第15話「もしも…」
夏の日差しが、容赦なく降り注いでいた。
夏休みまで、あと1週間。
日曜日、堀田は近所の空手教室へ向かって歩いていた。
そういえば、美咲はあれから桜谷へ嫌がらせをしなくなった。
むしろ、自分から避けている。
……何があったんだ。
「きゃー!」
道端では、近所の子供たちが水鉄砲で遊んでいた。
「あっつ……」
このままでは倒れそうだ。
暑いと思うから暑い。
堀田は体育会系の精神論で、無理やり楽しいことを考えた。
楽しいこと。
今、君野がここにいたら――。
「ん……?」
陽炎の揺れる橋の向こうへ目を凝らす。
「あれ?君野!」
空手で精神を鍛えすぎて、とうとう幻覚まで見えるようになったのか。
君野が、あの雨の日を思わせる足取りでふらふらと歩いてくる。
まるで意思のないゾンビだった。
「君野!」
呼びかけても反応がない。
堀田は近づいてきた君野の肩を掴んだ。
「おい!」
「……あれ?」
ようやく目に生気が戻る。
君野は辺りを見回した。
「ここ、どこ?」
「またかよ……」
半袖に短パン、足元はサンダル。
財布も、連絡手段もない。
また幼児退行のような状態で、ここまで歩いてきたらしい。
炎天下を歩き続けた顔は真っ赤だった。
「……とりあえず、空手は休むか」
堀田は君野を連れ、近くの喫茶店へ駆け込んだ。
堀田はスマートフォンを取り出し、君野の母親へ電話をかけた。
向かいでは、君野が呑気にクリームソーダを食べている。
冷たいものを口へ運ぶたび、みるみる元気になっていった。
母親はパート先が忙しく、すぐには迎えに来られないらしい。
堀田が責任を持って家まで送り届けると伝えると、何度も礼を言われた。
「堀田くん、食べる?」
「ん?」
君野がビニール袋を差し出した。
「何だ、それ」
「お惣菜みたい」
「みたいって……まさか盗ってきたんじゃないだろうな」
「違うよ」
君野は首を横へ振る。
「僕、近所でちょっとした名物になってるんだって」
「名物?」
「気づいたら、商店街のコロッケとか、お団子とか、お菓子を持ってることがあるの」
「何でだよ」
「すごく愛嬌を振りまいてるみたい」
「この酷暑の中、何時間もコロッケ片手に歩いてきたのかよ……」
堀田は呆れながらも、君野の状態が気になった。
少し休ませるため、そのまま自宅へ連れていくことにした。
「わあ!エレベーターが2つもある!」
「そんなに珍しいか?」
2人は7階にある堀田の家へ向かった。
部屋へ入った途端、君野が鼻を動かす。
「ああ、この匂い!堀田くんの家だ!」
「またお前と来ることになるとはな……」
デジャブすぎる。
堀田は君野を椅子へ座らせた。
君野は体ごとくるくる動かしながら、物珍しそうに部屋を見回している。
「あ」
視線が本棚で止まった。
そこには『幼児退行』『マインドコントロール』『記憶喪失』などの専門書が並んでいる。
「ああ、これな」
堀田は1冊取り出した。
「少しずつ読んでるんだ。難しいけど」
「お医者さんみたい!」
「将来、医者になるのもいいかもな」
「本当?」
「こういう病気を治せたら格好いいだろ」
「堀田くんがお医者さんになったら、僕、いっぱい通う!」
「いっぱいは通うなよ!」
堀田は吹き出した。
相変わらず。
かわいいか……!
