だった。
「ねえ、桜谷さん。しりとりしよう」
「いいわよ」
「マンボウ」
「う……うなぎ」
「銀行」
「う……牛」
「資料!」
「また、う……?」
君野は「う」と言うたび、桜谷の唇を見つめている。
「……何か顔についてる?」
「ううん!『う』だよ?」
「う……宇宙」
「ちゅう!ネズミ!ちゅー!ちゅー!」
「……君野くん。明日まで待ってね」
「うん!」
「明日はキスをする日じゃなくて、私の誕生日なのよ」
桜谷は少しだけ声を落とした。
「とても大切な日なの。君野くんが、そう教えてくれたのよ」
「僕が?」
「事故で覚えていないだけ」
桜谷は続ける。
「小学生の頃、私、君野くんに祝ってもらうまで誕生日というものを知らなかったの」
「え?どうして?」
「母は、父が出張している間に浮気していたわ。その間、私は邪魔者扱いされていたから」
「……ひどいね」
「昔の話よ」
桜谷は目を伏せた。
「そんな私に、君野くんが公園の砂場で砂のケーキを作ってくれたの。枝をろうそくにして」
「じゃあさ!」
君野の目が輝く。
「明日もやろうよ!砂のケーキ!」
「え?」
「誕生日は楽しいものだって、いつお祝いしても思えるように!」
「……そうね」
胸の奥へ、温かいものが広がった。
「すごく、嬉しい」
「泣いてる !?」
君野は慌ててポケットを探る。
出てきたのは、未使用なのにぼろぼろのティッシュだった。
「これは駄目だ……」
「大丈夫よ。ありがとう」
桜谷は自分のハンカチで涙を拭った。
神様。
ここまでさせておいて、当日になって彼の記憶を消すつもり?
そんなことをしたら――。
あなたの首をへし折りに行くわ。
桜谷はハンカチを強く握り締めた。
午前中の体育。
短距離走の列で、君野と堀田は前後に並んでいた。
「君野。桜谷の誕生日プレゼント、考えてるか?」
「うん、考えたよ!」
「そうか。なら安心だな」
「堀田くんも渡すの?」
「いや、俺は……。もらっても喜ばないだろ」
「絶対喜ぶよ!」
「そうかあ?」
堀田は頭をかいた。
昨日一緒に帰って、改めて思った。
桜谷だって、普通に怖がるし、怒るし、傷つく。
ただの敵じゃない。
「んー……まあ、やめとく」
「えー!」
「俺がプレゼントして喜ぶとしたら、お前を渡すくらいだろ」
「えへへ!僕を箱に入れたら完璧かな!」
「そのままラッピングだな。『私がプレゼントだよ』ってやつ」
「それやろうかな!堀田くん、僕を包んでよ!」
「嫌だ!」
「えー。いい案なのに!」
「俺が許さないしな!」
「何で?」
だって、俺が欲しいから。
――とは、言えなかった。