「ねえ。コロッケ、食べる?」
君野がビニール袋を差し出した。
「家族で食べて!」
「いいのか?ありがとな」
堀田は冷たくなったコロッケを受け取った。
さて。
何をするか。
この部屋にはテレビもゲーム機もない。
「あ」
堀田は何かを思い出し、机の棚を探った。
取り出したのは、1つのカードゲーム。
「これ、やるか?」
「何それ?」
「友達の忘れ物だ」
箱を開ける。
「カードに書かれた台詞を、指定された気持ちで言うんだ。相手は、どういう意味で言ったのかを当てる」
「やりたい!やりたい!」
「じゃあ最初は、俺が当てるからな」
堀田はカードを机へ広げた。
君野が1枚引く。
カードを見つめたあと、上目遣いで堀田を見た。
「これで終わりだね!」
堀田は少し考える。
「文化祭の片づけが、ようやく終わった。だな?」
「正解!」
君野は頭の上で大きな丸を作った。
その後も、君野が問題を出し、堀田が答える。
正解したカードは、笑ってしまうほど高く積み上がった。
「堀田くん、このゲーム得意なの?」
「いや」
堀田は当然のように答える。
「君野だから分かる。外す気がしない」
「ふふふ」
君野が小悪魔のように笑った。
残っているのは、最後の1枚。
「じゃあ、最後いくよ」
君野はカードを胸元へ隠した。
さっきまでとは違い、なかなか口を開かない。
やがて小さく咳払いした。
「大好きだよ」
堀田の動きが止まった。
嬉しい。
そう思った瞬間。
――ど変態。
桜谷の声が、耳の奥で蘇る。
違う。
俺は――。
堀田は視線を逸らした。
「……家族に言うやつ、とか?」
「不正解」
「じゃあ、クラスメイト?」
「違う」
「友達に言うやつか?」
「もう!」
君野は頬を膨らませた。
「全然違う!」
太ももの上で、「大好き」と書かれたカードを揺らす。
「ごめんな」
堀田は慌てて言った。
「俺も、さすがに疲れたんだよ」
「……」
「どうしたんだよ。ゲームだろ?」
「ここまで全部分かったのに」
君野は俯いた。
「どうして、僕の『好き』だけ伝わらなかったんだろうって思っただけ」
「……あれは事故だよ」
堀田の声が硬くなる。
「今までのことも、全部事故だ」
――兄のふりをして近づくなんて。
違う。
そんなつもりじゃない。
俺は変態でも、卑劣でもない。
「もう1回、同じの言う」
君野はカードを握り締めた。
「今度は、ちゃんと当てて」
「お、おう」
再びカードを胸の前へ掲げる。
「だ……」
だが、続かなかった。
「だい……す……」
唇だけが震える。
最後まで言えず、カードを太ももの上へ下ろした。
「泣いてるのか?」
君野の頬を、涙が伝っていた。
堀田は指先でそっと拭う。
「何でだろう」
君野は困ったように笑った。
「僕、罪悪感を感じてる。でも、どうしてなのか分からない」
「もういい」
堀田は優しく言った。
「ゲームはやめよう」
「違う!」
君野はきつく目を閉じた。
「これは、ゲームなんかじゃない!」
首を大きく横へ振る。
「ちゃんと聞いてよ!」
顔を上げた。
「大好きだよ!」
「……君野」
堀田の声が震えた。
その目を見続けることができない。
返事を探す。
けれど、見つからなかった。
「俺も、愛してるよ」
少しだけ間が空く。
「……兄弟としてな」
「……うん」
君野がかすかに笑った。
「正解。答えは、兄弟に言う『大好き』だよ」
「そ、そうだよな」
堀田は胸を撫で下ろした。
これでよかった。
これで、いいはずだ。
「ちょっと、トイレ行ってくるね」
「ああ。玄関の近くにあるからな」
君野が部屋を出ていく。
もうゲームは終わりでいい。
堀田は机のカードを片づけ始めた。
ふと、最後の1枚の端に小さな文字があることに気づく。
――好きな人へ。
「……」
カードには、君野が強く握り締めた爪痕が残っていた。
ぽたり。
堀田の涙が落ちる。
黒いインクが滲み、「好きな人へ」の文字がゆっくり崩れていった。




